02.故に王子は記憶に縋る
幾重にも重なってホールに響く悲鳴に、アルフレッドは辺りを見回した。傍にいたはずのジュリアの姿がない。慌てて、遠巻きに人が集まる場所に視線を動かす。
そこには、つい先日婚約を解消したクリスティーナが立っていた。呆然と、クリスティーナは床に視線を向けている。床の上には、誰かが横になっていた。
急病人、などとふざけたことを言う気はない。そこに
「まさか……っ!?」
クリスティーナの手にある銀のナイフ。双方の、不自然に赤く染まるドレスに、最悪の予想に行き当たった。
「ジュリアっ!」
駆け寄りジュリアの手を掴み、何度も声をかける。けれどジュリアの口から出るのは、息を吐くヒュウヒュウとした音だけ。
「きゃあ!」
ようやく事態を飲み込んだ騎士が、クリスティーナを床に押さえつけた。乾いた音を立てながら、ナイフが床の上を滑る。痛みからか、クリスティーナは床の上で顔をしかめた。
「ジュリアっ! しっかりしろ! ジュリア!」
握った手に、ジュリアがかすかに力を入れた。けれどそれが最期に振り絞った力なのか、ジュリアの手は、すっとアルフレッドの手の中をすり抜けた。
穏やかに微笑んだジュリアは、眠っているようだった。その服が血染めでなければ、勘違いをしそうな程に。
「場所を開けろっ! 宮廷医師が通る!」
リオンの声が響く。こんな状況でどこに行っていたと怒鳴りたくなったが、リオンが連れてきた医師を見て口を閉じた。宮廷医師は、王妃付きの女医だった。
母でもある王妃の、専属の女医の腕は良い。そして母の幼馴染であるからして、相談事なども聞くような間柄だ。裏を返せばこの城の中で、安心してジュリアを診せることができる相手とも言える。
その女医を、ここに連れてきたのだ。一体リオンは、どれだけの手続きを飛ばしたのか。
「先生! ジュリアを――!」
「王子殿下。少しお静かに」
まだ、まだ間に合うはずだ。ジュリアは助かる。この女医が診るのだ、だからきっと大丈夫。
目の前で担架に乗せられ、女医と共に運ばれるジュリアを見送ると、アルフレッドはクリスティーナを睨みつけた。
「クリスティーナっ!」
叫びながら、腰の剣を抜く。式典用の剣だ、刃は潰してある。きっと切れ味は悪いだろう。殺すのに時間がかかるかもしれない。だがそれで構わない。楽に死なせるつもりはない。
自身を見上げるクリスティーナの瞳は、アルフレッドが思っているほど濁っていなかった。むしろ逆だ。強い意志の光が見える。ある種の覚悟を持っているように。
そうか、もとよりそのつもりか……。逃げる気など、彼女には最初からなかったのだ。ここでジュリアを害せば、その矛先が自分に向くことを理解していても尚、行動したのだ。
「……最期に、何か言うことはあるか?」
ゆらりと剣をさげ、罪びとに問う。既に目の前の存在に、アルフレッドは嫌悪感しか持てない。隠すことのない軽蔑の眼差しを向けても、クリスティーナの表情は変わらない。それが一層腹立たしい。
「…………」
罪びとは何も言わなかった。
「そうか。ならばあの世でジュリアに詫びろ」
振り上げた剣の先に、影が割り込む。髪を振り乱し、肩で激しく呼吸をするリオンだった。
「お止めください! 王子!」
「邪魔だ、リオン」
頬の上気した顔は、うっすらと汗をかいていた。女医が待機していた王妃のいる宮は、この場所からかなり離れている。普段からあまり運動をしない彼には重労働だったはずだ。
「王子、ここで王子が私情に駆られて剣を振ってはなりません! 彼女は罪を犯しました、ならば国の法に則って裁かなければなりません!」
「そんなもので私の気が収まるものか!」
「収まる収まらないの問題ではないのです! 王子が率先して国の決まりを蔑にするのですか!」
「――っ!?」
リオンの言葉に、ヒュっと息が詰まった。そうだ、法は守らなければならない。自分は王家の人間で王子だ、そして何事もなければ次期国王だ。
いかに事情があろうが、前例となる行いをしてはならない。いずれ巻き込まれるだろう権力者同士の派閥争いで、相手に弱みを掴ませる訳にはいかないのだから。
「王子が自らお手を汚す必要はありません。ですから今は、死の縁で戦っているであろう、ジュリア様のお傍にいるべきです」
「――リオン、ここを任せる」
「御意に」
歯を食いしばって、絞り出すようにリオンに言う。友人は、頼もしい表情で頷いた。あとのことはリオンに任せる以外、今のアルフレッドには余裕がなかった。護衛の騎士を連れて、足早にホールを去る。
会場に王と王妃が来る前だった。来ていたらもっと大騒動になっていただろう。女医にジュリアを診せるのも、もっとずっと遅くなっていたかも知れない。
胸の内のもやもやとしたものを、飲みこむように抑え込む。表面上は落ち着いて見えるように、アルフレッドは取り付くろう。
時として医師の言葉は、王族の言葉よりも優先される。アルフレッドはジュリアのいる部屋に入ることは許されなかった。落ち着けない時間を、部屋の外でただ過す。
高く上った月が傾き始めた頃、ジュリアが死んだことを伝えられた。
遠くから小さく鐘の音が聞こえてくると、広い執務室の机を前にアルフレッドは深く息を吐いた。今日、ジュリアの葬儀がしめやかに執り行われている。今頃はジュリアの棺に、参列者が花を手向けているあたりだろうか。
まだ婚約者でなかったのが災いした。ジュリアの葬儀に立ち会うことは出来なかった。列席者として、ジュリアを召し抱えていた妹の使いの者が弔辞を携え向った。
普段とは違う黒を基調とし暗い色でまとめた服装は、彼なりの哀悼の表し方だった。城の者もそれに気付いてか、いつもならばアルフレッドに仕事を大量に持って来る者たちも、今日は控えめだ。
「どうか、やすらかに……」
背もたれに背中を預ければ、ギシリと椅子は音を立てる。あの夜会の後、クリスティーナはすぐに牢へと連れて行かれた。それでも侯爵令嬢なのだからと、比較的マシな作りの個室の牢だ。
あんな女は、石造りの牢屋に放り投げておけばいいのに……。けれど個室の牢に入れることを決めたのはリオンだ。恐らくは、妙な噂を流されないために。
感情のままに権力を振りかざし、気に食わない者は次々と牢へ入れる王子。そうとでも言われそうだ。それとも、拷問して八つ裂きにしているとでも吹聴するか。
皮肉めいた笑みを口の端に乗せて、アルフレッドは天井を見上げた。ジュリアはもういない、自分の孤独を唯一理解してくれた女性は、手の届かないところへと逝ってしまった……。
あれからリオンと話す機会も減っている。元婚約者の侯爵令嬢が、これから婚約者になる女男爵を殺害するという事件に、関係各所の意見や調整に駆けずりまわっている。今はわずかな時間すら惜しいと、睡眠まで削っているようだ。
世間一般からは、恋愛関係のいざこざで起きた悲劇。貴族関係からは、プライドを傷付けられ仕返しをしただけ。もとより格下で、しかも名誉貴族だ。クリスティーナの侯爵令嬢からして見れば、扱いが軽くなるような存在だ。
そんな立場のジュリアから、王子の婚約者の地位を蹴落とされたのだ。あの気位の高いクリスティーナからしてみれば、酷く屈辱的なものだろう。
アルフレッドの記憶の中で、クリスティーナと一緒にいて落ち着けた時間はほぼない。頭のてっぺんから足のつま先まで、彼女は侯爵令嬢だった。王子の隣に立っても問題のない立ち振る舞いを身に付けた彼女は、実に窮屈な相手でもあった。父と母のような関係に、自分とクリスティーナがなれるとは思えなかった。
「今日の紅茶は、味が違うな」
女官が運んできた紅茶に口をつけて、アルフレッドは静かに問う。当の女官は、王子の機嫌を損ねたのかと真っ青な顔で頭を下げた。
「も、申し訳ございません!」
「いや、怒っている訳ではない。茶葉を変えたのか?」
「は、はい。あの、ジュリア様が……」
「ジュリアが、どうした?」
「ひっ……!」
今のアルフレッドにとっては地雷ともいえる名前を出したことで、女官は震えながら床にひれ伏す。
「お、恐れながらアルフレッド王子に申し上げます! こちらの茶葉は生前、ジュリア様がお持ちになってきた物にございます。お疲れなご様子の王子に気が付きましたジュリア様が、これを飲んで少しでも落ち着ければと、私に預けられた物にございます」
そうだった。この女官はジュリアに仕えていた女官だ。城の中で自分の目が届かない場所で、貴族たちからジュリアを護る盾になっていた。
ジュリアが亡くなったとき、自分と同じようにその死を悲しんでくれた女官。
「そうか、ジュリアが……。頭を上げてくれ。しばらくはこの茶葉を淹れて欲しい」
「はい」
「気遣い感謝する」
カップの中で揺れる赤い液体に、漂う甘い香り。どことなく、ジュリアが好んでつけていた香水に近い気がした。
ジュリアの葬儀も終わってだいぶ経つ。いつまでも落ち込んでいる訳にはいかない、気持ちも多少はマシになったほうだ。だがあまり動く気にならなかったせいか、まだ身体はだるい。
机の上に、法務官が一枚の紙を置いた。書かれていたのはクリスティーナの、刑罰執行の許可を求める書類だ。身勝手な理由で、見本となるべき貴族が殺人を犯した場合、すべからく死刑だ。ただし今回は相手が侯爵令嬢だ。刑の執行を公開にするか、非公開にするか、だいぶ揉めたと法務官が告げた。
紅茶を一口、口に含む。ジュリアの香りを感じながら、アルフレッドは書類に手早くサインをする。
「よろしいのですね?」
「ああ。国の法に則り、犯した罪を償わせる」
何も言い返すことなく、法務官は礼をとり部屋を去る。
数日のうちに、クリスティーナは処刑されるだろう。元婚約者とはいえ、やはり少しは情があったらしい。どこかずきりとする胸を抑える。
ジュリアがいなくなってから、気分が滅入ることばかりだ。カップの中の冷めた紅茶を一気に飲み干す。ああ、そうだ。ジュリアが言っていた。こんなときは気分転換に、庭に出るのがいいと。きっと落ち着く。
庭に出るための近い道を進む。ジュリアからこっそりと外に抜け出そうと誘われ、初めて執務を放り出し隠れながら歩いた道だ。階段の途中で、はしゃいだジュリアが落ちそうになったときは本当に焦った。
手摺に這わせていた手を放して、あのときと同じように階段を一気に下りる。階段の中ほどにさしかかったとき、ぐらりと身体が傾いだ。
とっさに手摺に手を伸ばすもわずかに遅く、身体が宙を舞う。階段の角に身体をあちこちぶつけながら、踊り場に盛大に背中を叩きつけた。肺の空気が一瞬、抜けた気がした。
声が上手く出ない。だれか、だれかを呼ばないと。
痺れる身体に、強かに打ち付け痛みを訴える頭。微かに鼻孔をくすぐる甘い香り。
狭まる視界が、服装が違うだけの自分と同じ姿をした男を捉えた。
「――! ――!」
口から出るのは声にならない言葉だけで、耳に届くのは自分の激しい息づかい。
自分と同じ姿の男は、いつの間にか消えている。ようやくこの事態に気が付いた誰かの足音が聞こえてきた頃、アルフレッドは意識を手放した。
むせ返るほどの甘い紅茶の香りが、アルフレッドを包み込むように辺り一体に広がっていた。
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