第26話


 一般病床二百床、療養病床百五十床、計三百五十床を数える県有数の大病院である。凹型の赤煉瓦風の外壁の建物は、白く縁取られたバルコニー付の窓で覆われていた。バルコニーと同じ白で縁取られた窓枠の上部は蒲鉾型をしており、中央と左右に四角い突起が三つ付いている。建物の屋根には二等辺三角形の左右の等辺が階段状になった窓付きの装飾が施されており、まるでオランダのアムステルダムの運河沿いに立ち並ぶ住宅の様な印象を与えていた。


 凹型のへこんでいる側の外壁も同じ様式であったが、バルコニーは六つの窓を結ぶ形で一つに繋がっており、窓と窓は古代ギリシャのイオニア式円柱で仕切られていた。凹みで囲まれた正面広場には、ワシントン記念塔のような四角の鉛筆状のモニュメントが立っていて、其の奥に三角屋根の無いバロック様式風の入口があった。


 入口から中に入ると吹き抜けの大ホールがあり、その中央には、蛇の巻き付いた杖を片手にした二階まで届く大きなギリシャ彫刻があった。彫像の注意書きをみると、古代ギリシャの医術の神「アスクレピオス」のようだ。


 右頬に怪我を負った智哉は、神楽耶の通報で小桜総合病院の緊急外来に運び込まれていた。智哉は右頬の頬骨から顎にかけて、十センチ程ざっくりと切られ、傷口がぱっくりと口を空けていた。怪我直後は気を失っていた智哉だったが、意識は病院に向かう救急車の中で戻った。


「洗浄に止血、あとステリーを」


 智哉の傷は、骨膜に達する裂創だった。当直医が圧迫止血をする。暫く待って止血を確認すると、創縁を細い短冊状のテープで引き寄せる。テープが細かい網目状に何枚も貼られ、傷口が固定されていった。その上からガーゼを当て、大判の絆創膏で圧迫する。


 智哉は何か言いたそうな素振りをしたが、当直医から喋らないように注意された。


(立花さんは、大丈夫かな……)


 智哉は神楽耶のことが気になっていた。頬を切られた直後に気絶したからその時の状況は覚えていなかった。やがて、緊急の処置を終え、ストレッチャーに乗せられた智哉は空きの病室に運ばれていった。



◇◇◇


 ――小桜総合病院緊急外来。


 病院に駆けつけた智哉の母が、当直医から説明を受けている。


 当直医は、パソコンのモニタにレントゲン写真を写し出しながら、やや緊張した表情をしていた。


「右頬骨から顎に掛けての裂傷です。かなり深い傷でした」


 母は命に別状ないとの説明にほっとした様子を見せた。


「とりあえずの処置をしました。深かったので、失血を心配したのですけれど、幸い出血量は見た目程ではありませんでした。明日、絆創膏とテーピングを外して傷の様子を見ます。あまり動かさない方がよいので、できれば今日はここでの入院をお勧めしますが、どうされますか」


 裂創の圧迫が不十分だと血腫を作って感染源になることがあるため、必ず翌日に傷の状態を確認する必要がある、と当直医が説明する。


「……はい。入院でお願いします」


 幸い明日は土曜日だ。智哉の母は目線を落としていたが入院を選択した。その後、母は一番気になる質問をした。


「あの、先生。顔に傷は残ってしまうのでしょうか?」


 当直医は、自分は形成外科の専門ではない、と断った上で答えた。


「こういう言い方は心苦しいですが、どんな名医でも、傷を無かったことにはできません。ただ、目立たなくすることはできます」

「そうですか……」


 智哉の母はできるだけの処置をお願いする。その後、母は当直医から二、三の注意点を受け、診察室から出ようとしたのだが、当直医が思い出したように声をかけた。


「あぁ。お母さん、息子さんは傷が塞がり易い体質だとか何か言われたことがありませんか?」

「いいえ。特にそう言われたことはありませんけれど」

「そうですか。いえ、こちらに運ばれてきたときには傷の奥側が半分ほど塞がっていたんですよ。出血が思ったより少なかったのはそのせいでしょう。普通なら大量失血の恐れもありましたから。幸いでしたね」

「そうでしたの。いろいろとありがとうございます。お世話おかけしますけれど、よろしくお願いします」


 母は、そう言って頭を下げた。看護師から病室に入ったら声をかけるので、待合室で待つよう言われた母は診察室を出ると、待合い椅子に神楽耶が待っているのを見つけた。 


 神楽耶は、智哉の母を見ると立ち上がって頭を下げた。警察から事情聴取を受けた後、直ぐに駆けつけたのだろう。神楽耶の制服も所々が切り裂かれ、襤褸々々だ。


「あなた、この間家に来てくれた。立花……神楽耶さんだったわね。貴方は大丈夫?」


 智哉の母は、神楽耶を見上げてそう言った。


「よかったわ。貴方が無事で」


 小さく頷く神楽耶を母は気遣った。


「あの……智哉君は……」


 神楽耶が恐る恐る尋ねた。


「ええ。命に別状はないから大丈夫よ。今日は入院するけれどもね」


 それを聞いた神楽耶は安心した表情を見せた。


「貴方も大変だったわね。ここじゃなんだから」


 そう言って、待合室へ行く。神楽耶は黙ってつき従った。



◇◇◇



 待合室は簡素な長い白テーブルが五つ並んでいた。他に人は居なかった。神楽耶と智哉の母は隅の一つのテーブルにいき、テーブルの椅子に向かい合って座った。 


「ゴージャスな病院よね……」


 智哉の母がなんということもなしに呟いたが、神楽耶は返事することが出来なかった。神楽耶は黙ったまま、ただ俯いていた。


 母は覗き込むように少しだけ顔を神楽耶に寄せた。神楽耶はようやく小さく絞りだすような声で謝罪の言葉を口にした。


「この度は申し訳ありませんでした。私のせいで……」


 神楽耶は膝の上で重ねた両手をぎゅっと握った。これでもう、智哉に近づくことを禁じられる。そう思った。しかし、今の神楽耶には、使命遂行が難しくなった絶望感よりも、智哉を守り切れなかった罪悪感が勝っていた。


「御免なさい……」


 もう一度謝罪する。


 母はそんな神楽耶をみて、小さく息をつくと、立ち上がって神楽耶の隣の椅子に座った。智哉の母は、神楽耶のブルーの瞳を見つめて静かに問いかけた。


「ねぇ。神楽耶さん。人生を生きていくのに一番大切なのは何だと思う?」

「……?」

「私はね。一番大切なのは『しなやかな心』だと思うのよ。どんな目に遭っても、たとえ、ぺちゃんこになったって、しばらくすれば、元のハート。そんな強さね。ほら、『柳に雪折れなし』っていうでしょ? それがあれば、どんな時でもなんとか生きていけるものなのよ。女の子はね」

「……」

「心ってね、実はとっても強くてしなやかなの。ゆで卵みたいにツルツルで、あったかくてね。それがほんとの姿。それを、ああだこうだと悩んで硬くしたり、汚したりしてるのね。でもね、そんなときは、心をお掃除してあげればいいの。好きな人とお喋りしたり、悩みを打ち明けたり、間違っていたと思えば、素直にごめんなさいすればいいのよ。それで綺麗になるから。」


 ――しなやかな心。


 その言葉は神楽耶にはとても新鮮なものに聞こえた。次元調整機構のエージェントとして活動していた時は、ミッションを百パーセント遂行することが心に去来する全てだった。一度でも心が折れたらそれで終わり。そうなったら用済みとして捨てられるだけ。そう思っていた。


 柔軟で折れない心。しなやかな心。一体どんな心なのだろう。神楽耶はその言葉を心の中で反芻した。


「あの子が変わったのは貴方がいたからなのね。今わかったわ。あの子が人様の為に何かするだなんて考えられなかったもの」


 神楽耶は押し黙って聞いていた。母は神楽耶の重ねた両手にそっと手をあてがって、穏やかに続けた。


「神楽耶さん、貴方さえよければだけど、これからもあの子の相談にのってあげて欲しいの。あなたがいてくれたから、あの子は変われたのよ」


 神楽耶は大きな背中を丸め、小さく頷いた。



◇◇◇



 智哉が入った病室は個室だった。 

  

 大きな扉を開けると、通路があり、その右隣に洗面所とトイレが設えてある。通路の先は八畳程の広さに上半身が自動で起こせる可動式のベッド。ヘッドレスト側の壁から伸びる金属アームの先に液晶テレビが付いている。


 下手なビジネスホテルの一室よりもよほど設備が充実している。一時ここが病室であることを忘れてしまいそうだ。


 ストレッチャーに乗せられたまま、個室に運ばれた智哉は、慎重に起きあがると、ベッドに座った。 


 頬がテープでがっちり固定されて、喋りにくい以外は何ともない。看護士はどうしても必要なとき以外は極力喋らないように、何かあったらナースコールをするようにと注意した。後で親御さんと面会できるからとの言葉を残して、看護師は病室から出て行った。


 ようやく気持ちが落ち着いたのか、智哉の頭の中に、先程襲われた時の状況が次々と蘇る。

 

 ――襲ってきた赤髪の娘とおかっぱの大きな娘は二人とも立花さんの知り合いみたいだった。立花さんは、敵だって言ったけど、あの二人も「宙の王」を探しているようだった。


 ――「宙の王そらのおう」。


 智哉の心の中で、その言葉が繰り返される。


 ―― 夢の中で何度も出てきた『彼』の名だ。


 ―― !


 ――赤い髪に角! あの赤髪の娘は、夢の中に何度も出てきた。『彼』になった僕を案内して、六角柱に乗る前に別れを告げたあのだ……。


 ――あの娘は「宙の王」の知り合いなのか? 


 ――あの娘は、「宙の王」を探しにきた


 ――あれは夢の話じゃないか。


 ――でも今日会ったあの娘は現実だ。夢じゃない。


 ――あの娘は何者なんだ?


 ――あの娘は、瞬間移動テレポートした。


 ――人間が瞬間移動テレポートするなんてオカルトだ。有り得ない。


 ――あの娘と立花さんは知り合いだ。


 ――立花さんは、あの娘のことを敵だと言った。


 ――人間とは思えない娘と、立花さんは知り合い……。


 ――立花さんは、一体何処であの娘達と知り合ったんだ?


 ――そういえば、立花さんの出身中学ってどこだっけ?


 考えてみれば、神楽耶かぐやの出身中学の話は聞いたことがなかった。神楽耶と同じ中学から翠陽学院に入った子も知らない。確かに県下一の進学校だから、県はもとより、他県からも受験して入学する生徒もいる。だけど神楽耶の場合は、何処からきたのか全く分からないのだ。


 纏まりのつかない断片的な思考が智哉の頭の中を踊る。だが、智哉の中で神楽耶に対する疑念が膨らんでいくのは否定できなかった。

 

 ――立花さんって、何者なんだ?


 暫くしてから、智哉の母と神楽耶が面会にやって来た。


 智哉は袖口が切れ、服の彼方此方がボロボロの神楽耶をみて、何かを言おうと息を吸う。しかし、それを察したのか神楽耶が智哉の手を取って、喋らないで、と囁いた。


 ご免なさい、と神楽耶は二度言った。


 智哉は「いいよ、もう大丈夫だから」と言いたかったのだが、喋ることができないので、右手で書くふりをする。母が鞄からメモ帳とボールペンを取り出して、キャップを外してから智哉に渡す。


 ――立花さんは大丈夫?


 メモ帳に書く。文字は少し歪んでいて整っているとは言い難い。智哉は、普段ならこんな字を人に見せることなんてないのに、と思ったが、今は普段じゃないから、と妥協してメモ表を神楽耶に向ける。


「私は平気よ。桐生君の方こそ」


 ――大丈夫


 神楽耶の問いかけに、そう書いてみせた。しかし、頬に大きなテープと包帯をした智哉は、傍目には、ちっとも大丈夫のようには見えなかった。

 

 心配そうに見つめる神楽耶のブルーの瞳は少し潤み、沈んだ色合いになっているように智哉には見えた。


 (傷ついたのは僕だけじゃないんだ・・・・・・)


 智哉は、神楽耶に対する疑念をそっと心の奥にしまい込んだ。そして、勉強道具を持ってきて、とメモ帳に書いて母に渡した。

 

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