第95話 雲の向こう  一

真之介「ご無沙汰致しております。その後、お変りもなくお過ごしのご様子にて何

   よりにございます。さぞかし釣りの方も…」 

安行 「そんな釣りのことより、それ、白田屋の息子は見つかったか」

真之介「それが…」

安行 「なに?未だ見つからぬのか」

真之介「はあ…」

 

 真之介は久々に仁神安行の屋敷の門をくぐる。今は釣りを楽しみに暮らしている安行だが、女と床を共にすることが出来なくなった男の不満が今後どこに向かうか知れたものではない。ましてや、真之介とは曰く因縁の仲である。そのためにも、安行とは付かず離れずの関係でなければならない。この平穏を保つためにも…。

 だが、久し振りに見る安行の顔はむくんでいるように見えた。


安行 「本田にも解けぬ謎があったとは…」

今田 「やはり、あの娘のところへ行ったのでは」

安行 「それが、娘の方にも使いをやりましたが、いなかったそうです」

安行 「どの様な者を使いにやったのだ。それは確かな者であるか」

真之介「はい、かわら版屋です」

安行 「かわら版屋?して、それは、なぜだ。なぜ、かわら版屋の様な者を」

真之介「はい、他に旅慣れた者がおりませず、止む無く…」

安行 「ああ、この前、後を付けて来たと言うあのかわら版屋か」

 

 最初に真之介と拮平が弥生を訪ねる旅に出た時、繁次が後を付けて来たことは話してある。


安行 「して、その娘は、今はどうしておる」

真之介「二親と共に、宿場はずれでよろず屋を営んでおりますそうで」

 

 芸者になったなど、余計なことは耳に入れない方がいい。


安行 「そうか…。それで、その方はどこを捜したのじゃ」

 

 毎日釣ばかりでは、それ程の刺激もないのか、次々に聞いてくる


真之介「芝居小屋に、料亭、かっぱ寺、その他、調べられるところはすべて」

安行 「それにしても、本田よ。ここは今一つ、知恵を絞り出せなんだか…。先日

   の知恵熱はどうした」

真之介「知恵熱などとんでもないことで。最早、私の知恵も枯渇の一途をたどるの

   みにございます」

安行 「何を気弱なことを。それにしても、見つからなんだとは…。いや、見つか

   れば、一度会うて見たいと思っておったに。何やら話の面白い男と聞いてお

   るで」

真之介「はい。まあ、ことによると、ひょっと戻って来るやもしれません。金を使

   い果した挙句…」

安行 「それもあるな。まあ、それまで待つとするか。他に、市中に何か面白い話

   はないか」

真之介「天下泰平でございますゆえ、取り立てては。して、釣りの方は?」

安行 「まあ、そこそこ…」

 

 そこそこと言うのは、それなりの成果を挙げているのだろう。


安行 「したが、毎日釣りと言うのもな…」

 

 やはり、飽きて来たか。


真之介「では、芝居見物などいかがでございましょう」

 

 今月なら、お駒の芝居が掛かっている。


安行 「おう、芝居か。今では奥もすっかり、芝居好きになり、ほれ、そなたに瓜

   二つの、あの夢之丞とか申す役者を贔屓にしておるわ。したが…」

 

 芝居見物もいいが、正室の亜子つぐことは行きたくない。


真之介「ここは男ばかりで見物と言うのも一興かと」

安行 「うむ。本田と一緒か…」

 

 真之介に髷を切られて以来、二年ほど屋敷から出るに出られなかった。だが、今は髪も伸び、髷も結える。そろそろ昼間の町中へ出てみたいが、やはり、人目が気になる。以前は牛川、猪山の二人を共に安行が町を伸し歩けば、若い娘や若妻まで急ぎ隠れたものだ。

 そんな自分が男として最も恥辱的な髷を切られるという失態を知らぬ者はいない。それを髪が伸びたからと言って、大手を振って町を歩けるものでもない。

 町人共から、何を言われるかわかったものではない。いや、町人こそが武士が簡単に刀を抜けぬと言うことを熟知している。それ故、余計にでも挑発してくる。

 易々とその挑発に乗り、迂闊にも刀を抜いてしまえば、それこそ厳しい取り調べが待っている。

 だか、そこに、真之介がいれば…。

 初めは真之介に二年間の仕返しをするつもりでいた。だが、そこには密花との甘い恋があった。なのに安行が父の喪に服している間に、密花は泣く泣く身請けされてしまうと言う、思えば、儚い恋だった…。

これには致し方ない面もあったが、それだけではない、安行自身が飲水病(糖尿病)になり、男としての機能が低下してしまう。

 そのことを知っているのは、医者の他には今田と真之介の二人だけである。もっとも、屋敷内では何やら疑いを持たれ始めているが、黙っていれば、他人に知られることはないにしても、この「負い目」が何をするにしても、今一つ自信を持てずにいる。

今となっては、以前の悪行すら懐かしい…。


----あの頃は良かった…。


 それでも、今も陽の光の下を自由に歩いてみたい。釣りも面白いが、人目を避けるように夜釣りばかりというのも味気ない。芝居見物は船で行く。その道中にも芝居小屋にも安行の顔を知っている町人がいるかもしれないが、そこは真之介が一緒なのだ。

 昨日の敵は、今日の友だ。


真之介「お供させていただきます」

 

 そこまで言うなら、行って見るのも悪くない。


真之介「尾崎様もお誘い致しませぬか。きっと、お喜びになられることでしょう」

 

 どうやら、真之介は尾崎友之進が安行の異腹の弟であることを知っているようだが、それも悪くない。

 尾崎友之進とは安行の父が芸者に入れあげていた頃、これまた町娘にも手を付けていた。そして、生まれたのが友之進である。子供心にもその時の母の怒りの凄まじさは今でもよく覚えている。只でさえ、芸者に金をつぎ込み、母の実家から補てんしてもらったと言うに、その上に子供とは…。

 家臣に押し付けられたその子が成長し、安行の側付きとなる。これが真面目だけが取り柄の様な若者だった。当然安行が面白い筈もなく、徹底して痛めつけたが、それでも怯まない。そこで、友之進の許嫁を横取りしてやった。そのことに対しては今でも特別の感情はない。母の無念を少しは晴らしたと思っている。

 だが、髷を切られてどうすることも出来ないでいた安行を探し出し駕籠で連れ帰ったのは友之進だった。どうしようもない恥辱的な姿を見られた安行は、友之進を遠ざける。

 顔も見たくなかった安行だが、真之介から釣りに詳しいからと取り成しを受け、久々に友之進の顔を見たが、取り立てて何かの感情が沸くこともなかった。  

 

 そして、迎えた芝居見物の日は曇りだった。


安行 「晴れてほしかったな」


 真之介は雨が降らないで良かったと思っていた。この時代、道は土である。少し雨が降ればすぐにぬかるみ、風が吹けば、砂埃が舞い立つ。

 商店の暖簾の始まりは埃避けであり、飲み屋の縄暖簾はハエ避けであった。


真之介「雲の向こうは晴れにございます」


 真之介は明日は晴れると言いたかったのだが、それは安行には伝わらなかったようだ。


----そうか、今の自分は曇りの中にいる。そして、向こうは、晴れ。


 例え、向こうが晴れていたとて、それが何だ。無論、雨の日もあり、雨も降らなくては困るが、久々に出かけるのだ。それも勇気をもって昼間外に出たと言うのに、雨の心配はなさそうだが、やはり、晴れていてほしかった。


----まさか、このまま…。


 ひょっとして、自分はこのまま曇りの中から抜け出せないのではと、いつの間にかネガティブ思考に陥ってしまう安行だった。


友之進「いや、舟の中から聞く水の音と言うのもいいものですな。気持ちが落ち着

   きます」 

 

 と、尾崎友之進は能天気に言うが、今の安行には川の水の流れる音など、聞こえてくる音でしかない。


友之進「殿、川の真ん中から岸を見ると言うのもいいものではありませんか。見慣

   れた景色も違って見えます」

今田 「左様、少し揺れますが、舟とは楽でいい乗り物ですな。何しろ座っていれ

   ばこの体を運んでくれるのですから。特に私の様な老体には」 

友之進「何をご冗談を。ご覧ください、景色の方が勝手に動いてくれるではないで

   すか」

安行 「そうだな」

 

 と、安行が岸の方に目をやれば、ふいに景色の方が迫って来る。船着き場に着いたのだ。


----もう、着いたのか…。


 もう少し乗っていたかったと思いつつも歩き出せば、そこは商店街とも違う、色街とも違う芝居の町だった。

 やがて、舟を降りた六人は芝居茶屋へと向かう。さすがにここまで来れば、安行も猿若町の賑わいに気を良くしたようで、友之進と今田に負けず劣らず、辺りを見回していた。

 芝居茶屋に上がり茶を飲んでいると、店の者が次の演目の始まりを告げに来る。


安行 「これは、良き眺め…」

 

 先程までの仏頂面はどこへやら、二階桟敷からの眺めに目を見張る安行だった。


今田 「気を付けないと落ちそうですな、本田殿は高いところは平気で」

真之介「私は実家の二階で育ちましたから」

今田 「では、地震の時はさぞ揺れたのでは」

真之介「はい、揺れました」

 

 と、真之介が言い終わらないうちに、にぎやかに三味線や太鼓が鳴り、中村座名物の幕間踊りが始まる。

 女客の嬌声が響く中、揃いの衣装の中には、前幕に出演していたまま、これから出演する狂言の衣装ままの役者もいる。夢之丞も次の幕の衣装で踊っている。


   「夢之丞さ~ん」

   「夢様ぁ!」

 

 と、センターで踊っている夢之丞への歓声がひと際響くが、こうなって来ると女も男もなく、皆、舞台にくぎ付けとなる。だが、その短い幕間踊りが終わると急に静かになってしまう。 

 そのことで、余りにぎやかに幕間踊りをやられたのでは、次の演目がやりにくいと不満を漏らすベテラン役者もいた。その後、市之丞による改良が加えられ、次の演目によっては静かな踊りも取り入れられ、それはそれで人気となり、素人の盆踊りと揶揄していた中堅役者達も幕間踊り目当ての客の入りに何も言えない。

 桟敷席には芝居茶屋から茶菓子、酒肴、弁当も届けられる。この弁当が幕の内弁当である。当時は芝居見物とは一日がかりの娯楽だった。芝居小屋と茶屋は密接な関係があり、閉幕後には贔屓の役者、芸者も呼ぶことが出来た。

 市之丞と夢之丞も安行たちの座敷に呼ばれる。 


市之丞「おや、今宵は、皆様お揃いではございませんか」

安行 「たまには、男ばかりというのも一興である」

今田 「いやいや、私を除いて美形揃い。何やら居心地悪うて…」

 

 と、今田がおどけて見せるが、友之進は、何より真之介と夢之丞の瓜二つぶりに驚きを隠せない。


安行 「そう言えば、尾崎は夢之丞とは初めてであったな」

友之進「はい。殿よりお話は伺っておりましたが、まさか、これ程とは…」

 

 と、酌をする夢之丞の顔と真之介を見比べている。


安行 「それにしても、幕間踊りとは、また、奇抜なことを思いついたものよ」

市之丞「殿様、それは私の発案にございます」

安行 「左様であったか」

市之丞「ある時、夢で。いえ、こちらの夢之丞のことではございません。夜に寝な

   がら見る夢にございます」

安行 「わかっておる」

市之丞「その夢の中に突如として現れたのであります。何しろ、この私と致しまし

   ては、寝ても覚めても、芝居、舞台のことしか頭にないもので。それこそ、

   夢の中の芝居にうなされて目が覚めたことも、一度や二度ではございませ

   ん。その夢に現れたる数人の若き踊り手。これはと思った時、ガバと起き

   上がったのであります。それからは、座頭を押して押して押しまくり、やっ

   と舞台化にこぎ付けたと言う訳にてございます」

 

 と、例によって、自分の多才振りアピールに余念がない市之丞だった。

 戯作物の方には、お駒と言う「アシスタント」がいることは知られてしまったが、幕間踊りの方はすべて自分のアイディアと言う姿勢を崩さない。だが、こちらも最初の発案はお駒である。それでも、衣装、振り付けと忙しく立ち回り、人気を博しているのだから多少の自慢も周囲は黙認している。


安行 「しかし、揃いの衣装の他に役の衣装で踊っているのには驚かされたわ」

市之丞「あれは、何とも早や、苦肉の策でございまして…」

安行 「それもまた、面白いわ」

市之丞「ありがとうございます。その様におっしゃって頂きますれば、踊り手にも

   励みになると存じます」  

 

 そして、夜も更け帰途に着く頃には、今夜は少量の酒が入った安行の顔もほころんでいた。


安行 「いや、今日は楽しかった」

 

 機嫌よく屋敷を門をくぐるが、一人、面白くない者がいた。

 安行の芝居見物の話を聞きつけた、母の八千代は満面の笑みで言ったものだ。


八千代「それなら、私も一緒に」

安行 「いえ、ここは男ばかりでと言うことになりましたので」

八千代「まあ、この母をそう邪険にするものではないわ」

安行 「母上は女同士でお行きください」

 

 素っ気ない安行の様子に渋々引き下がるが、女同士と言われても正室の亜子とは仲が悪いし、側室も一人は嫡男を産んで間がなく、後は女中にしても、お世辞やお追従を並べるがそれだけである。

 要は八千代も本当に気を許せる相手がいないのだ。こうなれば、頼りは息子だけ。なのに、近頃の息子はなぜか男とばかりつるんでいる。それも、あの憎っき真之介と…。

 安行と二人して、遺恨ある本田夫妻への仕返しを計画したときは楽しかった。

 単純に真之介を襲い、その髷を切ったとて、それではではないか。

 それこそ倍返ししてやろう!

 先ずは、真之介を油断させ、散々金を使わせてやろう。出来れば、実家の身代とも潰してやりたい。その上で、髷を切り、ふみも奪うと言う計画だった。

 八千代とて、真之介もだが、ふみも憎い。ふみが黙って安行の側室に来れば、こんなことは起こらなかった。ならば、八千代とて、ふみに一矢報いてやろうと画策するも、これまたなぜかいつも不発に終わっている。

 最初の茶会の時は、真之介の幼馴染の足袋屋の息子に踏み込まれてしまう。真之介の身辺調査もしたが、いくら真之介と親しいからと言って、町人がまさか旗本屋敷にのり込んで来るとは…。

 二度目はふみのそれこそ天敵である筈の従姉の絹江がやらかしてくれた。せっかく安行が元気な姿をアピールするべく顔を出したと言うのに、寸足らずの髷を盛大に不思議がり、あの時は八千代も腹立たしかったが、後の安行へのフォローが大変だった。

 それでも、真之介を油断させ、毎晩のように接待を受けていた時は、あの真之介が破滅への道をたどっているのだと思うと、ぞくぞくするほど楽しい日々だった。

 そんな安行の様子が変わる。江戸一番の芸者を身請けしたいと言う。それなら、真之介にさせればいい。その金を出させればいいはずなのに、それだけでは足りないと言う。

 そんな金はないと言えば、亜子に頼んでくれと言う。

 それはとんでもない話だ。亜子に頭を下げるなど、到底出来るものではない。いくら、かわいい息子のためとは言え、それだけは八千代のプライドが許さない。

 だが、そうこうしているうちに、仁神家の当主、八千代の夫が亡くなり、時を同じくして、側室に待望の男子が誕生する。我が息子が当主となり、跡継ぎの男子も生まれ、これで仁神家は安泰である。

 その後しばらくは静かな日々が続いた。いや、今も静かな日々に違いないが、安行はまたも真之介とつるみ始めた。

 日に一度、母の八千代と正室の亜子と短い言葉を交わし、我が子の顔を見るだけで、後は釣り三昧。別に釣りが悪いと言う訳ではないが、たまに母に孝養を尽くしてくれてもいいのではと思わずにはいられない。

 何より、腹立たしいのは亜子が厚かましくなったことだ。これからは家のことはすべて自分が取り締まると宣言した。


八千代「何を、嫁の分際で!」

亜子 「それはお互い様では。母上もかつては嫁であられたはず。でも、今の私は

   当主の妻にございます。そして、母上は隠居ではございませんか。これから

   はご隠居様とお呼び致すよう、皆に申し付けました」

八千代「隠居とな。まだ、その様な齢ではないわ!」

亜子 「ですから、先程申し上げましたように、今は私が当主の妻にございます!」

 

 と、いつの間にか亜子は家を実権を握ってしまったばかりが、それまでの八千代の部屋も取り上げられてしまう。余りの非道に、さすがに八千代は亜子に掴みかかるが、すぐにその手は払われてしまう。また、泣いて、安行に亜子の所業を訴えるもその反応の薄いこと。


安行 「隠居なさってください」

 

 残るは孫であるが、これも亜子が邪魔をする。


八千代「何を、子を生んだこともない、育てたこともない者に何ができる!」

亜子 「はい、将来、町人に髷など切られぬ様、厳しく育てます」

 

 そんな四面楚歌の状況の中、安行が芝居見物に行くと言う。当然母も連れて行ってくれるものと思っていたが、またも、男ばかりで行ってしまう。

 曇りの日の朝、出かける息子の後姿は、まるで雲の向こうへ行ってしまうのではないかと思われた。


 一方の亜子は舅の看病をしつつ、懐妊中の側室とも心を通わせていた。そして、舅の死と前後して、側室お美代の方が待望の男子を生む。


亜子 「決して、甘やかすことの無き様、下の者にも情をもって接することを教え

   て行かねば…」

お美代「はい、これからは何事も、奥方様にご相談申し上げます」

 

 屋敷内で、安行から暴力を振るわれなかった者が二親と正室亜子以外にいただろうか。それ程に安行はすぐに激高し、すぐに手が出る。それを八千代は何も言わない。

 夫に失望した女が希望を託すのは我が腹を痛めて生んだ息子である。もう、息子以外見えない。そんな母親の猛愛が子を増長させる。

 だが、それもここで断ち切らなければならない。この生まれたばかりの跡継ぎに同じ轍は踏ませない。そのために、先ずは姑の八千代に代わり、屋敷の実権を握ることだ。これは何とかうまくいきそうだ。

 近頃の安行は釣り三昧と至って普通の趣味に没頭している。だが、この平穏がいつまで続くものやら。何しろ、あの安行なのだ…。

 亜子は今はすっかり安行に気に入られている今田を呼んだ。


亜子 「今後のこともあります。最近の殿のご様子を聞かせてほしい」

 

 安行の本当の病気を知っているのは、今田の他には真之介だけである。


亜子 「殿も近頃は釣りと言う良いご趣味をお持ちになられ、何よりと思っており

   ます。その後、お体の方は…」

今田 「その、飲水病(糖尿病)と言うのは、今は節制するのが一番と医師より聞いて

   おります」

 

 安行がいくら釣りにかまけているとは言え、どの側室のところへも行かないことは訝しがられていた。


亜子 「左様か。殿のことはそなたが頼りです。これからもよろしく頼みます。そ

   れと、友之進殿にもお気遣いを。これからは本田真之介ともに、殿の良き話

   し相手になってくれると思います」

 

 と言って、今田に金を託すのだった。


今田 「あの、奥方様…」

亜子 「何なりと」

今田 「実は…」

 

 亜子がここまで、家のこと、家族のこと、家来のことを思ってくれていたとは…。


今田 「実は…」

 

 亜子のお家を思う気持ちに打たれた今田は安行の本当の「病気」を知らせ、いや知ってほしいと思うも、それでもまだ迷っていた。


亜子 「殿のご病気のことか」

 

 もう、これ以上は隠せない…。


今田 「はい。実は、殿は…。今の殿は女人に興味を持てなくなられておりま

   す…」

----そう言うことだったのか…。

今田 「このことを知っておるのは、私の他には本田真之介だけにございます。殿

   はこのことを人に知られたくなく…。故に、私も口外致しませなんだが、奥

   方様のお家だけでなく、私共へのお心遣いに…。いえ、もう、お知らせして

   おいた方が良いのでは思ったような次第にございます。したが、ご心配には

   及びません。殿のご病状も一時的なものにて、きっと、回復されます」

亜子 「よく知らせてくれました。これからも殿に何かあらば、すぐに知らせてく

   れるように頼みます」

 

 今田が下がり、一人になった亜子の片方の口角があがり、やがて、笑いが込み上げて来る。

 何と、あの安行が不能になった。これが笑わずにはいられようか。 

 思えば、新婚初夜から、野獣の様に襲い掛かられた。そのくせ、昼間は気持ち悪いくらいにやさしい。そして、夜は容赦なく襲って来た…。

 だが、それも一月と続かなかった。他の側室の許へ通い出す。逆に亜子はホッとしたものだ。その代わりと言うか、昼間も素っ気なくなってしまう。

 そして、気が付く。安行の母も大名の娘だが、側室の娘である。そこへ、さらに各上の大名家のそれも正室の娘が輿入れして来た。安行の父は妻に気を使っていた。ならば、今度は安行がそれ以上に妻に対して気を使わなくてはならない。そんなことは嫌だ。

 そこで、安行は自分なりに「アメとムチ」を使い分ける。それが男としての威厳を示すことだと思っていたようだ。

 亜子がそこまでのことに思い至るのには数年を要したが、いくらお飾りの妻であろうとも、いやしくも大名の娘である。これからは八千代に代わり、この家を実権を握る。

 そんな矢先に聞いた、安行の屈辱的な病気。切られた髪は時が経てば伸びるが、今田は一時的なものとか言っていたが、多分、もう…。

 あの芝居見物の朝、曇りの中を出かける安行を見送った時、このまま雲の向こうに行ってくれればいいと思ったものだ。それが、こんなにも早く実現するとは…。


 そして、こちらは雲の向こうから、あの男が帰って来た。




























































































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