そして白い羽根がわたしに生えて……

り(PN)

1 健

「覗かれてる」


「えっ」


「だから覗かれてる」


「誰に」


「雲の上の誰か」


「それなら誰かじゃなくて神様じゃない」


「でも目だけ」


「どれどれ」


 日向(ひなた)が言うまま上を見上げる。

 家からほど近い公園のベンチ真上の暖かい空を……。

 空は青くて若干の雲が散っているが目玉はない。少なくともぼくには見えない。

 

「どこさ」


「もう消えた」


「じゃ、あったのは」


「あそこ」


 日向が指し示す方向は土曜日午後二時の北西で約八十五度か。

 見る気満々なのだが、ぼくには見えない。

 見える気配もない。

 だから消えたというのは本当だろう。

 

「今、空が割れて破片が散った。それが溶けて少しだけ風になった。じきに来る」

 

 日向が言い終わる前に風がぼくの頬に当たる。

 その風は冷たくないが、昨日の風は冷たかったな。

 だからぼくも日向も学校からの帰り道で凍えたのだ。

 

「何だったんだろ」

 

「だから神様じゃない。それとも冬将軍の別れの挨拶かな」

 

「今度は口だわ」

 

 日向のつるりとした顔が向く方向にぼくも顔も向ける。

 残念ながらぼくの顔はつるりではない。

 けれどもニキビは少ない。

 恥ずかしいがマスターベーションを毎日繰り返しているからだ。

 本当は生身の日向を抱きたいと思う。

 でも日向のすぐ傍にいるとぼくは男ではなくなってしまう。

 家に帰って独りになれば欲望丸出しだというのに……。

 

「健(たける)にも見えた」


「いや、全然」


「そう」


「でも見える人がいると思うよ。日向の仲間が、きっと……」


「あっ、また目だ」


「そうか」


「今度は左目」


「……ということは、さっきのは右目か」


「うん。大きい」


「だろうな」


「おっとっと、目が合っちゃった」


「おいおい」


「でも大丈夫みたい。気にしてない」


「良かったな」


「消えた。行っちゃった」


「じゃ、ぼくたちも行こうか」


「うん。映画、観るんだよね」


「気が進まなければ観なくてもいいよ」


「そんなことないから早く、行こっ」


 日向が急に走り出すからぼくも慌てて後を追う。

 日向の身体は細いが背はぼくよりも高い。

 すでに百七〇センチメートル以上あってまだ伸びそうだ。

 ぼくの背丈が日向を抜くのはいつのことだろう。

 果たしてその日は来るのだろうか。


「健、早くおいでよ」


「おまえ、脚、速過ぎ……」


 日向の脚は速い。それで陸上部にスカウトされる。

 けれどもやる気がないので結局止める/辞めさせられる。

 顧問の先生に「全体の士気に関わる」とか何とか言われて……。

 でも日向は学校にいる誰よりも脚が速いはずだ。

 子供の頃からすでに速い。

 それでサッカーチームにも誘われるが日向自身が断っている。


「悪いんだけどもスポーツは向いていない」


と言って……。


「はあ、ふう、はあ」


 日向の佇むヒマラヤ杉の下までようやくぼくが辿り着く。

 ぼくだって足が遅いわけではないが、でも日向には敵わない。

 いずれ敵う日が来るかどうかもわからない。


「やっと来た。一緒に走ろっ」


 指が長い日向の左手がぼくの右手に伸びてぎゅっと力強く引っ張られる。

 転ばないことだけに注意して、ぼくが全速力で日向に従う。

 公園で遊ぶ幼い子供たちと母親たちの姿が背景に流れる。

 仲が良さそうな笑顔のお爺さんとお婆さんの姿が流れる。

 芝生が植えられた公園の地面が流れる。

 低中高が連結した一基の鉄棒が流れる。

 子供のいない滑り台が流れる。

 網で封鎖された砂場が流れる。

 子供たちの上げるきゃあきゃあという高い声が流れる。

 飛んでいるスズメとホオジロの影が流れる。

 ついでにぼく自身も流れる。


「着いたわ」


「ふう、はあ、ふう」


 日向が言って公園と歩道の境界線上で止まる。

 あっという間だ。

 喘いだ息を落ち着かせつつ日向を見ると耳の前辺りに薄く汗をかいている。

 それを人差し指で拭って舌でペロリと舐める。

 

「しょっぱい……ってほどじゃないわね」


 「どれどれ」


 「直接舐めたら、ホラッ」

 

 日向がぼくの前にツイと左頬を差し出すので途端にぼくは戸惑ってしまう。

 そんなこと、これまでされたことがなかったから……。

 

「残念でした。時間切れ」

 

 日向が細い肩にかけたピンクのネコ顔ポシェットからハンカチを出して汗を拭う。

 それをぼくの方に差し出して黙ってぼくの汗も拭う。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 日向がまた手を伸ばすので再度手を繋ぎ、二人で駅に向かって歩き始める。

 でもぼくの心臓はドキドキしない。

 日向のすぐ近くではぼくが男ではないからだ。

 日向はそれを知っている。

 そしてそうじゃないときのぼくの行為も知っている。

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