第97話 お芳、かわら版に載る

鶴七 「ご新造様、新柄が入りましたよ」

お芳 「そうお」

 

 それだけ言って、お芳は通り過ぎて行った。


鶴七 「何だい、ちょっと前までは新柄と聞けば飛びついたくせによ。それが今

   じゃ知らん顔とは」

 

 イケメンの部類に入る、鶴七が自信をもってにこやかに声をかけたのに、お芳のあまりの素っ気なさだった。


亀七 「そりゃ、そうさ。白田屋の身代、全部自分の物と思ってんだからさ。若旦

   那が出てってから、急にケチと言うより、みみっちくなっちまったて、お熊

   さん嘆いてたよ。何でも、朝のみそ汁の具がさ、ここんとこ、毎日大根葉だ

   けとか。そんで、昼は大根なます、夜は大根の煮付けに人参があればいい方

   だってさ」

鶴七 「大根尽くしかよ、やってられねえなあ」

亀七 「だからよ、お熊さんにたまにゃ、うちの飯食いに来なよって言っといたん

   だけど。まさか、それが、狙いってことないよな」

鶴七 「いくら何でも、自分とこの使用人によその飯食わせるこたぁしねえと思う

   けどなあ…」

 

 本田屋には使用人のための食堂があり、専任の板場もいる。板場と言っても料理人崩れの男だが、この男が食材の調達がうまく、結構おいしいものを作ると評判になっている。


亀七 「そのくせ、自分の飲むお茶の質は落とさねえそうだ」

鶴七 「ああ、お里が言ってな。白田屋の一番高いお茶はお芳さんが飲んでるっ

   て」 

小太郎「店先で、お隣の悪口言うのは止めてください。お隣に限らず、お客様のこ

   とをそれも店先で噂するなどもっての他です」

 

 近く正式に本田屋の主人となる小太郎に聞かれてしまった。バツが悪そうに奥に引っ込む鶴七と亀七だった。

 侍の父を亡くした小太郎が本田屋に引き取られ、娘のお伸と共に寺子屋に通っていたが、このままこの店の好意に甘えていていいのだろうかと思った。浪々の身であった父と当てもなくさまよっていた時、真之介に助けられた。

 その頃から、いずれは真之介の様な商人になる様に父に言われていたし、小太郎もそのつもりだった。武士の父より、まだ、元服前の商人である真之介の方がずっと頼もしく思えたものだ。その父が亡くなり、果ては真之介の父も亡くなる。そして、真之介に連れられ本店で暮らすことになった。

 ここでの暮らしは小太郎にとっては天国だった。一生懸命勉強もしたが、やがて、自分の中途半端な立ち位置に悩むようになる。本田屋の子供でもなければ、店の小僧でもない。このままでいいのだろうか。それなら、早く店に出て仕事を覚えよう。

 そして、小太郎の小僧としての暮らしが始まる。その時、齢は同じだが、先輩格に鶴七と亀七がいた。当然、新人いじめにもあった。それでも懸命に働き、数年後にはよその店に修行に行きたいと言い出した。その頃には、真之介とお弓の間でいずれはお伸と夫婦にし、店を持たせようと言う話になっていた。

 だが、それが何と言うことだろう。真之介が侍になっても、弟の善之介が店を継ぐものと誰もが思っていた。それが突如、この店はお伸が婿をとり継ぐこととなったのだ。

 今はその事情も知っている小太郎だが、お伸と夫婦になり店を持たせてもらえるだけでもありがたいのに、まさか、本店の主人になろうとは…。

 それにしても、あの二人はいつまで経っても変わらない。客受けもいいのに、とかく噂好きで気になったら黙っていられない。それをこともあろうに店先で言うとは。それを止めれば番頭も近いのに…。

 今はまだこの店の主人ではないので、一応先輩の二人に言葉使いも気を付けているが、正式に主人となれば、きっちりと言ってやらなければと思う小太郎だった。 だが、その小太郎にしても隣のお芳の変わり様はやはり気にはなる。拮平も良くしてくれたが、嘉平も気のいいおじさんだった。

 やはり、欲に目覚めたのか…。 


 いや、お芳は無駄使いを止めたのだ。

 拮平がまたも出て行った。勝手に出て行った。止めても聞かなかった。着替えの他に金も持って行った。その現場を見た訳ではないが、嘉平が持たせたとお芳は思っている。

 今度、帰って来ても決してこの家の敷居は跨がさない。嘉平が何を言おうが、今度ばかりは曲げられない。

 そこで、何から始めようかと思案するお芳だった。

 急いてはいけない。じっくりと…。先ずは自分のことから。そして、今一度、箪笥の中身をチェックし、そのリストを作る。着物や帯締め名との小物も書き出す。

 これだけあれば当分間に合う。それは、新柄も欲しいけど、お芳は決めたのだ。

 もう、決して、無駄使いはしない!

 ここは、この白田屋は、自分の物だ!

 この家のすべてが自分の物だと思うと、急に金を使うのが惜しくなった。そこで、切り詰められるものは切り詰めることにした。いや、無駄を省くのだ。

 まずは食費から、出入りの青物屋に聞いてみれば、今は大根が安いと言う。そこで、大根をフル活用し、麦飯の麦の量を多くしたりと工夫を重ねる。


お芳 「文句が言いたきゃ、拮平に言っとくれ。拮平がどれだけ金を使ったと思っ

   てんだい。お陰で、私だって、隣の呉服屋の前を大手を振って通れないんだ

   からさ」

 

 と、女中たちの不満を押さえつけるが、食費の節減にもきりがある。その他、油、ろうそく、薪、炭などの必需品にも限度があり、ちりも積もればと言うが、思ったほどの節約にはならない。

 残るは人件費だ。それとなく暇を取りたい者はと言って見たが、誰もいない。そこで、お芳はリストラを敢行する。

 まずは不要な人材。いや、その前に犬を捨てよう。ジョンの餌だって馬鹿にならない。餌の麦飯とだしじゃこは、人間に食べさせればいい。


お芳 「お里!」

お里 「何ですか、ご新造様」

お芳 「犬、捨てといで」

お里 「えっ…。あの、ジョンが何か」

お芳 「だから、今すぐにその犬捨てに行くんだよ、いいね」

お里 「でも、ジョンは…」

お芳 「うるさい!さっさと捨てて来いってんのが、わかんないのかい!」


 と、言い捨ててお芳は去って行く。

 ジョンを捨てて来いと言われてショックを受けているお里だったが、今、この家ではお芳の言うことは絶対なのだ。お芳に逆らうことは出来ない。もう、庇ってくれる拮平はいないのだ。

 何より、玉の輿にのる夢が消えた。それだけでも悲しいのに、その上にジョンがいなくなれば拮平との縁が完全に切れてしまいそうだ。

 ひょっとしたら、また、拮平は戻ってくるかもしれない。何てたって、白田屋の一人息子なのだから。もし、戻って来たら、今度こそ逃がさない。逃がすものかと心に決めたばかりなのに、その拮平との唯一のつながりであるジョンを捨てるだなんて…。

 それでも、やはり、捨てに行かなくてはならないのだ…。

 お里はジョンを連れ裏口から出て行く。そして、お里が向かった先は、隣の本田屋の使用人食堂の調理場だった。


女中 「まあ、お里ちゃん、まだ、晩御飯には早いよ。それに、今忙しんだから」

お里 「お姉さん、私じゃないんです。このジョンに何か食べさせてやってくれま

   せんか。朝から何も食べてないんです」 

女中 「まあ、どうして」

お里 「ご新造様が、ジョン、捨てて来いって…」

 

 女中はすぐに本田屋の飼い犬みかんの餌皿に、麦飯の残りに魚の骨や野菜の切りくずを載せて持って来る。思わぬご馳走に喜ぶジョンだった。


女中 「それで、捨てに行くの」

お里 「あの、こちらで、このジョン飼ってもらえないでしょうか」

 

 本田屋のみかんとジョンは兄妹犬なのだ。


女中 「そうねえ…。まあ、聞いてみてあげるわ」

お里 「お願いします。私、もう、ジョンがかわいそうで、かわいそうで…」

----よかった、うまくいった…。


 お里は胸をなでおろす思いだった。思えば、ジョンにしても本田屋で飼われる方がいいのだ。拮平のいない白田屋では面白くないだろうし、本田屋の方が餌だっていいに決まっている。何より、みかんとは兄妹だ。


お里 「よかったわね、今日からここがジョンの家だからさ。かわいがってもらい

   なさいよ」

 

 そう言って、まだ、何かおいしいものが出て来るのではと調理場を覗き込んでいるジョンから、そおっと離れて行くお里だった。本田屋の裏口を出るとホッとしたものだ。


----さあ、これから、どうするか。ジョンを遠くに捨てに行ったことにして、ちょいと、ぶらぶらすっか。


 飴売りから一個買い、食べ終えてから帰ることにした。


----おいしかった。でも、そんなことは、クビにも出さず。えっ、何かおかしい。クビだったと思うけど、クチだったかな…。とにかく、しんみりとした顔で帰らなきゃ。


 と、ジョンを隣に押し付けたことは、おくびにも出さないつもりのお里だった。


お芳 「ちゃんと、捨てて来たかい!」

 

 早速に、お芳から念を押される。


お里 「はい…。捨てて来ました」

お芳 「どの辺りに」

お里 「かっぱ寺近くの木に括りつけてきました」

お芳 「そう」

 

 と言って、お芳がまたも自分の部屋に引っ込こうとすると、お菊が付いて来る。


お芳 「お前はいいの。ああ、茶だけ持って来て」 

 

 茶を運んで来たお菊は早速に座り込んでいる。


お芳 「お菊、いつまでも座ってないで、厠の掃除でもしな」

お菊 「えっ、私が…」

お芳 「そうだよ、私もさ、これからは自分のことは自分でやるから。さっ、早

   く、行った行った」   

 

 渋々出て行くお菊の後姿にお芳は鋭い視線を送っていた。


----やっぱり…。


 経費節減も大事だが、やり過ぎてもいけない。

 次なるはリストラだ。とは言っても、社会保障もない時代、生きるとは先ずは食べて行くことだった。そのために、子供の頃から働きに出ているのだ。お芳は一応、希望退職をほのめかしてみるが、誰も手を挙げなかった。

 出来れば、女中を二、三人辞めさせたかったが、それなら、要らない人材から排除するしかない。その一番手はお菊だ。

 お菊はお芳が嫁入りした時から、すり寄って来た。

 何てたって、自分は白田屋の女主人なのだ。お付きの女中がいてもいい。いや、いなくてはおかしいと、それはそれでよかったのだが、このお菊と言う女中、楽がしたい、台所仕事も掃除もしたくないので、お芳に取り入って来たのだ。今まではそれでもよかったが、これからはもう要らない。

 それでも、ただ、追い出したのでは、外聞が悪い。そこで、考えたのが、嫁入り口を探すと言うものだった。


お芳 「だからさ、ちょっと歳は離れているけど、どうだい」

お菊 「えっ…」

 

 お芳からいきなりの嫁入りの打診に思わず舞い上がってしまうお菊だった。相手は十五歳の娘と十四歳の息子がいる四十歳の男だった。


お芳 「娘は嫁にいったし、息子はさ、うちの拮平と違って、まじめで大人しいそ

   うだよ。ああ、姑はいるよ」

 

 やはり、女たるもの嫁に行きたい。実家に帰ったとて居場所はない。すぐに話はまとまり、足袋といくばくかの金を持たせ、お菊を嫁にやることに成功した。。

 実際は、相手は四十歳ではなく四十五歳であり、姑のみならず、大舅大姑もいた。嫁にいった娘は子を連れて出戻ってきている。

 

 ----お菊は今頃、大舅大姑の介護に追われていることだろう。楽することばかり考えているからこうなるんだよ。

 

 実は、お芳は大舅大姑の介護を嫌った姑から、世話料を受け取っていた。大した額ではないが、只よりマシと言うものだ。

 さて、次は…。 

 本当なら、お里と行きたいところだけど、まだ、子供である。田舎の方では初潮を迎えると、すぐにも嫁に出すとか聞いたけど、さすがにお芳はそこまでのことをしようとは思わない。

 そうだ、これからはお里を手元に置こう。その代わり、今までのお菊と同じ轍は踏まない。厳しく躾ける。ならば、後はお熊を除く女中の誰かを最低一人はどこかへ嫁にやろう。

 そして、やっと、一人の女中の嫁入り先が決まった。今度は普通の相手である。これで一人減ったと安堵した頃、突如、別の女中が暇を取りたいと言ってきた。聞けば、こちらも嫁入り先が決まったと言う。

 もっと早くに決まってくれればと思わないでもなかったが、それも良しとしよう。

 かくして、白田屋の女中はお熊、お里とお縫の三人となった。


お熊 「ご新造様、早く、新しい人を入れてください」


 ある時、お熊が言った。


お芳 「まあ、ちょっと忙しいかもしれないけど、当分はこのままでやっとくれ

   よ。どうにもならない時は、小僧使えばいいからさ」

お熊 「小僧じゃ駄目です。奥のことなんか真剣にやりませんから」

お芳 「そこを何とか。だから、こうして頼んでんじゃないか」

 

 頼むとは口先だけで、その目はもうこれ以上、人は増やさないと言っていた。


お熊 「いえ、それが、そのぅ…」

お芳 「まあ、天下のお熊さんが、何をその様に、気弱なことを」

お熊 「そうではなくて…」

お芳 「とにかくさ、今はこの店も大変な時なんだよ。何しろ、拮平が金、持って

   てしまったもんだから。ここは経費節減しなきゃなんないんだよ。あのさ、

   拮平がいくら持ってったか知ってるかい。本当の金額…」

お熊 「そうではなくて…」

お芳 「何だい、らしくもないねえ。いつもの気丈なお熊さんはどこへ行っちまっ

   たんだい」

お熊 「いえ、あの、そのぅ…」

 

 いつもの歯切れのいいお熊にしては妙だと思いつつも、ここはもうひと押ししなきゃ。


お芳 「まあ、大変だろうけど、頑張っとくれよ。その内、いいこともあるからさ

   あ」

お熊 「そのいいことが…」

お芳 「何さ。言いたいことがあるんだったら、さっさと言いな!」

お熊 「そうですか、では。私、お暇をいただきたいのです」

お芳 「ええっ!」

 

 これにはさすがのお芳も驚くしかない。


お芳 「何を、急に、藪から棒じゃないか」

お熊 「いいえ、この間から、言おうとしてたんですけど、いつも、ご新造様は、

   後でとおっしゃってましたよね」

 

 言われてみれば、そんなこともあった。


お熊 「そして、ご新造様が落ち着いてらっしゃるときは、私が忙しく。また、そ

   のことをお忘れのご様子で…」

お芳 「だから、何で、暇を取るのさ。暇とってどうすんのさ。実家へ帰んの。今

   更、帰ったって邪魔にされるだけだよ。まさか、はないか」

お熊 「その、まさかです」

お芳 「そのまさかって?」

 

 お熊は恥ずかしそうに、目を伏せる。


お熊 「実は、私も、お嫁に行くことになりまして…」


 お芳はとっさに声も出ない。


----まさか…。

お芳 「また、何を…」

----とち狂って…。

 

 お熊はお芳より年上である。さらに、取り立てて美しいわけでもなく、その名が示すように、女にしては大柄だった。


お芳 「それならそうと、もっと早く言えないのかね!」


 急に怒りが込み上げて来たお芳だった。


お熊 「ですから…。今、こうして言ってるじゃないですか」

お芳 「それで、来年かい、再来年かい」

お熊 「来月でお暇をいただきたいのです」

お芳 「で、相手はどんな人」

 

 どうせ、お菊のように年の離れた男で、所詮は舅姑の介護要員だろう。


お熊 「隣村の人で、先月の祖母の葬儀で会いまして…」

お芳 「ふうん、で、歳はいくつ」

お熊 「それが、私より一つ下で…」

お芳 「一つ下!?はぁあ。ま、それはそれは…。で、子供はいるんだろ。姑、いや、

   大姑もいたりして」

お熊 「子供はいません。向こうも初めてなもので…」

お芳 「……」

 

 お芳はもう、言葉も出ない。いくら、一つ年上の女は金の草鞋を履いてでも探せと言うが、まさか、初婚の男がこんなパッとしない年増の女を嫁にするとは…。


お熊 「舅姑は喜んでくれてます」

 

 お熊と相手の男は遠い親戚に当たり、その関係で子供の頃から見知っていたが、隣村なので、法事くらいでしか会うことはなかった。

 それでも、いつしか互いに意識し合うようになっていたが、お熊が白田屋へ女中奉公に行くこととなり、それ以来、会うこともなく時は過ぎて行く。

 大人になった男は嫁を迎えることになった。当時の婚礼は夜行われ、三々九度の盃を交わせば、やがては床入りとなる。その男の家には離れがあった。そこが新婚夫婦の住まいとなっていた。

 期待に胸弾ませながら、部屋の障子を開けて男が中へ入るも、そこには誰もいない。厠にでも行ったのだろうと思い待ってみたが、母屋で繰り広げられている宴会のざわめき以外は何も聞こえて来ない。

 さすがに心配になり、厠へ行ってみるが、そこには誰もいない。それから、大騒ぎになる。

 そして、わかったことは、花嫁は別の好きな男と逃げたと言うことだった。

 それからの男は、誰が何と言っても、嫁を迎えようとはしなかった。

 そんな男と祖母の葬儀で十数年ぶりに再会したお熊だった。そこは、既に大人同士、自然に話をすることが出来た。

 葬儀も終わり一段落ついたので、お熊が白田屋へ戻る用意をしていた時、父に呼ばれる。行って見れば、そこには男の両親もいた。何事だろうと思っていると、とんでもない話を聞かされる。


父親 「お熊、お前をこちらの長男さんが嫁に欲しいそうだ」

 

 お熊はとっさには状況が飲み込めなかった。 


父親 「まあ、この通り、急なことで驚いてます」

 

 と、父親がお熊の気持ちを代弁する。


父親 「後で、ゆっくりと言って聞かせますので…」

   「そうですね。いい返事を待ってますよ、お熊さん」

 

 と言って、相手の両親は部屋を出て行く。


父親 「お熊、いい話じゃないか」

母親 「お熊、良かったね。何てたって、女は嫁に行くのが一番だよ。長女のお前

   にはいろいろ苦労掛けたけど、やっとお前にも幸せがやって来た…」

 

と、母親は涙ぐんでいる。


----お嫁に行ける。それも、あの人のところへ…。


 そう思うと、熱い涙があふれ、ついには母と共に号泣してしまうお熊だった。

 相手の両親は息子からお熊を嫁にと言われた時には、やはり迷った。お熊の齢では高齢出産になってしまう。それでも、あの頑なだった息子がその気になってくれた。子供が出来なければ、弟の息子に家を継がせてもいいと言う。また、久し振りにあったお熊は人当たりも良く、その気配りには誰もが感心したものだ。

 そんなこんなで、早々に話はまとまり、お熊としては一日も早く暇を取りたい。

 それにしても、お熊が嫁に行くなど、誰が想像しただろうか。お芳にとっても、まさに青天の霹靂だった。


----まさか、このお熊が…。こうなったら、早く、代わりの女中を見つけなきゃ。


 だが、お熊の代わりとなると、おいそれとは…。

 その時、お芳はひらめく。   


お芳 「それで、この話を知っているのは、他には」

お熊 「まだ、誰にも」

お芳 「そうかい。じゃ、しばらくは内密にしてもらえないかねえ。ううん、ほん

   の少しの間」

----これを逃す手はない。それも早い方がいい。

 

 すぐにお里を何でも屋に走らせ、お澄を呼びつける。当のお澄も何事かと驚きつつ、やって来る。


お芳 「くれぐれも内密に」

お澄 「かしこまりました」  


 そして、翌日、お芳はお里を供に何でも屋へと出向く。


----へえ、これが何でも屋。ホント、何でもないところ。


 物売りや職人の店でもなく、依頼を受ければ出向くのだから、今で言う机の様な台があり、座るための台が設えてあるだけのところでしかなかった。


お澄 「まあ、ようこそ」

 

 と、お澄が出迎えれば既に来ていた、かわら版屋の繁次と徳市も立ち上がり、挨拶をする。この二人にしても、まさか、あの白田屋のお芳から呼び出しを受けようとは…。

 一瞬、拮平から何かと思ったりもしたが、果たしてお芳がそんな話をするために、お世辞にも真っ当な商売とは言い難いかわら版屋を呼び出すだろうか。とにかく、この度ばかりはさすがの繁次もお芳の意図がさっぱり読めない。


お澄 「こちらがかわら版屋の繁次さんと徳市さんです」

お芳 「まあ、急に呼び出して済まなかったわね」

 

 お芳はお里に手土産の饅頭を渡す様促す。


お澄 「これはご丁寧に、ありがとうございます。今、お茶入れますので、どう

   ぞ、お掛けになって」

お芳 「改めまして、白田屋の家内です。また、今日はわざわざ…。まあ、こちら

   も色々とあって…」

繫次 「その後、若旦那からは」

お芳 「いえ、何も…」

繫次 「そうですか。それで、今日はどの様なご用件でしょうか」

お芳 「それは、追い追い…」

 

 繁次がお芳の顔を正面から見たのは今日が初めてだった。拮平からの情報に寄れは、わがままでヒステリックな女でしかなかったが、それがどうだろう。目の前のお芳は口元に笑みさえ浮かべている。


お澄 「お待たせ致しました。ご新造様からのお持たせです」

 

 お澄が茶と共に、塗りの器に饅頭を載せて持って来る。見れば、ちょっとは高そうな饅頭ではないか。ケチだと聞いていたのに、何たるこのギャップ。益々もって…。


お芳 「さあ、どうぞ」

 

 どうやら、手土産を持って来たことを印象付けたいようだ。


繫次 「では、遠慮なく」

 

 繁次は徳市にも食べるよう勧めるが、お里も食べたそうにしているのを見た、徳市がさらっと言う。


徳市 「いただきます、あれ、お里ちゃん、食べないの」

お芳 「あら、お里もいいのよ」

----えっ、なに、今日のお芳さんのやさしいこと。気の変わらないうちに饅頭、食べよっと。


 お芳はゆったりと茶を飲んでいる。その様子に饅頭の味さえわからない繁次だった。

 そして、皆が饅頭を食べ終わった頃、お芳が口を開く。


お芳 「かわら版はいつも楽しく拝見してるよ。事件物から役者衆のことやら、何

   とか番付やら、私にゃよくわからないけど、実際は大変なんだろうねえ」

繫次 「へい、それは色々と。でも、これが稼業ですから」

お芳 「ところで、かわら版て、いい話は扱わないのかい」

繫次 「そんなことはありませんよ。しかし、世の中、あまりいい話が聞こえて来

   ないんで…。どこかにいい話でもないもんですかねぇ」

お芳 「それが、あってさ」

徳市 「えっ、何です、そのいい話って」

 

 徳市が思わず身をのり出す。


お芳 「実は、うちの女中も年頃なので、嫁入り先を探してやったんだよ。先ずは

   お菊に」

 

 お菊が嫁入りしたことは知っている。


お芳 「そして、もう一人、世話してやったところ。何と、これまた別の女中が嫁

   入りが決まったと言うんだよ。へえ、三人も立て続けに決まるとは、これだ

   けでもめでたいことじゃないか」

繫次 「そうですね」

お芳 「それが、こともあろうに。この私でさえ驚いたんだから…。ははははっ」

   

 ひょっとして、また、拮平が舞い戻って来た!?だとしても、それがそんなに可笑しいことか…。


お芳 「ああ、おめでたい話なのにさ、何か、可笑しくてさ。ああ、もう、笑いが

   止まらない」

 

 お芳が笑っている間に、お里は二つ目の饅頭ゲットに成功する。


お里 「あの、ご新造様。早くお話を」

お芳 「そうだったわね。実はね、何と、あのお熊がさあ、嫁に行くだってさ。信

   じられる?」

お澄 「えっ、お熊さんが、お嫁に行かれるんですか。わあっ」

 

 お澄もそのことまでは聞いてなかった。


お芳 「世の中にゃ、物好きな男もいたもんだねえ。あんな年増で不器量な女のど

   こがいいのかねえ。それも相手は一つ年下って言うんだから、もう、開いた

   口が塞がらないよ。それにさ」

お里 「ご新造様」

 

 お里は小声でお芳のお熊サゲを制止しようとする。


----それじゃ、折角のいい話が台無しじゃないっ。

お里 「もう、その当たりで」

お芳 「え、あっ、ああ」

 

 お芳もやっと気付いたようで、慌てて真顔になる。


お芳 「まあ、そう言うことでさ。こんなにもめでたい話が続くのって、そうない

   事じゃない」

お澄 「そうですか、お熊さんがお嫁に行かれるんですか…」

 

 またも、お澄が言えば、繁次も徳市も笑顔でうなづいている。


繫次 「良かったですねぇ。これはめでてえ話だ」

徳市 「ああ、あの人ですよねえ。なんか、いいおっかさんになりそうじゃないで

   すか」

 

 この徳市と言う若者まで、そんなことを言うとは…。

 お芳にすれば、この三人から、まさか、あのお熊が嫁入りとは、これぞ、まさに瓢箪から駒、びっくりした驚いた、あり得ない、なんて言葉が飛び出すものと思っていた。そこで、お芳がなだめると言う筋書きだったが、思惑が外れてしまった。


お芳 「だからぁ、これってかわら版のいい話にならないかい?」


 と、慌てて取り繕う。


繫次 「そうですねえ」

徳市 「じゃ、先ずは取材させてもらいましょうよ。ねえ、兄貴」

お芳 「そうそう、その取材って言うの、してもらって構わないからさ。それに

   さ、うちも色々あって…」

 

 そう言うことか…。

 つまり、何だかんだ言っても、一人息子の拮平が家を出てしまったのは、やはり、お芳と折り合いが悪いからであり、そこは、後妻であるお芳が少しは気を使うべきではないか、ひょっとして、最初から跡取りを追い出して店を乗っ取るつもりだったのではとか、世間はとかく喧しい。

 そこで、おめでたが続いたことがかわら版に載れば、店のイメージアップにつながると思い付いたようだ。


繫次 「しかし、ご新造様。事件や何かと違って、こう言う記事は最終的に載せる

   か載せないかは親方が決めなさることで。書かせていただきますけど、はっ

   きりとはお約束は出来かねます」

お芳 「そう…。いやいや、でもさ、そこは、何とかうまく親方にさあ、掛け合っ

   とくれよ」

繫次 「わかりました。出来るだけやって見ますので、先ずはお熊さんにお話を伺

   わなくっちゃ」

お芳 「それはいつでも。だけどさ、うちも大変なのよ。お熊が辞めちまったら、

   女中はお縫とこのお里だけになっちまってさ。お熊がいるうちに、早く新し

   い女中を雇い入れて仕事に慣れさせなきゃ…」

お澄 「そうですね。でも、女中さんならすぐに見つかりますよ」

お芳 「でもさ、あのお熊の様にはいかないよ。お熊はよく気が付いて何をやらせ

   てもテキパキと…。だから、いい女中募集してま~すなんてね」

 

 女中の募集までかわら版でやらせようと言うのか。いや、お芳にすれば、おめでた続きの店だから、女中志願者が押し寄せ、それこそ選り取り見取りを期待しているようだ。


お芳 「それと、どうかしら。いい日、足袋立ちなんて。そのさあ、見出しのこと

   だよ。あ、たび立ちのたびは旅の旅ではなく、履く足袋の足袋」

 

 と、ご親切に見出しまで考えていた。


繫次 「いいかもしれませんね」

 

 繁次もここは無難に答えておく。


お芳 「そう、よかった。それとさあ、拮平のことなんだけど…」

繫次 「あれから、本当に、何も…」

お芳 「そうなのよ。それでさ、一人息子はよその店に修業に行ってることにして

   くれないかしら」

繫次 「わかりました」

お芳 「まあ、話のわかるかわら版屋さんだこと。来た甲斐があったと言うもんだ

   よ。じゃ、よろしく頼んだわよ」

 

 と、お芳は機嫌よくで帰って行く。


 そして、お芳の目論見は当たった。刷り上がったかわら版には、いい日足袋立ちの文字が踊っているし、花嫁のイラストも悪くない。お芳はまるで、自分が取り上げられたかのように鼻を高くしていた。


お芳 「どうお、お前さん」

嘉平 「ほう、これは中々よくできているじゃないか」

お芳 「でもさあ、これ、白田屋ってはっきり書いてくれた方が良かったんじゃな

   いかしら」

嘉平 「いやあ、どこの足袋屋だろうと想像させる方が印象に残るさ」

お芳 「やっぱり、そっか…。でも、どう、この私のひらめき」

嘉平 「すごいじゃないか」

お芳 「それだけ?」

嘉平 「それだけって」

お芳 「だからあ、私にも商才があるってことじゃない。特に、宣伝活動の方は」

嘉平 「そうだね」

お芳 「なに、そのどうでもよさげな返事」

嘉平 「そんなことないさ…」

 

 そんなことないは、そんなことあることだと拮平が言っていたのを、最近お芳の身の回りの世話係になったお里は思い出していた。


嘉平 「いや、すごいなって思って」

お芳 「それ、さっきも聞いた」

嘉平 「だから、すごいと思ったから、すごいって言ってんじゃないか」

お芳 「でも、これで終わりじゃないから」

嘉平 「他に何があるんだい」

お芳 「それは、これからのお楽しみっと」


 確かに、翌日からは客も増え、女中志願者が押しかけて来た。


お芳 「ああ、忙しい忙しい」

 

 と、その対応に追われつつも、得意満面のお芳が選んだ三人の女中に、嘉平は難色を示す。


お芳 「何がさ、こんないいことないじゃない」

嘉平 「いや、でも…」

 

 何と、この三人の娘は給金が要らぬと言うのだ。しかし、働くと言うことは、自分や家族のためでもあるが、一番は金のためだろう。金がなければ暮らしていけない。

 それなのに、いくら若い娘とは言え、金が要らないとは…。いや、若い娘なら尚のこと、白粉、紅、簪といくらでも金が欲しい筈だ。


お芳 「いいじゃないのっ。要らないってんだから」

嘉平 「それが、ちょっと気になるんだよなあ」

お芳 「そりゃ、まあ、嫁入り口の世話は頼まれてるけどさ。それだって、何とか

   なるわよ」

 

 江戸は男余り社会である。それが証拠に、お熊の様な女だって、いい男捕まえることが出来たではないか。

 お芳はお熊が辞めた後の女中は、お縫、お里にもう二人もいればいいと思っていた。だが、想像を超える応募者があり、また、四人も女中が辞めたのに、二人しか採用しないではちと外聞が悪い。

 そんな中、この三人の娘は嫁入り先を世話してもらえるのなら、給金は要らぬと言う。こんないい話があるだろうか。嫁入り先を探すことくらい容易いことだ。


嘉平 「だけどさ、ほら、只より、高いものはないって言うだろ」

お芳 「何言ってんのさ。たかが女中じゃない。何ほどのことがあるもんかね。今

   から、そんな取り越し苦労してどうすんのさ」

 

 嘉平の心配をよそに、早速に新しい女中たちは、お熊と和気あいあいでやっているではないか。また、縁起のいい店として、遠方からの客も増えた。


----お前さんもさあ、もう年なんだから。後は、私に任せときなね。それよか、少しは感謝してくれてもいいと思うけどさ…。


 と、そんなお芳の許へ、娘を連れた女が菓子折り持参やって来た。







 





 

 






















































 

 































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