それから

公共の場所で小便をする人

それから

 神代勇は未だに、ぼんやり生きていた。


 前頭葉をやられたのか、いや、そうじゃなかったか? とにかく、脳のどこかに物事の連続性を感じる器官がある。そこをもしかすると、薬にやられてしまったのかもしれない。事柄に対して連続性を感じる能力が、とても鈍くなっていた。いや、元からなのかもしれない。現実の物事を、一枚ずつ、ゆっくりとしか覚えられない。


 おととい覚えたはずの事でも、一日おけば、もう忘れてしまう。前に何があったのかすっかり、記憶のどこかへ消し飛んでしまう。


 本や映画はストーリーが一本調子であるから、神代は理解する。記号的に、キャラクター的に、シチュエーション的に覚えていられる。


 しかし、現実となると違う。


 生命が弱まる瞬間に見る幻覚、走馬灯というものは、とてもリアリティが溢れるものであるのに、極めて幻想的である。


 肌でその幻覚の空気を感じられる。しかし、それが夢であるとも感じる。(何故ならば、とても現実ではありえないような風景ばかりを脳が認識してしまうので、記憶を参照した時、これは夢だと理解するから。)所々、意識が現実の方へと揺らぐと、現実で見ている景色が見えるのだが、それはとにかくもう、スクリーンを通して見るようなぼんやりしたものでしかない。


 ここについて詳細に書こう。スクリーンに通して、ぼんやり。この表現は的確でない。視界ははっきりしている。ぼやけは存在しない。ただ、脳が酷く重く、痛く、吐き気がするので、正常に認識できないのだ。自分の体のどこが動くかもよくわからない。ただ意思のみが存在する。吐き気が止まらないので、水道に行き、水を飲み、生きよう。そう思うと体が自然にふらふら、歩き出す。酒を山ほど飲んだ時になる状態、あれを更に一歩進めたものに近い。


 神代勇はその時はじめて、死と共に布団で眠ったその時に、生きているという感じがした。


 そして今神代勇は、生きていない。今ははっきりと世界を認識している。しかし、意思がないのだ。何も、したい事がない。する事もない。ただ、ただ、毎日生きるために生きているだけ。


 あの幻覚はなんだったのか? 現実世界でああいう、超非現実的なものを体験として認識してしまうと、果たして、この世界は本当にリアリティなのか? という疑いを捨てきれなくなる。非現実と現実の認識の境界は、非常に、非常に、薄い。少し死にかけるだけで、全て、そのベールは剥ぎ取られる。


 神代勇は考える。俺が認識しているこの現実すらも、嘘っぱちじゃないか。


 神代勇は今、くだらない仕事をしている。

 いや、くだらない生き方をしている。


 くだらない生き方とは、何か? 自分を少しでも抑圧し、したくもない事をする事。

 そしてその惨めな気持ちを、代替手段で満たす事。


 代替手段。オナニー、消費、いや、はっきり言おう。自分だけの小さな幸せ探し。


 幸せ、真なる幸せのイデアというものは、神代ならずとも、皆が生まれた時から実は知っている。


 人間は皆、生まれる前、父の金玉に居た時、ただのタンパク質の、白いおたまじゃくしだった。


 そこで行われたものは何か? 勝ち残り戦のバトル・ロワイアル。全員殺し合い、生き残った一匹(二匹や三匹のこともあるが)のみが、存在を許される。


 つまり、他人の存在を踏みにじり、自分の存在を証明する事。それが第一の、人間として、いや、生物として刻まれた、真の喜びである。


 神代勇はくだらない生き方をしてきた。


 身寄りがなくなり、警備員。ああ、誰も来ない所で棒を振ってるような仕事。それを生きるためにした事があった。十七か十八の頃だった。


 その日はくだらない、アニメのイベントの臨時警備員だった。


 適当に誘導していると、アニメのシャツを着たでぶ。そして、カマキリのような奇形。それが四人ほど居た。神代を見て笑った。


 「見ろよ! 高卒で、頑張って働いてるって感じ! おつかれさまでーす 」


 神代勇は、くだらない生き方をしてきた。


 ファストフード店のアルバイトをしていた。


 客はくずばかりだった。王様気取りで、些細なことで激昂し、普段のストレスのはけ口を探しているような、小さな幸せ探しをしている、偽物ばかりだった。


 神代勇は、くだらない生き方をしてきた。


 女に何度も裏切られた。幼稚園の時の先生。小学校の時の先生。初めて異性交友を持とうとした同級生。そして、何より、母親。


 女は平気でウソをつく。そしてこういう。「女って怖いんだよ」得意そうな顔をする。怖いんじゃない。お前たちは、下衆なだけだろう。


 神代勇は、くだらない生き方をしてきた。


 男には馬鹿にされた。あいつは脳なしの変人だ。


 友人関係を持つ奴も居たが、ほとんどは、ただ自分の優位性を証明するために俺を連れているか、神代以外に付き合う人間が居ないから付き合っているだけだった。


 男がやる行動は一つ。"マウンティング……"神代はただ別の雄が優れていると見せるための道具だった。



 神代勇は理解した。この種族は自分にとって、異邦人で、敵である。全員居なくならなければ、自分は幸せにはなれない。


 それは理解出来た。しかし、あまりにもその、"敵"が多すぎた。それでも日々を進めるにつれ、敵でも味方でもないような、真ん中が居る事に気づいた。しかし真ん中はあくまでも真ん中で、事態を完全には把握していなかった。頭が鈍かった。


 つまり、神代こそが、排除されるべき、敵だったわけだ。


 そんな中、隙間隙間をこそこそドブネズミのように這い回る事が馬鹿らしくなった。神代は思った。俺は、生きるために生きているだけじゃないか。そのために、阿片やモルヒネ……つまりは、痛みを和らげる薬を、探しているだけじゃないか。


 神代勇はくだらない生き方をやめる事にした。これは、文字通りの意味で。


 そうして、そういう事をしたってわけ。


 そうまでして神代は気づいた。自分の苦痛は、本当に完全に自分の苦痛なのである、と気づいた。それまではぼんやり生きているだけだったので、気付かなかった。度胸がついた。なんでもない。生命の灯火が消える、あの瞬間の恐怖に比べれば……


 そうして、次に怒りがわいてきた。


 自分をひり出した母に。自分を生み出した父に。自分を敵と見なす人類に、真ん中という偽物に。それこそ、正気を失う程には、怒りがわいた。


 この状況は、チンパンジーの群れに小さなカマキリが迷い込んだようなものだ。食われるか、鎌を突き刺して死ぬか。


 キルレシオを考えた時に、どの"やり方"が一番多くやれるか? 神代は考えた。


 鎌を突き刺して死ぬか? いや、出来て、一頭か二頭のチンパンジーをやれるだけだろう。それじゃあ、意味がない。

 こそこそ、目につかないよう、たまたま飛んでくるバッタなんかを取って食って、"いつか"を待つか? いや、今までと変わりがない。


 神代勇は決意した。とことん、全ての人類に、仲間であるふりをしてやろうと。そして、最後に、全てを裏切ってやろうと。そうすれば、鎌で一頭一頭刺すよりも、もっと大きなダメージを、群れ全体に与えられるだろう、と判断した。


 しかし、染み付いた敵の"におい"というものは消える事がない。

 不自然な笑顔しか出来ない。そもそも、種類が違うのだから。


 ひとつ、いいことを思いついた。


 自分が特別なカマキリになる。てんとう虫と、アブラムシの話を知ってるか? "共生"というやつだ。彼らの間に言葉は必要ない。ただ、お互いの利益になるから一緒にいるだけの話であって。


 人類にとっての、麻薬になろう。そう決意した。


 そうして、俺がいなくなりゃ、誰か一人か二人は、自分たちの欺瞞と馬鹿さに気づくかもしれない……


 神代勇はくだらない生き方をしてきた。


 そして今、くだらない死に方をしようとしている。

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