てのひらのうえ

ロセ

第1話

 昔から知りたがり屋の子どもだった僕は気になることや分からないことがあれば、よく本を使って解決していた。

 大人に聞くことは考えもしなかった。僕にとって大人とは極力関わりたくない相手だったからだ。

 同い年の子たちが絵本を読んで想像力を鍛え上げる中、僕は質問と答えが一緒に載った本を読んでは、一人覚えたことを頭の箪笥の中にしまい続けて来た。

 そうすればふと疑問に思ったことがあっても、自分で答えを取り出せると信じていたからだ。実際、疑問の答えは海馬という箪笥からするりと這い出て来た。

 ただ問題というか、僕でも予想していなかったことが一つだけあった。

 僕はどうも”一度、刷り込んだものをけして忘れない”性分らしかった。

 僕の性格からして、これは逆に良かったことだった。けどその奇特さを僕の両親のどちらとも気付くことはなかった。しょうがないことだ。母はいつも幽霊のように過去に囚われていて僕を見ず、父はいつも透明人間のように場に溶け込んでいて、僕を見ているのかも分からない。

 僕が周囲とすこし変わっていることを知っていたのは、母方の従兄だけだった。従兄は僕が住むアパートから家が近いこともあってか、ちょくちょく僕の家に泊まりに来た。

 従兄のお母さんは彼が幼稚園に上がる前に、亡くなってしまったらしく、それからは従兄のお父さんであり、僕の母のお兄さんに当たる伯父が一人で従兄を育てていた。けれども、やはり一人で子どもを育てるには何かと難しい時があってそういう時、伯父は僕の母の元に従兄を預けにやって来る。

 最初こそ従兄を苦手視していた僕だったけど、彼の朗らかで優しい人柄に触れてからはよく後ろをついて回るようになった。従兄は親鳥の後を追う雛のような僕を一度も邪険に扱わず、母より母らしく面倒を見、兄弟のように一緒に遊んだり、怖いものから守る盾になってくれた。

 近くにいることが多くなり、僕は二つしか違わない従兄が時々、遠くを見つめては、そこに自分をぶくぶくと沈めていることに気が付いた。

 そうなってしまうと、いくら名前を呼んでも従兄は振り返ってはくれない。耳元で大きく名前を叫ぶか、もしくは肩を揺すってみるとか。そういう強引な手でしか、彼は簡単にこっちに帰って来てはくれなかった。

 どうして従兄がそうなるのか、何度も考えはするのに答えはいつも箪笥から出て来なかった。だから僕はこの問題を解くことを諦めることにした。

 いいや、いつか分かるだろうとそう思っていた。しかし時は僕の甘い考えを許してはくれなかった。

 その日が来たのは夏の盛りのことだ。その時も伯父が二、三日の出張の為に家を空けてしまうからと従兄が家に泊まりに来ていた。

 母は僕と従兄に簡単なチャーハンを作って食べさせると、自室に引きこもり、書道具とにらめっこをしていた。暇を弄ばせた僕ら二人は水道水とキッチン用洗剤でシャボン溶液を作り、先日かき氷を食べた名残のストローをハサミで半分に断ち切り、片方の先端に縦の切れ目を入れてシャボン玉用のストローを作った。

 二つが揃うと、僕は従兄と顔を見合わせ、母に一声かけて洗濯物が風で揺れるベランダへと出た。

 ストローを紙コップに入った溶液に軽くつけて、液がついていない方に口をつけ息を吹き込む。と、息を吹き込んだ先でぷく、とシャボン玉が膨れ、そっとストローから体を離して空に上って行く。

「すごいね」

「もっと作ろう」

 僕と従兄は手が溶液でべとべとになるのも構わずに、シャボン玉を作って行った。いくつものシャボン玉が空へ上って行く姿は壮観で、身震いしてしまいそうなほどに綺麗な景色だった。

 透明な球体を透過して来る太陽の光に手で影を作り、見上げた空は澄んだ青だった。一面の青。どこまでもどこまでも続く青。胸がすかっとするような気分のいい青。今日に限っては雲一つもない。それがまた青の美しさを際立たせていた。でもどうして空は青色なのだろう。

 クレヨンの色だって、絵の具の色だって、十二色はある。もっと値段がするものになれば百色もあるのに、空はどうして青色になったんだろう。

 シャボン玉を吹くことも忘れて、僕はなかなかの難題に頭を茹だらせていた。

「さくたろう?」

 顔を上げると従兄は心配そうに、「気分悪くなった?」と聞いて来る。僕はそんな彼の顔をまじまじと見て閃いた。

 そうだ、あきふさくんに聞けばいいんだ!

 従兄はもう塾にも通い始めていて、小学校から貰って帰って来た最初のあゆみもたいへん良かったと伯父が自慢げに話していた。

「あきふさくん」

 名前を呼ぶ僕に、従兄は微笑みで応じる。そのやり取りに僕はまた従兄であれば、と期待を寄せる。

 それが後々、どんな痕を残すかも知らずに。

「そらはどうしてあおいの?」

 僕は待った。ひたすらに待った。ちくたくと時が流れて行く音を聴きながら、従兄が答えをくれるその時を利口な犬のように待ち続けた。だけど、いくら待てど答えは返って来なかった。

 それどころか、従兄の顔から笑みがどんどん消えて行ってしまうのだ。

 何かが手遅れになりつつあることは分かる。けど従兄の顔から笑みが消える理由がサッパリ分からない。

 いつの間にか、僕の頭に居座っていた問題は姿を変えていた。

 しかしその問題を解くのも、また簡単なことじゃなかった。簡単であるわけがなかった。

 容赦のない夏の光がじくじくと背中を刺す中、そろりそろりと人目を気にするようにある思い出が頭をよぎった。

 冬の寒い日の思い出だ。その日、従兄は出張から帰って来た伯父と自宅に帰ろうとしていた。母は見送りをと玄関におり、僕は従兄にバイバイを言おうと思って、居間からタイミングを窺っていた。

 従兄は靴を履くその前に、ランドセルからあるものを取り出しておずおずと伯父に渡した。

 すると伯父は眉間に皺を作って、従兄にそれを返した。

「どうしてこんな点数を取ったんだ」

 厳しい声に従兄は黙った。

「ちゃんと予習はしたのか? 復習は?」

「したよ」

「なら、こんな点数になる訳がないじゃないか」

 従兄は鼻を啜らせた。伯父は黙ったままの従兄にはあと溜息を零して、玄関のオレンジっぽい明かりを浴びる。

「秋房、いいか。父さんはお前が嫌いだからこういう事を言うんじゃない。お前が次の団の跡取りとして恥ずかしい思いをしないように、と思って、厳しいことも言うんだ。団の跡取りに求められるのはそう易しいものじゃない。だから今の内からこつこつと頭を、精神を磨いておかなくてはいけないんだ。父さんの言っていること、分かるか?」

「……、分かるよ」

「なら父さんとした約束、言えるな」

 従兄の体が左右に小さく揺れる。それを伯父が両手で抑えた。

「一番でありつづけること」

「そうだ、常に一番でありなさい。そうすれば、団の跡取りになっても何も難しいことはないから。帰ったら、今回出来なかった部分の復習を父さんとやろう。な?」

「うん……」

 枯れた声で頷く従兄と、満足そうに眼鏡の奥の目を細める伯父。

 その親子のやり取りがどの思い出よりも鮮明に僕の頭に残っていた。

 秋房くんはいつも一番でいなくてはならない。何もかも知っていて、何にでも答えられる。そんな神さまみたいな技術を身に付けなければいけない。

 が、そうなること、そうであり続けることを伯父さんと約束したのに、彼は今、答えることが出来なかった。たかだか二歳年下の僕の問にでさえ。

 そうだ、僕は秋房くんを刺したのだ。

 一番で居続けようと努力する従兄を、あの冬の日風邪を引いていたことも言えず、テストを受けて満足な結果を残せず、伯父に叱られた従兄を僕は遠慮なく刺した。

 そのことに気付いた時、後悔は僕の真後ろに立っていた。

 だけども、いくら僕がこれだけはしてはいけなかったことだと反復し反省をしても、もう過ぎた時は帰って来ない。過ぎた時からまた一秒を刻んで行く。

 僕に出来ることは一刻も早く、従兄に謝ることだった。今にも泣き出しそうになるのを我慢して、「あきふさくん」と従兄を見る。

 従兄は苦悶に苛まれた顔で、遠くに自分を沈めていた。その顔に僕は静かに悟った。ああ、そうか。秋房くんが遠くを見る時は、きまって生き苦しい時なのか。

 分からなかったことが分かって、僕は泣いた。

 僕は馬鹿だ。とびきりの馬鹿だ。


  ・

  ・


 ダ、ダダン。

 抑揚のついた音楽は掃除時間にのみ流れる曲で、題名は『春の声』というらしい。明るく、酒場でダンスをしているような軽快さがあってなかなかいい曲だ。

 一つにまとまった音は細分化すると幾つもの楽器のパートに分けられるのだろうけど、この一曲を弾くためだけに互いの呼吸を合わせ、最初から最後まで完璧な演奏をするのはとても大変なことだろう。

 そう考えると、音楽は努力と練習によって初めて成り立つ芸術のように思えた。僕には一生関わることが出来ない分野だ。

 持っていた箒の柄に顎を乗せ、うんうんと頷く。

「堂々とサボるなよ、サク

 苦笑する声に背後を見れば、髪を短く整え、人の好さそうな雰囲気を空気に溶かす従兄――秋房くんがいた。

 相変わらず従兄が纏う空気は模範的だ。ほかの男子生徒たちがシャツの裾を外に出す中、彼は律儀に校則に並んだ文面を守り、しっかりとズボンに仕舞っている。そこに生真面目さのようなものは感じなかった。それどころか、本来の正しさをより美化させていた。

 才能とはまた違う。持って生まれた味のような物だろうと僕は思った。

「起きてる?」

 片手に持ったバインダーを小脇に挟みながら、従兄はちょっと困ったような顔を浮かべた。

「起きてるよ、ちゃんと」

「それは良かった。で、朔は何をしてるの?」

 僕は眉間に皺を寄せる。

「一応言っとくけど、サボってはないよ」

「じゃあ?」

 僕は言葉を詰まらせて、熱っぽい風が出入りする窓に視線を向けた。

「芸術に心打たれてた」

「……、朔は言い訳が下手だね」

 秋房くんはばっさりと僕の言い訳を断ち切って、「今年の集まりはどうする?」と毎年憂鬱になる問題を尋ねた。

「行かなきゃ駄目?」

「今年が最後っていう話だけど」

 顔を顰める。そんな話を聞かされたんじゃ、行かないなんて言えないじゃないか。

 黙り込む僕に、従兄はこう続けた。

「どうなるかは分からないよ。お医者さまでさえ、はっきりとした日にちが分からないんだから」

 冷たい声に僕はどきりとした。あの夏の日から続く反省と後悔が僕の後ろに迫り来ているような気がしたからだ。

 とはいえ、思い出は長い月日の間にトラウマに姿を変えていたが。

「そういえば、アカツキくんも来るそうだよ」

 秋房くんの口から出た名前に僕はまずい顔を浮かべる。

「暁くんも?」

「父さんの話ではね」

 ますます行きたくなくなった。眉間に皺を作る僕を見て、秋房くんは面白おかしそうに肩を揺らし笑っている。

「面白がらないでよ」

「悪い。俺はわりと暁くんのこと好きだけど何が駄目なんだろうな」

 それは秋房くんの性格があってこそだ、と僕は思う。そもそも親戚の輪にすら一人で入っていけないような人種の僕に、思ったことをそのまま口に出来る人種の暁くんは合わない。しかも暁くんは大昔、秋房くんの後ろに隠れる僕に向かって『金魚の糞か、お前は』と罵倒を放っている訳で。

 この件がなければ暁くんと仲良く出来ているのかと聞かれると、僕は口を閉ざす他ない。暁くんはなんというか、僕の苦手要素がつまって出来たような人なのだ。荒っぽい言動や人をせせら笑うような小憎たらしい笑みは言わずもなが。

 だけどそれは要素の一つずつに過ぎず、決定打にはならない。僕が彼を駄目だと思うのは、彼が実の父親へ向ける目を見てからだ。

 暁くんがその目をしたのは、彼が僕に投げた暴言から勃発し、祝いの席を僕の母と秋房くんのお父さんが静かな冷戦へと変えた時のことだった。

 親戚の大人たちが『また始まった』と苦い顔をし、子どもの僕らは成り行きを見守るしかない中、暁くんのお父さんだけがすっと動いた。

 まず叔父が足を向けたのは僕のところで、それはもう丁寧に謝ってくれた。僕はこの時もまともに受け答えが出来ず、そのすべてを秋房くんに丸投げしていたけど。

 叔父は次に、見えない火花を飛び散らせている兄と姉の所へ行くと自分が悪いことをしたかのように深くその場に頭を下げた。

 母はただただ理解しがたそうな顔で、そっぽを向いた。その態度に伯父は目を三角にさせ、「袖乃」と一喝した。伯父の厳しい声にびくっと震えた僕を見て、秋房くんは顔を強張らせながらも「大丈夫だよ」と声をかけるのを忘れなかった。僕はこくんと頷き、張りつめた空気が早く解かれることを祈っていた。

喜一キイチさん」

 その名前に反応したのは、秋房くんのお父さんだ。そして伯父のことを『兄さん』と呼ばずに、名前で呼ぶのは暁くんのお父さんだけだった。

 激高している伯父にきつく睨まれながらも、暁くんのお父さんは平然としていて、それでいてどこか慣れた様子すら窺わせた。

「息子が失礼をしました。本当にすみません」

 叔父はそう断り、静観を決め込んでいた他の親戚たちの方を振り返って彼らにも頭を下げた。それでようやく当事者二人を除く大人たちは互いに目配せをしあって、「崇くん、頭を上げて」「兄さんもそうかっかしないでさ」「ほら、お父さんがもうすぐ来るわよ」と遅い援護をし始めるのだった。

 叔父は親戚たちがそう声をかけられても、簡単に頭を上げなかった。じっと心を石のように無にしている。

 そんな叔父をすこし離れた所から暁くんが見つめていた。

 姉と兄が勝手に始めた喧嘩を自分がしでかしたことのように扱い、その場にいる全員に頭を下げる父を車に潰された蛙でも見るような冷たく濁った目で見つめていた。

 暁くんのお父さんは自分が息子にそんな目で見られていることにも気付かずに、伯父から「もう終いだ」と言われるまで額を畳に付けたままだった。

 このことがあってから、元々親戚たちが集まる行事が嫌いだった僕はますます祖父の家に近寄りたくなくなった。

 しかも今回は暁くんも来るという情報が入り済なのだ。絶対に行きたくない。そう思う反面、僕もやっぱり人の子で祖父との最期を過ごさなくてはいけないという律儀さは持っている。

 見事に板ばさみになった僕はううと唸る。

「朔太郎、悩んでいるところ悪いけど今日何か用事ある?」

「いや、特にはないけど」

「そう? じゃ、帰りのホームルームが終わったら生徒会室に集合ね。妹を紹介するから」

 用件を伝え終わった秋房くんは踵を返し、去って行く。

 ……、あれ。今、秋房くん妹を紹介するって言った? 彼女の間違いじゃなくて? いや、それにしてもだ。

 伯父さん、いつ再婚したんだろう。

 ノイズが混じった鐘の音が迷子の僕を現実へと呼んでいた。


  ・

  ・


 ホームルームを終え、生徒会室に向かう僕の頭の中は忙しなく動き回っていた。秋房くんが妹を紹介すると中途半端な情報をくれたせいだ。お蔭で『妹』が妹なんだか、義妹なんだか、異母妹なんだか、さっぱり分からない。

 立ち位置の分からない『妹』をはい、と紹介されても、僕はどういう対応を取っていいのか全く分からないし、上手く応対出来る自信もないのに。秋房くんに帰ってもいいかと聞くべきだろうか。それでダメと言われたら言われたでその場に吐きたいくらいなんだけども。

 愚痴りつつ、胃の腑から酸っぱい物がこみ上げて来た。危ない。口に手を当て、ごくりと口に溜まった唾を飲んで嫌なものを戻した。

 というか、『妹』が妹である可能性ってあるのかな。

 秋房くんのお母さんは秋房くんが幼稚園の時に亡くなったのよ、と哀子伯母から聞いたことがある。もし妹の可能性があるとしたら、どうして今の今まで僕らの前に現れなかったのか不思議でならない。ともなれば、やっぱり義妹か異母妹かな。

 妹Aなる人物を空想しようとして僕は諦めた。荒唐無稽だし、鼻から仲良くなる未来が見えない。

 棒立ちだった足を前に進めて、学年ごとの教室がある棟から化学や生物の授業で使用する実験室がある棟に移動する。螺旋階段を一階分だけ降り、角を曲がった先にこの学校の生徒会室はあった。他の特別教室と同じく、人に使い込まれて真新しさがなくなってしまった場所の一つだ。

 覗き見た中には、秋房くんとほかの生徒会の面々がいて、僕はつい苦い顔をした。人が先にいる場所はどうも苦手だった。

 悩んだ挙句、話し合いが終わるのを待つことにした。

 背を預けた白壁からは硬く、ひんやりとした質感がシャツ越しに伝わる。ふうと一息を吐き、生温さを含んだ風に頬を撫でられるがままにする。

 耳を澄ませば、すぐ後ろの部屋でなされている会話が遠く聞こえる。進行をしているのは誰か分からない。けど手綱を握っているのはきっと秋房くんだろう。 

 彼は努力を怠らない人だから。伯父の言葉も素直に聞く真面目な人だから。弱音を吐かない人だから。

 秋房くんはちっとも変わらない。いや、あの日以来、ますます磨きがかかったようだった。一番であり続けることに固執した風は見せず、ただ黙々と普通の体のままそれを見据え掴み取ろうとしている。

 その努力が秋房くんが望んでいることか、と聞かれると怪しい。そもそも彼に願い事を口にする権利が与えられているのか、それすらも分からなかった。

 窓の向こうには快晴が広がっている。その空に胸の奥がちくりと痛む。そうだ。この痛みが、心が胸にあると錯覚させている。あちこち解剖してもないものを在るように感じさせている。

「朔、なんでそんなところで縮こまってるの」

 呆れた声が降る。秋房くんが眉を八の字にして立っていた。

「中、人が多かったから」

「だろうと思った。一度、外に出て見て良かったよ」

 秋房くんは笑い、「じゃ、行こうか」と僕に手を差し出した。僕はその手を取りつつ、首を傾いだ。

「終ったの?」

「いいや? でも約束してたし、後は副会長たちに任せて先に帰らせてもらうことにした」

「生徒会長がそんなんでいい訳?」

「よくはないな。だけどこっちもこっちで、夏休み前に会わせておきたいから」

「冗談じゃないの、あの話」

「なんだ、冗談だって思ってたのか?」

「ふつうあんなこと突然言われたら、冗談だと思うよ」

 秋房くんは歩きながら可笑しそうに肩を揺らす。

「言わないよ、そんな冗談。言ったらお前、困るだろう」

「今も困ってる」

「そうなの。どうして?」

 廊下を先に歩く従兄弟の影を踏む。

「だって辻褄が合わないじゃないか」

「辻褄、どんな?」

「妹だったら話に上がって来ない筈がないし、義妹だったら喜一伯父さんが再婚したっていう話を誰かするでしょう。義妹でそれなら異母妹なんかもっとだ」

「朔、お前それをホームルームの間に考えてたのか」

 秋房くんはちょっと驚いたような、とことん呆れているような顔を浮かべた。

 僕は自棄になって、「そうだよ」と答える。ははあ、と秋房くんは妙な声を漏らす、そして。

「お前はすごいな、朔」

 あんまりにも簡単に、けれど息を継ぐことも忘れてしまいそうになるくらいの圧を持たせて秋房くんは僕を褒める。だから僕は歯噛みする。

 自分の力量は自分自身がよく知っていた。僕は特別にすごくない。本当にすごいのは秋房くんだということも僕は知っていた。

「すごくない、僕は全然すごくない」

 秋房くんは立ち止まって、僕をまじまじと見る。

「すごいよ、朔太郎はすごい」

「僕はすごくないんだってば」

 むきになって返せば、秋房くんは何故か微笑んだ。「すごいよ、朔太郎は」

 突き放すような軽さだった。なのに、それは僕の頭の中を何度も跳ねて、脳を揺らして行くのだ。僕の意識はその弾に当たらないよう、隅っこに隠れてぶるぶると震えている。怖かったんだ。何もかも。

 顔を俯けて蝸牛のように身を固める。ざく、と秋房くんが動いた気配がした。視線を上に上にと這わせる。彼は窓の向こうを見ていた。青い空を見ていた。じっと焼き付けるように見ていた。僕はまた怖くなった。

「秋房くん」

 たまらず呼びかける。

「どうした?」

 迷子にあった子どもに問いかけるような声をする秋房くんは僕の意に反して、なんてこともないような顔をしていた。僕は視線を右に、左に、と忙しく動かして、「妹」と単語を発した。

「……ああ、そうだった。早く行かないと帰りが危ないな」

「危ない?」

「だって山にいるから」

「山? なんで?」

「なんでって……」

 従兄は口を閉ざし、くるっと踵を返した。そしてそのまま何の合図もなしに歩き始めた。秋房くんが見えなくなる頃になって、僕はようやく彼が説明から逃げたのだと悟った。

 ほら、やっぱり僕はすごくない。


  ・

  ・


 山へ向かう途中に、秋房くんにファストフード店に立ち寄ってもいいかと聞かれた。別段構わないと告げると、秋房くんは一人前のセットメニューに加え、僕と自分の分のジュースを買い込んで店から戻って来た。

 そして今。僕は前を歩く従兄の後に続きつつ、貰ったジュースのストローに口をつけ考え耽っていた。

 山に妹。秋房くんが言ったそれを繰り返すたび、苦虫でも噛んでしまったような顔をしてしまう。それも仕方なかった。何せ従兄は『妹』ということは教えてくれたけども、それ以上の情報を明らかにはしてくれず、深く聞こうとする僕の問から逃げたのだから。

 てくてくと歩いている内に、僕は確信した。いや、確信せざるを得なかった。

 これから山で落ち合うらしい『妹』はきっと実妹でもなければ、義妹でもなく、ましてや異母妹でもないんだろう。それこそ血の繋がりなんてこれっぽっちもない。そんな誰かを秋房くんはあえて『妹』と呼称し、僕に紹介するんだ。

 けどそこまでしなきゃいけない『妹』って一体何だろう。首を傾いで、やっぱり彼女かなと思考が楽な方に行こうとした時だ。

「着いたよ」

 秋房くんの声に顔を上げて見えたのは、小山だった。

 時間が時間だったために、地肌を見せない小山の緑は地平線に沈む太陽の光を受け、黒に近い緑の色を見せていた。

「ここ?」

「そう。入ったことある?」

「ないよ。というか、ここって私有地? 勝手に入っていいの?」

 そう尋ねると秋房くんはちらりと僕を見、「あんまり騒がないようにしないとね」と楽しげに笑った。確信犯じゃないか。

 秋房くんは呆れた顔をする僕をその場に置き、やけに慣れた様子で小山に入って行く。慌てて、僕は優等生の顔のまま規律を破る従兄を追いかけた。

 忍び込んだ小山の中は涼しく、うっすらと青の香りがした。

 小山の中はもう夜が訪れていた。視界に映るほとんどが形を見せず、薄い黒のレース布のようなものに覆われている。

「暗い」

「こんなものだよ、こういうところは」

 言いながら、秋房くんはきょろきょろと辺りを見渡して何かを探している。『妹』だろうか。

「朔、こっち」

 手招きする秋房くんに従い、そちらへと進む。

 辺り一面に満ちた静かな雰囲気は人を鎮静させる効果があるのか、それっきり僕と秋房くんの間に会話は無かった。

 小山を延々と歩き回っている内に、自分が見知らぬ孤島でも探索しているんじゃないかと思えて来た。

 気分はただでさえ下降気味なのに、みんみんと鼓膜を破りかねない蝉の大合唱まで聞こえる。悪循環だ。

 首の下を流れる汗を拭って、ふうと溜息とも呼吸とも似つかない息を零す。

 そんな時だ。

――ウォオォオン。

 変な声……、いや鳴き声が聞こえた。

「近いかな」

 木々に覆われた向こう側を見て、秋房くんはそう呟いた。僕は驚いた顔を晒し、知った風な従兄に問う。

「何なの、あれ」

「今、呼ぶからちょっと待って」

 思いがけない行動に僕は固まった。そして僕が待ったの声をかけるよりも早く、秋房くんがどこかに向かって「おーい」と声をかけた。

――ワォオーン。

 呼びかけに返答するように声が返って来る。

「ああ、こっちの場所分かったみたい」

 僕は顔から血の気を失くしつつ、従兄の腕を掴んで揺らす。だってあの鳴き声は間違いなく『犬の遠吠え』だ。しかもこんな山で聞こえる辺り、野犬に違いない。

「秋房くん、逃げようよ」

「何で?」

「何でって、今の聞こえなかったの。あれ、犬だよ。それにこんなところにいるなんて、絶対野犬だって」

 従兄は僕の必死の訴えを聞かず、ズボンのポケットから携帯を取り出し、「あ、みそらちゃんからメールだ」と気楽なことを言っている。

 頭痛がしてきた。

「秋房くん!」

 声を張り上げる。すると秋房くんが携帯から顔を上げた。やっと話を聞く気になってくれたんだろうかと僕がほっとしたのもつかの間だ。

「こんばんは」と秋房くんが僕の方を向いて、挨拶した。

 面食らう僕に、彼は肩を竦めて見せた。

「後ろだよ、朔」

 言われ、ゆっくりと回れ右をする。が、背後にあるのは闇と同化した木々たちだけだ。その他には何にもない。

 ほっとして体を元に戻そうとした時、視界の端っこに赤がちらっと映った。

 錆びた鉄のおもちゃのように、ぎこちない動きで顔を背後に向ける。視線は闇が被さった枝葉の奥にある二つの赤を捕まえた。

 ひっ。しゃっくりのような声が自分の喉から出た。

「おいで」

 何の恐怖も抱いていなさそうな秋房くんに僕はぎょっとしたが、彼は何ともなさそうな顔でこういうのだ。

「大丈夫だよ、噛みついたりなんかしないから。ほら」

 本当だろうかと思いながらも、前を向き見たのは色の抜けきった白い髪の毛と艶々とした柘榴のように赤い目をした女の子だった。

 ぽかんとした。あまりにも人離れしすぎている見目だったからだ。まるい輪郭や低い身長も平凡的なのに、その二つが見事にそれらを打ち砕いていた。

 なんなんだ、この子は。呆気に取られつつも女の子を観察していると、一つ気付いたことがある。彼女が着ているセーラー服は確か、僕が一年前まで通っていた中学校のものだ。

 女の子と僕の年もぱっと見、そう変わらなそうに見えるのに、僕はこの子について『全く見覚えが無かった』。

 ……、いや自分の記憶に盲信するのは止めよう。それに期待したってろくなことはなくて、今も苦労ばかりしているんだから。

 深呼吸をして、改めて女の子に顔を向ける。奇特な見目をしたその子は眠たげに瞼を擦っていた。そしてふ、っと僕と目を合わせた。

 彼女はこてんと首を横に傾け、誰だろうと言いたげな顔を浮かべた。

「朔太郎だよ」

 秋房くんが横から助言を出すと、女の子はぱちりとまたたいた。

「さく」女の子の口から零れた声はひどく弱弱しくて、放っておきさえすれば二三日で死にそうな犬猫みたいだった。

「さく」女の子は僕の名前を口にし、僕との距離を詰める。

 地面を踏む。それだけの動作なのに、彼女の足取りには重みが感じられなかった。洞のようなほの暗さを感じた僕は年甲斐も無く、秋房くんの後ろに隠れた。

「怖くないよ、ね?」

 秋房くんが女の子に同意を求めると、女の子はたっぷりと時間を使い、首を深く縦に振った。僕は嫌々、元いた場所に戻ることになった。

 と、女の子は残った距離をずんずん縮めて、僕の周りをぐるぐると回りながらすんすんと鼻を鳴らしている。足を一歩後ろに引きながら、僕は顔を引きつらせる。

「何、これ何の儀式?」

「覚えようとしているだけだよ」

「いつから人は相手の匂いを嗅がなきゃ相手の顔も覚えられなくなったわけ」

 首筋を生暖かい風が撫でる。「ぎゃあ」叫んで、顔を後ろに向けると女の子がいつの間にか僕の後ろに回っていた。

 わなわな震えながら、さっきから合いの手しか挟んでこない従兄に尋ねる。

「もしかして彼女自慢?」

「お前も俗物になったなあ」

 このタイミングじゃそうとしか見れないことに気付いてほしい。頭を抱える僕に、こほん、と秋房くんはわざとらしく咳払いした。

「紹介しよう、朔太郎。この子が話していた妹で、異星人だ」

 秋房くんの顔をまじまじと見る。嘘を言っている風ではなかった。

「異星人?」

「異星人」

 しっかりと頷く従兄を見て、僕は自身の頭を掻きむしった。

「宇宙人が妹なわけないじゃないか!」

「宇宙人じゃなくて、異星人だって」

「どっちだっていいよ! 何で嘘なんか吐いたの」

「何でって正直に話したって俺は別に良かったけど、話したら来てくれなかっただろ? なら、これが一番正しいやり方だったんだよ。それと朔」

 従兄はひたり、と僕に視線を向けた。

「俺、宇宙に行くから」

「宇宙って、一体全体どうやって?」

「この子が乗って来たフネがあるんだ、だからそれで」

 そうだった。宇宙人にフネはつきものだった。僕は舌を巻いた。

「でもどうして宇宙なんかに」

「興味があるから」

「聞いてない」

「誰にも言ってなかったから」

 段々と、秋房くんの顔が見えなくなる。僕が従兄の顔をとても見れなくなって、顔を伏せてしまったからだ。

 宇宙人と出会うなんてことをやってのけた。そこまではいい。けども、その先が何故、『宇宙に行くこと』になるんだろうか。

 僕がその理由を察するには、あまりにも心当たりが多すぎた。 

「宇宙に行くってこと、どうみんなに説明するの?」

「それなら心配いらない。俺が宇宙に行っている間、この子が俺の代役をするから」

 秋房くんがそう言って指さしたのは、『妹』と称した宇宙人の女の子だった。  

 頼りになるかどうかという以前の問題だ。

 僕にはこの子が秋房くんの代わりを務めあげられるようにはとても見えなかった。いや、そもそも誰かが誰かの代わりをするなんて土台無理な話だ。

 頭に警鐘の音が響く僕を前に、秋房くんはこう語った。

「この子、地球のことを勉強しに来たらしいんだよ。そんなわざわざ遠いところから危険を冒して来てくれたのに、手ぶらで帰らせるのもどうだろうって思うし、異星人と交流するのもなかなか出来ない経験だから。情報塔に立候補したんだ」

「そこはせめて他薦にしようよ……!」

「そう寂しいことを言うなよ。宇宙的に見たら同じ生命同士なんだし、仲良くやっていけたら嬉しいじゃないか」

「それはそうだけどさ」

 呻く僕に、秋房くんはにこっと笑って見せる。その顔を見て、僕は悟った。もう決めてしまったんだ、と。

 力の抜けた腕がだらんと垂れた。

「朔、そこで相談なんだけど」

「なに」自棄になった僕は突っつけどんに聞き返した。

「お前、この子に色々と教えてやってくれないか」

「何で僕なの? 候補ならもっといい人がいっぱいいるじゃない。みそらちゃんとか、タケくんとか」

「だーめ」

「駄目なら駄目で、その理由を言ってよ」

「適材適所ってやつだよ。さっきも言ったけど、この子は地球のことを学びたいんだ。それなら何でも答えられる奴が近くにいた方が都合がいいだろ」

 正論だった。ぐうの音も出ないくらい。

 反論しない僕を見て、秋房くんは「よし」と場をまとめた。

「そういう訳だから朔太郎。今年の集まりにはお前も家に篭らないで、ちゃんと来な」

「何、その決定事項」

「決定事項だって」

「やだよ、僕。話しかけられないのに、どうしてわざわざ話すことが第一条件みたいな場所に乗り込んでいかなきゃいけないの」

「むしろ俺はどうしてそうお前が親戚だけ苦手なのか分からないけど」

「知らない、そんなの」

 そっぽを向く僕を秋房くんはまじまじと見て、「そう」と言った後、「とんずらしたら迎えに行くから」と脅した。

「いいよ、来なくて」

「強情だなぁ」

「強情にだってなるよ。僕には死活問題なんだ」

「それを言ったら俺だって毎日が死活問題だよ」

 苦笑する秋房くんに僕は俯いた。それを言われたら、僕はもう何も言い返せない。生き苦しいのはお互いだった。

 僕が黙り込んでいると、秋房くんも無言になった。

 沈黙が不味い味を胸の内に溶かしていく。

「あきふさ」

 震える声が響いた。女の子だ。澄んだ赤い目はきらきらと輝いて、秋房くんを見つめている。正確にいうと、彼が提げていたファストフードが入った袋を食い入るように見ている。

「ああ、そうだった。はい、今日のご飯」

 女の子は紙袋を受け取ると、その場にぺたんと座り込んで袋の中からいそいそと中毒性の高い匂いを放つハンバーガーを取り出した。病みつきになる香りを放つそれに顔を近づけ、くんくんと鼻を動かすと無表情な顔が緩んだ。

「いただき、……です? ます?」

 すこし悩んだようだったが、目先の食欲に負けたらしくハンバーガーにかぶりついている。眉間に皺を寄せていると、秋房くんがこんな提案をした。

「不安なら、保険をかけておいたら?」

 どうしても秋房くんはこの子に宇宙に帰ってもらうつもりはないし、宇宙に行くことを止める気もないのか。

 リスのように頬を膨らませ、チープな味に舌鼓する宇宙人にどう保険をかけるか。じっと意識を固め、こねた案に僕はすこしの希望を賭けた。

「思い付いた?」

「まあ」

 秋房くんは薄く微笑んだ。まるで失敗すると思っていないようだった。そんなこと全くあり得ないのに。

 ひとり暮れる夕日を眺めているような感傷に浸りながら、フライドポテトを一つずつ摘まんで咀嚼している女の子の横に立つ。

 と、女の子はフライドポテトに伸ばしかけた手を止めた。

「さく」

 じいっと目玉の奥まで見るような視線に僕はたじろぐ。

「えっと、…………そのさ。君が何かしたいことがあったら、まず僕に何をするか教えてくれないかな」

 伝わっているかどうか不安に思っていると、女の子は僕を指さした。

「さく、わたし、いう?」

「…………、ああ。ぼく、君、”する”、いう、約束」

「さく、わたし、する、いう、やくそく……。あきふさ?」

「秋房くんは……、僕がいなかったら」

「あきふさ、にばん」

「そう、二番」

 指で二を作ると女の子は分かったという風に何度も首を縦に振った。

「上手くいった?」

「一応は」

「それは良かった」

 そう嘯く秋房くんに僕は気になっていたことを聞いた。

「ねえ、この子名前はないの?」

「名前? ……たぶん、ううんまだ無いかな」

「今、たぶんって言わなかった?」

「細かいことは気にしない。なんなら朔、お前がつけてあげなよ」

「僕が?」

「そう、懐いてるし」

 なんとなしに女の子に視線を置くと、彼女は「さく」と僕に掌を振った。

 秋房くんはほらと言いたげだ。こんな風にお鉢が回ってくるとは思ってはいなかったけど、この子を見た時から思っていた名前を頭の中から掬い上げた。

フセ

 秋房くんの目が丸くなる。と同時に、説明を足す。

「南総里見八犬伝に出て来る犬のお嫁さん。伏姫っていうんだ」

「物騒すぎやしないかな」

「もともと物騒だよ、宇宙人なんて」

 秋房くんは妙な顔をした。それから犬猫を呼ぶよりも気安く、「伏」と呼んだ。女の子はそれに反応して、ゆっくり空間を震わせた秋房くんとその隣にいた僕を視界に入れると小首を傾げた。秋房くんはその様子を見て、僕に困りつつもどこか楽しそうな顔を見せる。

「前途多難だ」

「面白がってそうな顔で言う事じゃないよ、それ」

 僕の苦言を無視し、秋房くんは「伏、おいで」と名前を付けたばかりの女の子を伴って山を下りて行く。過ぎ行く二人の背を眺めていると、秋房くんが振り返る。

「朔、帰るよ」

 彼の後ろに広がる夏は、なかった。

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