亡きベルに捧ぐ

度会アル

亡きベルに捧ぐ

旅は困難を極めた。刺さるような雪の吹きすさぶ冬のエベレスト中腹に、大きく口を空けた洞窟に辿り着くまで五人のうちで既に一人消えてしまっていたし、連れてきた一匹の猫はとっくに衰弱しきって震えてすらいない。それでもそいつが死ななかったことは全くの幸運だった。

その入り口付近で、それぞれが震えながらも使い古した灰カイロの中身を替え、少しばかりのビスケットをやっとのことで飲み込んで、そして猫の世話をして、ようやくのこと一息ついた。うまく声が出せず、誰も喋ろうとはしない。どこまでも音の反響しそうな洞窟の中で、闇が全て吸収してしまったような無音の時間が続く。寝たらそのまま逝ってしまうような静寂は、これからの超現実を控えた黒の石柱(モノリス)の如く鎮座していた。その沈黙を破ったのが、髭もじゃの丸眼鏡が埋まっているような大男、モリスンだ。

「これでやっと救われるわけだ。長かった」

「異端と蔑まれた我々の研究が、復讐を果たし日の光を浴びるのだね」

それに相槌を打ったのが、ひょろ長い初老のサイス。細すぎて防寒具が不恰好に見える。一方でマイペースにぼそりと呟いたのがちびのヒューゴだった。

「金だってたんまり手に入れる」

しかしそれに難色を示したのがハンソン教授だ。この研究チームのリーダーで、豊かな口髭をたたえた中肉中背の老人は一人元気だった。

「君たちはそんな目的の為にここまで来たわけではないだろう。ならば口を慎むべきではないかね」

「勿論だ」

意外にも即答したのはヒューゴで、

「凍え死んじまったベルへの手向けとしても、やり遂げないとな」

モリスンは追悼の意を示し、

「では、行こうか」

サイスが進展を促した。各々の額に付いた懐中電灯が湿った虚空を照らした。


蛍光するキノコの群生する中を抜け、どこまでも深く静かな湖のほとりを歩き、油断するとすぐにでもはぐれてしまいそうな分岐する道を着実に下っていき、その体内奥深くまでと潜っていく。道のりの端々ではあらかじめ設置していた目印のライトが、ほの明るく淋しげな青白い光を放っていた。バッテリー内蔵であるが故にコードレスであることは利点であるはずだが、それは逆に一見しただけでは向かうべき方を教えてはくれない、いわば命綱の無い崖登りのようなものでもあった。それでも四人は着実に奥へと進んでいく。高い気温と湿度に辟易しながら、目的だけを見据えて。続く道のりをしばらく歩き、三十分だろうか、一時間だろうか、それとも。ようやっと、旅はひとまずと終着する。

その地は何かを迎えるような、その中心から涌き上がる存在があることを期待させるような、しかし何もなくだだっ広い空間。五十メートル四方は最低でもありそうだ。重い足音はひたすらに反響し、天井の高さを意識させる。床のあちらこちらに寂しく散見されるライトはあいも変わらず辛うじて光を保つだけでいて。そこの片隅で、教授は膝をついた。ちょうど暗がりにあって、巧妙に隠されていたその場所。壁にあまり大きくない穴が空いており、おもむろにそこへ両手を突っ込む。姿を表したのは、四十センチの立方体だ。その見た目は黒く、ただ黒く。光を反射せずに姿を隠そうとする、だからこそかえって異質な真っ黒な立方体だった。それを慎重に、時間をかけて、ゆっくりと、部屋の中央へと運ぶ。床の上にそっと配置し、では、と仕切り直した。狂言じみた口調で、しかし退屈な講義のように。

「紳士淑女――ここに淑女はいないが――の諸君、本日ここでお披露目するは魔法の箱。私はこれを――えー、安易で巫山戯(ふざけ)た名前なのは百も承知だが――シュレディンガーのブラックボックス、と名付けた。この箱には不思議な点がいくつかある。一つ、この箱にはおおよそどんな大きさの物質でも入ること。一つ、この箱は願いが叶う箱であること。しかし、等価交換の法則に従う為、対価を箱に入れなければいけない。一つ、その対価は願いの成就したかに関わらず時にそのまま返還される場合もある――これがシュレディンガーの猫状態、まさに蓋を開けてみなければその対価が残っているか分からないということだ――。そして一つ、構造は把握できるものの、それを理解できない――原理も何も分からない、まさにブラックボックスだ。さて、喜べ諸君。君たちの願いはようやく叶う」

 それを誰もが真剣に聴いていた。敬虔な信徒達。これから、奇蹟が起きるのを目の当たりにする為にも。確実にことを運ぶ為にも。

「たとえば、」

モリスンが前に出た。懐から財布を取り出して、硬貨を箱の中に投げ入れる。

「金は基準値が分かりやすくていい。これだけ入れりゃあ、」

蓋を閉め、天地を反転させる。そちら側の蓋を開ければ、

「上質なブランデーだ。まずはこれで乾杯といこうじゃないか」

グラスが各々に回され、それぞれに濁った液体が注がれる。強い酒独特の、嗅いだだけでも酔ってしまいそうな鼻につく香りが辺りに漂う。誰も彼に反対はしなかった。サイスはモリスンからボトルをもらい、彼のグラスに注いでやり、そのまま自分のグラスを掲げた。

「では、我々の未来に乾杯」

ヒューゴは猫にも飲み物をやっていた。


それぞれが二、三杯程引っ掛けた頃。ふら、と立ち上がったのがサイスだ。酒にはあまり強くなかったらしい。

「教授ぅ、んん猫なんか連れてって、一体何を、その、したいんですかーっ」

それを見て教授はため息を吐き、面倒そうに答える。

「前回これを発見した時は、たいしたものを持っていなかった。私はこの箱で命の価値を、そしてこの箱は生命をどう処理するのか知りたいのだ。箱の中の猫は生きているのか死んでいるのかが、な」

それを聞いて満足したのか、サイスはにっこり笑ってヒューゴに向かってしなだりかかり、彼の元にいた猫を抱いて可愛がりはじめた。大人しい猫は、一切抵抗をしなかった。ヒューゴは身長のせいもあって、サイスに潰されかかって苦しそうに呻いていた。

「おい、ヒューゴを殺す気か」

気付けばモリスンがサイスの側におり、彼を軽々と引き剥がした。サイスは猫を抱いたままにふらつき、とうとう猫を放り投げた。

「おいてめーー」

ヒューゴが叫ぶのも束の間、猫は綺麗な放物線を描き箱の中に入った。そこからのサイスは、先ほどまでの態度は演技だったのだろう、直線距離で箱に飛び付き、蓋を閉め、ひっくり返した。モリスンが彼を羽交い締めにしたが、時すでに遅し。

「私は、君たちが嫌いだよ。君たちは、ベルを、殺した。ヒューゴ、知っているぞ。お前がベルに、毒を盛った」

今度こそ激しい動きで酒が回ったのか、息も絶え絶えに彼は恐ろしい真実を告げた。それを教授が問いただす。ヒューゴはそんなことしていない、としらをきった。モリスンが低い声で脅しをかけても怯えるばかりで、決して口を割らなかった。そこに教授が制止をかける。

「そこまでにしておかないか。モリスンもサイスを離すんだ」

 サイスは拘束を解かれると手足をつき、咳き込んだ。そして、恨めしそうにモリスンを睨む。

「それよりも、まずは箱を開けようではないか。サイス、一体君は命を代償に何を願ったのだ」

 教授が睨むのはサイスであった。なにしろ彼は実験に使うべくわざわざ用意した命を使ってしまったのだ。相応の対価を要求していなければ。彼は落ち着いた声で、冷静に返した。

「どんなものであれ、命は平等だ。とすれば、ベルだってあるいは」

この箱から出てくるかもしれないだろうと。とにもかくにも、箱を開けないことには始まらないと彼は箱に這いずり寄り、躊躇いも無しに蓋を開けた。そして中を覗き込みーー絶句した。彼はそのまま硬直する。

「どうした」

教授が覗き込む。そこには、あろうことか、

「何も無い……だと」

空虚な箱の中身。媒体の猫でさえ、残ってはいない。教授は激昂した。

「貴様っ、本当に……」

「私が死人を辱めると思うか」

侮辱される前に、自身の正当性を主張するサイス。事実、それは功を奏した。教授もそれを聞いて我に返り、ばつが悪そうに頭をかいた。

「生命を変換する場合については更に検証が必要なようだな。ふむ、良いサンプルになった」

 と、逃げに走る。そしてポケットから黒革の手帳を取り出し、この現象を一例として書き収めた。だが、一方でサイスは依然として何かしらを企んでいるようである。彼は箱をしげしげと眺めており、何やら独り言をぶつくさと呟いている。学者の悪い癖だ。

「どうした、サイス」

 心配になって声をかけるモリスン。心配、というのは勿論また突拍子もない行動に出ることだ。彼は結果的に間違ったことをしていないとはいえ、誰にも話さず驚かせてしまったのだから。しかし今度は、本当に間違ったことを考えていた。

「猫は所詮猫だった。人間様の命と平等じゃなかったのさ。だったら、人間の命を使えば良い。この中の誰か、ベルの為に犠牲となってほしい」

 とうとう狂ったか。そこまで友人として想っているのか、それとも。いずれにせよ、以前の彼からは想像もできないような人道を踏み外した発言に、三人はもはや辟易とすらしていた。

「馬鹿なことを。ならば君自身が入ったらいいじゃないか」

 ヒューゴがもっともな意見を出す。当然の道理だ。だが案の定、サイスはそれを是としない。

「結局、」

 と、ヒューゴは続ける。

「君は甘いんだ。自分の身すら犠牲にはできず、ただ猫のみで手軽に命を蘇らせようとする。さあ、箱の中を覗き込んで。何が見える」

 彼はサイスの体を無理矢理に箱に向ける。それは戒めのつもりで、あくまでフリだけであったはずだった。否、少なくとも彼自身はそう思っていた、のだが。それをチャンスと捉えたか、ずっと機会を狙っていたのだろう、教授がサイスの足を持ち上げた。

 一瞬のことだった。サイスは完全にバランスを崩し、頭から箱の中に突っ込む形になる。呆然とする二人を尻目に教授はそれを最後まで押し込み、蓋を閉めた。蓋を閉めた瞬間、重さは消える。何も入っていない箱を、彼は反転した。


「これ以上彼に何かさせてはいけなかった。我々にも危険が及ぶかもしれなかったからだ。もしこれでベルが帰ってくれば、実験は成功だろう」

 教授は威厳を響かせた、さも正しいと思わせるような口調で宣言した。そして箱を開ける。だが先ほどの猫と変わらず、やはり箱の中からは何も出てこなかった。教授はあからさまに落胆の色を浮かべている。

「何故だ……何故成功しない。やはり命を等価交換することは不可能なのだろうか。それとも、命とはゼロに等しいのか」

 自問自答を繰り返しても、サンプルも足りない。まだ、未知数なのは教授自身が一番よく分かっているはずなのに、それでも思考を止めることができないのだろう。しかしそこに、モリスンが口を挟んだ。

「……サイスはどうなったんだ。いや、サイスだけじゃない。あの猫もだ。どこか別の場所に行ったのか、それとも消滅したのか。そもそもこの原理を理解していないじゃないか、教授」

 ふむ、とその質問に対しても一考する教授。一時の間を空けた上で、やがて彼は答を述べた。

「誰か正常な思考を持った者が箱を通って調べる必要があるな。サイスはきっと生きていたとしても使い物にはなるまいて」

 無論、自分以外。そしてこの場にいる生きた人間は、二人。どちらかに行けと。ヒューゴは苦々しく返答した。

「教授、悪いがあんたは馬鹿じゃないのか。サイスのことで俺たちはあんたのことも警戒しているんだ。だったらあんたに行ってもらうぜ」

 言うや否や、懐に手を突っ込み取り出したのは時代遅れのリボルバー。ヒューゴの趣味だが、体格に比べると少々不格好だ。その銃口を、彼は教授に真っ直ぐ向けた。

「死に体で箱に入るか、生きたまま入るか、好きな方を選びな。後者はあんたの大好きな『研究』ができるからな、そっちを勧めるよ」

 当然、教授は後者を選んだ。手を上げ震えながらも、もう一つの恐怖に向けて片足を踏み入れる。そして、もう片方の足も。

「あ、ちなみに。ベルに毒を盛ったのはあんただろ。正直に言え」

 さながら絞首刑の台に上がった死人のように、硬直した教授は首だけをガクガクと縦に振った。

「これで俺は無実だな。じゃあな、教授」

 そう言って教授をしゃがませる。最後まで銃口を向けながら、不敵な笑みを浮かべてヒューゴは蓋を閉じた。反転。


「さて、残るは俺たち二人だな。正直意外だった。モリスン、あんたは人が良いから真っ先に消えると思っていた」

 相変わらず自慢のリボルバーをで遊ぶヒューゴ。銃口をちらちらとモリスンに向け、撃鉄を起こしたりなど。

「最初から想定していたのか」

 銃をあまり恐れているようには見えず、悠々としかし意外そうにモリスンは答えた。

「やっぱりあんたはお人よしだ。俺たちはそれぞれ、あの箱を独り占めすること以外ハナから考えちゃいなかったのさ。サイスだって最初から最後まで演技していた。俺は笑いを堪えるのに必死だったさ」

 ククク、とさもおかしそうに笑うヒューゴ。

「ベルもお前と同じだったな。だから最初に死んだのさ」

 私は教授を疑わなかった為に死んだのだと。彼は言った。それは事実だった。

「さて、モリスン。あんたを始末すりゃあそれで終わるんだが、どうだい、俺が数秒ほど銃を降ろす。その間に逃げてもいいぜ。ただしこのことは他言無用だ」

 それが彼の運の尽きだった。彼は知らなかった。我が友人、モリスンも銃を持っていることを。ヒューゴが銃口を下に向けた瞬間、普段から扱い慣れている銃をモリスンが引き抜いてヒューゴの腕を撃った。ヒューゴはあくまで趣味としてリボルバーを扱っていたので、そのスピードには対応できなかった。

 その後のモリスンは、また素早かった。もう一本の腕を撃ち抜き、両足をも撃って、軽々とヒューゴを持ち上げると箱に詰めた。

「お前さんにはお似合いの終わりだ」

 哀しそうに言うと、彼は箱を閉じた。反転。


 その後のモリスンは、箱を開けて私と再会した。なんてことはない。他の三人は私の命などどうでも良かったし、素材とした命などもっとどうでも良かった。仮に彼らのうち誰かが私の蘇生を望んでいたとしても、相対的に変化する命の価値を本当の意味で平等に思っていなければ、等価交換にはなり得ない。モリスンは命を大事にしていた。ただそれだけのことだ。

 私はずっと彼ら四人の行動を見ていた。だから、モリスンの潔白も知っている。結局残ったのは二人で、無事に帰った。

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