第16話
――次元断層。次元と次元の間に挟まれた亜空間。
ターゲットは次元断層を漂っていた。次元震に巻き込まれ、この空間に迷い込んだのだ。
一人の女がそこに顕れた。腰まであるロングの黒髪にグリーンの瞳。その右の瞳の下には三日月の形に紅いペイントが施されていた。「紅月の稲妻」の二つ名を持つその女は次元調整機構の「テレポーター」にして、情報思念体――魂を封印・解放する「エミッター」だった。
彼女は次元断層に迷い込んだ同胞を救出するため、この空間にテレポートした。しかし迷い込んだ情報思念体を捕捉するまでそう時間を必要とはしなかった。捕捉システムのトレースは完璧だ。
(捕まえた)
「紅月の稲妻」はターゲットの情報思念体パターンを確認する。間違いない。
(コネクト・エンゲージ)
彼女のグリーンの瞳が一層輝きを増した。「紅月の稲妻」は手にした深紺の宝石をターゲットの情報思念体パターンと同期させる。
(ドレイン・シール)
彼女が念じると、宝石が紫に色を変えた。次の瞬間、ターゲットの情報思念体は瞬く間に宝石に吸い込まれていく。「紅月の稲妻」は小さく微笑むと次元断層を脱し、物理空間にテレポートして帰還した。
――バシュ。
眩い発光と共に、「紅月の稲妻」は次元調整機構のジャンプルームに姿を現した。
「コードネーム『紅月』、登録名フェリア・クレイドールの帰還を確認。情報損失認めず」
機械の合成音声が、フェリアの帰還とジャンプにエラーがなかったことを淡々と伝える。この部屋は次元断層に迷い込んだ情報思念体を救助するために設けられたものだ。ジャンプルームは底面が六角形で、天井部分は頂点を中心に、部屋を覆うように三角形が六枚並べられ、大きな六角水晶の形状をしていた。
フェリアはジャンプルームから出ると、隣のエミットベースルームに入る。こちらは大きな部屋がガラスで二つに仕切られており、片方には机が、もう片方には椅子がそれぞれ一つ設置されていた。机の上には何もなかったが、右側に菱形の凹みがあり、左側には半球状のクリスタルのようなものがあった。部屋には白い服に左右に二つ、上下に三つ、計六つの大きな金色のボタンを付けたスタッフらしき人物が何人か控えていた。
フェリアは彼らに軽く挨拶を交わすと、真っ直ぐ机に向かい、机上の凹みに『クレスト』を填めこむ。フェリアは上から右手を被せ、左手を半球状のクリスタルの上に置いて精神を集中させた。
(バースト・エミット)
彼女の瞳がブルーからグリーンへと輝きを変える。と同時に左手のクリスタルが紫に光り始めた。すると、ガラスで仕切られたもう一方の部屋の椅子の上に陽炎のように金色の靄がたちこめ、人体状へと変化する。やがてその人体上の靄ははっきりと人間の形をとって実体化した。フェリアが次元断層から救済して『クレスト』に封印した情報思念体をエミット――解放――し、肉体を再構成したのだ。
「後はよろしくお願いしますね」
実体化を見届けたフェリアは、スタッフにそう声を掛け、エミットベースルームを後にした。
◇◇◇
――藍の蒼穹。
地球の青空よりほん少し青みを増した空が、惑星ヴィーダの天を覆っている。
その惑星を統治する帝国首都。
見渡すばかりに広がる平野を、百階いや二百階建てくらいはあろうかという細長い鉛筆型のビル群が埋め尽くしていた。その中ほどから頂点に掛けて、周囲をぐるりと囲む窓が帯となって幾重にも連なっている。夜景はさぞかし壮観なことだろう。
それらのビルのひとつにフェリアの居住区がある。
時空遭難者の救出を終えたフェリアは自室で風呂に入っていた。惑星ヴィーダでも風呂に入る習慣があった。
彼女は顔を洗って、自身のコードネーム「紅月」の由来となった右目の下の三日月のペイントを落とした。その下から古傷が顔を出す。
「……」
フェリアは鏡で傷跡を見た後、湯船に浸かった。
フェリアが風呂と呼ぶそれは「調整層」であった。湯の中に特殊な合金を溶かしてある。彼女はその合金を定期的に体内に吸収しなければならなかった。
(……因果なものね。この躰が役に立つなんて思ってもみなかったわ)
彼女は右の掌でとろりと粘り気のある流体金属入りの茶色い湯を掬って、指の間からゆっくりと垂れるのを眺めながら呟いた。
彼女の全身の骨は特殊合金で出来ていた。
フェリアは五歳の頃、母と買い物の途中、交通事故に遭った。母はフェリアを庇ってそのとき死に、彼女も生死の境を彷徨った。
フェリアの右目の下の傷は、そのときについたものだ。
それを救ったのは医師であり、科学者でもあった父だった。但しその方法は普通に考えられるものとは大凡懸け離れたものだった。
フェリアの父は娘に対して、禁忌を侵す大手術を施した。粉々になっていた全身の骨を金属の骨と入れ替えたのだ。手術は数度に及んだが、フェリアは奇跡的に命を繋ぎ止ることに成功した。
その代償が「調整層」だ。
成長した今では、頻繁に調整層に入る必要もないのだが、彼女は習慣でほぼ毎日調整層という名の風呂に浸かる。
フェリアの指の隙間から茶褐色の湯が完全になくなり、掌が露わになる。彼女はその手を何回か結んでは開いた。完全に思い通りに動く。次元調整機構に来て直ぐに受けた強化筋線維手術のお蔭だ。
金属臭い風呂から上がったフェリアは白いバスローブに身を包み、ドライヤーで髪を乾かす。
外はいつしか雨になっていた。
フェリアは部屋の片隅の真紅のソファーに深々と身を沈めると気怠そうに一息つく。
雨音が激しく窓を叩いている。
金属臭が残る肌の脱臭処理を忘れ、フェリアはいつしか微睡んでいた。
◇◇◇
十二歳を迎えたばかりのフェリアは二度目の死の淵に立っていた。
ボロボロの衣服を身に纏い、背中を丸め足を引きずりながら歩いている。息遣いは荒く、数歩歩く度に立ち止まっては呼吸を整えている。躰が重い。彼女は自分の金属の骨を呪った。
もう何日も食べ物を口にしていない。最後に食べたのはゴミ箱を漁って見つけた腐りかけのパンだった。
「はぁ……はぁ……」
大通りを外れた路地に入るとフェリアは空腹のあまりその場に倒れこんだ。整った顔立ちだが、右目の下に数センチ程の横傷がある。彼女はそのせいで幼い頃から酷い苛めにあっていた。
――――雨。
冷たい雨粒が彼女の頬を叩く。しかし今の彼女には行くあてもなかった。父も母ももういない。
彼女にとっては今この瞬間生きられるかどうかが唯一にして最大の問題だった。
ブルーの瞳から泪が零れる。彼女にはもう指一本動かす力も残されていなかった。
意識が段々薄れていく。フェリアは目を閉じ、せめて最期の瞬間はいい夢を見させて下さいと神に祈った。いい夢を見る資格なんて元よりないことは知っていたが、それでも祈らずにはいられなかった。
――神からの返事はなかった。
ふと、彼女の目の前に、一人の老人が立っていた。
フェリアは夢を見ているのだと思った。最期の願いをお聞き届けてくださったのだと神に感謝した。
老人は片膝をつくと、荒い息で雨に打たれるに任せていた彼女の顔を覗き込んで尋ねた。
「フェリア・クレイドール君だね。我が組織に忠誠を尽くすなら、暖かい衣服と食事を提供しましょう」
フェリアは口元に微笑みを浮かべながら小さく頷いた。今この瞬間が生きられるのなら、行き先が何処であろうがどうでもよかった。
◇◇◇
――ピピーッ、ピピーッ。
突然の呼び出し音でフェリアは目を覚ました。またあの時の夢だ。ここのところ、疲れが溜まるとよく見る過去の記憶だ。
(あの時、拾って貰わなかったら、きっと野垂れ死にしていたわ。孤独な私に居場所を与えてくれたのが此処……)
次元調整機構にスカウトされたフェリアは、二周期の訓練の後、機構のエージェントとして活動していた。ここ三セグエント――地球時間で三ヶ月程、頻発し始めていた次元断層に迷い込んだ人達の救助活動に従事している。
ゆっくりと躰を起こしたフェリアは、テーブルに無造作に置いてあった掌サイズの通信端末のスイッチを入れる。本部からの緊急要請のコールだ。
端末の上辺からホログラム映像が浮かび上がる。指定の座標へ至急来るようにという指示が赤いサインで点滅していた。
指定のポイントはここから距離にして三十ミール――地球の単位で五十キロメートル程――離れたセプティムという市の一角を示していた。
(確か、ここで『宙の王』の捕獲作戦が行われていた筈……)
いよいよ「宙の王」を捉えることに成功したのか。フェリアは慌てて肌の脱臭処理をして、次元調整機構のノーマルスーツに着替える。
フェリアは高鳴る期待を抑えながら、精神を統一し、指定座標にテレポートした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます