夕暮れ

虚城 いのり

夕暮れ

 朝から時間に追われ、あたふたと出勤準備をしていない母親を見るのは今でもやはり慣れないと、今年で小学四年生になる昏坂浩人は今さっき目覚めた自分の為に朝食を作ってくれている母の後姿を見ながら、そう思った。いつもなら起きた時にはすでに朝食が用意されており、母親である昏坂雪江は玄関とリビング、そして彼女の自室を忘れ物を一つとってきては、また一つ思い出すので何度も往復しながら、最後に浩人にお別れを言うのである。しかし今日は日曜日、すなわち雪江は休みの日である。浩人が朝起きて、リビングにやって来た時にはコーヒーカップを片手に新聞を読んでおり、寝起きの浩人に優しくおはようと声をかけると、朝食を作りにキッチンへ向かったという次第である。

 浩人の父、信二は今週の日曜は非番では無く、ただ通常勤務よりも早く上がれるだけであった。しかし出番、非番に関係なく信二が帰ってくる時間にはもう、浩人は眠っているのでこの一家には家族団欒が訪れる機会が少ない。両親ともども働き詰めで雪江でさえも、休みの日は仕事について考えなければならない時間をどうしても作らなければならなかった。しかし、仕事ばかりで子供に愛情を注げていないという事は決してない。信二も雪江も、常に一人息子を愛していた。春には花見に、夏には海へ、秋には星を観に、冬にはスキーをしに行くという日を必ず取った。クリスマスや正月、誕生日をないがしろにしたことは無く、両親はいつも忙しいから特別な日はだ大切にしようという気持ちで臨んでいるのだった。

 テレビを見ながら朝食を食べていた浩人は、今日はお母さんと何をして過ごそうかを考えていたために、放送されている番組内容は全く頭に入ってこなかった。この時間帯の番組はどれも退屈なのだが、どうやら浩人はテレビやラジオように肉声のある雑音が無いと落ち着かないようであった。雪江は、浩人が朝食をとっている間に仕事関係の書類やらなにやらを終わらせようとするため自室に居た。彼女にはほぼ毎週の経験から、浩人の考えていることが分かっていたので、この時間帯にやろうと決めていたのである。

 朝食を済ませた浩人は、またテレビを見ながら考え始め、今日は近場の水族館に行こうと決めた。その水族館は大人気というわけでも、あまり人が来ないと言うわけでも無く、休日にはそれなりに混み、建物もそこそこの大きさがあると言うものだった。浩人は最近、昔買ってもらった海棲生物図鑑を引っ張り出してきては眺めているので、その影響があったのかもしれない。それに彼は覚えた知識を披露することで褒めてもらえると思ったのかもしれなかった。とにかく浩人は今日は水族館で遊ぼうと決めたのだった。しかし、彼が純朴に思い描いた母親と過ごす一日はこれから、彼にとっては大いなる力によっていともたやすく破壊されることとなる。


 突如として雪江の携帯電話に連絡があった。

「もしもし?」

「あら、昏坂さん? 申し訳ないんだけど柿田さんが今日急病で休みだって連絡が入ってねえ、代わりに出てくれないかしら? 他の人にも連絡したんだけど誰も出られなくって。せっかくの休みを邪魔しちゃって本当に申し訳ないんだけど、いらしてくれないかしら。もちろん無理にとは言わないのよ。昏坂さんには確か一人息子がいらしたし、そばに居てあげたいものねえ。でもこっちも人手が足りなくて、相当きついのよ。どうかそこのところを了解してくれないかしら?」

 雪江は内心、非常に渋い顔をしていた。書類はもうすぐ片付くし、そろそろ浩人と遊んであげなければならない、しかしここで断っては明らかにこれからの職場内人間関係で不利になるに違い無い。なにしろ連絡をよこしてきたのは幅をきかせているあの加賀見だ。もし断ったらあとで何を言われるか分からない。雪江は苦渋の選択を迫られた。

「……分かりました、今から準備するので遅くなりますが、向かいます」

「あら本当? 助かります、ありがとうね昏坂さん。急がなくていいから来てくれるだけで助かるわ」

 この人と話をしているといつも疲れると雪江は思いながら、通話を切った。そして浩人のいるリビングへ向かった。

「ごめんね、浩人。おかあさん今日これから仕事行かなきゃならないから、留守番お願いね。六時には帰ってこれると思うから、そんな顔しないで。お腹減ったら冷蔵庫に昨日の残りがあるから、それ食べて、ゲームでもしながら待ってて」

 当然、浩人には納得がいかなかった。今日はこれから水族館に行く予定だったはずが、この時間から一人で留守番なんて、思ってもみなかった。人間ならば誰しもが経験するであろう、期待に胸を膨らませていればいるほどそれが裏切られた時にやって来る失望感を超えた虚無感を浩人は今この瞬間に味わったのだ。それだけ、日曜日を楽しみにしていた浩人だったが、それでも母親のお願いを無碍にはできなかった。そして、やりようのない感情を抱えたまま浩人は小さくうなずいた。雪江は仕事の準備を済ませて出て行った。玄関まで見送った浩人は、薄暗いこの出入り口に飛び込んできた新鮮な夏の日差しと蝉の合声を尻目に、鍵をきちんと二つ掛け、つけっぱなしにしているテレビから流れるワイドショーの音声がどこか虚しく響くリビングへと戻った。

 

 時刻はちょうど十二時を過ぎ、そろそろ空腹を感じ始めた浩人は母親に言われた通り、冷蔵庫から残り物を取り出してきて、それを温めなおしている間に、同席する者はだれもいないテーブルへ自分用の皿一枚とスプーンを置いた。ゴトン、と響く音はそれを遮る生活音が他にないため部屋の中でよく通る。レンジから温められた残り物をテーブルに置き、テレビを見ながら昼食として食べ始める。相変わらずテレビはつまらないと思っていながらも、それを見続けた。いや、見ていると言うよりもむしろ聞いているほうが近いのかもしれない。テレビに映る人間の存在が今一番近くで実感できるので、浩人はおそらく、それによって孤独感を紛らわせようとしているのであろう。

 昼食を食べ終え、つまらないドラマを見ていたからか、13時半を回ったころから浩人は眠気に誘われ始めた。ソファはうたた寝するには寝心地が良く、初夏の陽気も相まって、そんな状態の彼を夢の世界へ誘うのに十分だった。現実が途切れとぎれになっていき、まばたきによる一瞬の暗黒に偽りの世界が映り始めると、もう既に眠りについていた。


 このソファはうたた寝するのには良いかもしれないが、十全な睡眠をとるのには向いていなかったらしい。というのも、浩人はソファのひじ掛けを枕にして仰向けで眠っていたのだが、首の後ろに不快な痛みを感じたことで目が覚めてしまったからだ。体を起こすとその鈍痛は頭の方まで広がっていき、浩人はこんな場所で眠りこけてしまったことを少し後悔し始めた。それらを振り切るかのように大きく伸びをし、多少目が覚めた頭で部屋の中を見回す。

 西日の差し込むリビングの中、オレンジ色に燃え上がる壁と天井、昼間よりめっきり細々となった蝉の鳴き声、だだ漏れのテレビの音声。ソファから起き上がり窓辺にむかうと、開けっ放しのカーテンの向こうに見える夕焼けが、寝ぼけ眼の黒目に映る。浩人ははっとしたように振り返り、もう一度リビングの中を見回す。炎に包まれたような色合いであるにもかかわらず、熱気や揺らめきは全く感じさせない、むしろどこか冷淡さというか淡白で平坦な感触を、西日で燃え上がったリビングが連想させた。浩人がこの異様な雰囲気に対して寒気を感じたのは、タオルケットを切ることなくうたた寝をしていたからでは決してない。冷や汗が頬を伝い、唾を嚥下する。テレビの音声はリビングに虚しく垂れ流されるだけだった。

浩人は落ち着きを取り戻すため、水を飲みにキッチンへ向かった。コップを棚から取り出して、一気に飲み干し、勢いに任せシンク横の台に叩きつけた。ガツンという音が室内にこだまする。ある程度冷静になった浩人は再びリビングに戻り、おとなしく母親の帰りを待つことにした。おそらくあと2時間ほどであろう。それまでまた寝てしまおうかと考えソファに寝転んだものの、心の奥底に押し込めた神経がやはり逆立っており、どうやっても眠りにつくことはできなかった。心臓の鼓動がやけにはっきりと聞こえ、胸のあたりが熱く感じられるが、反対に指先はどんどん冷たくなっている。

 どうやって気を紛らわせようかと考えていたその時、浩人が座っていたソファの背もたれの背後から、コンコンと窓ガラスを叩く音が聞こえた。まるで、ドアをノックしてこれからその部屋に入ることを合図するかのように。反射的に振り返る。背もたれから身を乗り出し、レースのカーテンを開いてみても誰もいない。目に映るのはオレンジ色の庭だけで、人が隠れている様子も無い。ドクッドクッドクッと早まる鼓動。浩人は本能的に確信していた。絶対に聞き間違いでは無いし、それに人間の仕業ではない事も。テーブルの上にあったリモコンをもぎ取るように手に入れると、急いでテレビの音量を上げた。ニュースを解説していた深刻そうなナレーターの声が、どんどん大きくなる。浩人はリビングからキッチンを抜け、洗面所まで行き音声が十分聞こえると分かると一安心してリビングへ戻った。するとその油断をついて、新たな現象が発生したのだ。

 インターホンが鳴った。浩人は一瞬身構えてしまったが、ただ単純に近所の人が何らかの用事でやってきたのかもしれないと思い、玄関へと向かった。しかし、廊下への扉に手をかけた時、狂ったように鳴りだしたインターホンが、再び浩人を恐怖の空間へと引きずり込んだ。彼はもう何も考えることができずに立ち尽くすのみだった。家をその内部から震わせるような無機質なベル音が絶え間なくなり続ける。浩人の耳にテレビの音声は全くと言っていいほど届いてこない。機械音の連続と、更に早まった鼓動の二つだけが彼の聴覚を支配していた。

 扉のノブに手をかけたまま、心の底から湧き上がってくる得体の知れない心情に、肉体の芯まで乗っ取られてしまったように動けないでいた浩人は、零れ落ちた冷汗が足の甲に当たり、我に返った。すぐに方向転換し、二階にある自分の部屋へと向かう。一段飛ばしでスタスタと駆け上がり自室に入ると、鍵をかけ頭の上から毛布をかぶりベッドの中に潜り込んだ。一気に階段を昇ったため、荒くなった呼吸が肩を上下させる。しばらくして一息つき、乱れた心拍数が落ち着いてきた頃にはここに居れば絶対に安心だと、浩人は思った。しかし、そんな彼の希望もすぐに潰えることとなる。

 ミシリ、と階下で物音がした。ゆっくりとそれでいて自らの存在をはっきり伝えるように。踵から爪先までを十分に使って足をフローリングに押し付ければ、この音が鳴るだろう。つまり、鍵を閉めているはずの玄関入り口から何者かが侵入してきたのだ。浩人は毛布を体にぴったり合わさるように引き寄せ、膝を胸のあたりまで折りたたんだ。自分の存在を極限まで小さくし、リビングをうろつく何かに見つからないようにするためだ。足音は二階へ続く階段へと徐々に向かっている。一歩一歩を踏みしめて、とうとう一段目にその存在が到達した。ギシッという音が踊り場の辺りまでよく響いた。それを聞いて満足したように、一段また一段と侵入者は歩を進めてくる。浩人は全身を震わせて、自分の姿を隠してくれる唯一の防具を力強く身に寄せ付けた。

 階段半ばまで近づいてきたであろうその存在は、突如として豹変したような行動を見せた。ドタドタドタッと浩人の部屋の前まで一直線に走り出してきたのである。極めつけにはドアをおよそノックとは言えない、握り拳で殴りつけるような勢いで叩き、ドアノブをガチャガチャと捻り無理やり扉を開こうとする。浩人の心臓はもう破裂寸前まで拍動していた。ただ奴が入ってこないよう祈るしか出来なかった。

 ふと、嵐が過ぎ去ったようにドアの向こうの騒音がぴたりと止む。浩人は極限まで張り詰めていた自分の神経が、徐々に緩まっていくのを感じた。時間を確認しようと思い、壁にかかっている時計を見るため、布団から出ようとしたその時、まさに浩人の部屋の中であのねっとりとした足使いによる床の軋みが鳴ったのである。どうやってなのかは不明だが、浩人の部屋へ侵入してきた何かは、再び自らの存在を強調する足取りでゆっくりと部屋の中を徘徊し始めた。浩人は呆然とするしかなかった。恐れていた事態が不意打ちという形でもたらされたのである。彼の中の時間はもう心臓を除いて、魂が抜けたように硬直してしまった。足音はとうとう彼の目の前まで迫っていた。

 だが、浩人の精神状態は先のような状態からさらに、恐怖心による負荷がかかり過ぎて、現実と遊離した部分において冷静になっていたのである。即身仏となる修行僧のようなものだ。肉体的にも精神的にも極限の状況まで追い込まれると、光明が見いだせる。浩人が見出した光明はこうだ。今、正面に奴がいる。そいつに向かって突進し、自分の被っている毛布をまとわりつかせれば、こちらから姿も見ずに済むし目くらましにもなり、この家からの脱出も果たすことができる。そうすれば相手も諦めるだろう。この時点で浩人には闘志さえ湧き出てきたほどだった。

 足音は浩人が毛布を被ってうずくまっているベッドの近くをうろうろしていた。手出しができないのかどうかは不明だが、彼の目の前を何度も往復していた。そして幾度目になろうか正面を横切って来た時、浩人は毛布を被ったまま勢いよく接近した。それと同時に両手を頭の裏まで振り上げ、唯一の武器を握りしめると、忌々しい怪音の発生源に向けて振り下ろした。そのまま走って横切り、自室を転がり出ると、二段飛ばしで階段を降り、つけたままだったテレビを気にも留めずにリビングを横切って、靴も履かず家から飛び出した。バタンと、反動で勝手に扉が閉まる音を聞きながら、家の前の階段を今度は急ぎながらも落ち着いて下って行った。その時初めて自分が裸足であったことに気が付いた。

 

 初夏の夕方は空気が生温かくまとわりつく様で、地の底の淀みの中にいるかのような空気感だった。この町の中央通りの向こう側から曇ったように輝く夕焼けが、すべてを染め上げる。

 浩人は自宅前の道路に面した歩道に、呼吸を乱れさせたまま今さっき自分が出てきた家の正面を眺めていた。恐怖からの解放感と溜まりにたまった疲労、そしてある種の達成感に浸りながら、タバコでも吸うかのように深く息を吸い吐き出した。そこで彼は、このぬるい粘液のような空気で胸の中が満たされたことに、非常に強い違和感を感じたのである。

 近所の家にはその住人が乗る車が路面に停めたままであるが、家に人がいる気配が全く感じ取れず、一夜にして廃墟となってしまったかのような雰囲気を湛えていた。浩人はこの夕暮れに包まれた町に居て、自分の居場所が無いと感じるほどの疎外感を覚えていた。どこかに引っかかる違和感に気を取られていると、あの何者かに追い込まれてから家を出る直前までの出来事が、早回しされた映像のように頭の中で再生され始めた。そして一連の出来事を追憶の中で再び経験したのである。

 彼はすべてを見た。それも、実際に体験している自分から遊離した視点から客観的に眺めて。結論から言えば、浩人の部屋には何もいなかったのだ。あれほど自己の存在を主張していた何かの姿は見当たらず、ただあの音のみを晒すだけで、実体はどこにもいない。浩人が投げつけた毛布は何に引っかかることも無く、ばさりと床に落ちて、そのことにも気づかずに彼は猛スピードで家の中から出てきたのである。一体あれは何だったのだろうか。浩人を恐怖のどん底に陥れることが目的なら、最後の最後に自らのおよそこの世のものとは思えない異形の姿を現せば良かったものを、追い込むだけ追い込んで自らの領域から逃がしてしまったかのようにさえ思えてしまう。

 しかし浩人は追憶の中で見た光景に言い表しようの無い胸騒ぎを覚えた。なにかこの世界で自分一人ぼっちになってしまったかのような、友人たちとかくれんぼをしていて気が付いたら皆帰ってしまっていた時のような、その種の孤独感を感じていた。時間はどれくらい経過したのだろうか。あと三十分もすれば、母親は帰って来るだろう。浩人はそう思い、中央通りをまっすぐ歩き市街地にでるための県道まで行って、そこで母親の帰りを待とうとした。この町は県道とT字に交差した、緩やかなカーブを含むもほぼまっすぐな中央通りの側面に家々が連なり、その側面にまた建物が建てられているというふうに形成されていた。だから、中央通りを歩いていればこの小さな町の住人の誰かと顔を合わせるし、車だって通れば少しは安心できるだろうと思ったのである。だが実際には、県道との交差地点まで歩いて十五分、誰一人とも出会う事無く、車の一台も通り過ぎなかった。浩人は不安感を募らせ、先ほどの胸騒ぎが予感めいたものへと変わっていくのを如実に感じていた。そしてそれは、母親の職場へ直接歩いて向かおうと思い県道を市街地へ向けて歩いて三十分ほど経過した時点で、確信へと変わった。一台も通らない車、いくら待っても変わらない赤信号、無人の施設の数々、母の職場にはさらに二時間かかったものの当然のようにして誰もいない。浩人はもはや、泣き出すことすらしなかった。彼の中にあるものは諦め、ただそれだけだった。理不尽な状況を無抵抗で受け入れる、そんな彼の態度に、自我の存在は見出すことができるはずもない。

 浩人はショッピングモールの屋上駐車場にて燃え上がった空を見つめる。いつまでも沈まない夕焼けを眺めながら、浩人はこう思った。このドロドロに溶けて垂れ流されたような時間の中を自分は一生生きていくのだと。おそらくこの世界にはもう彼以外の誰一人の人間もいない。浩人は何を考えているのか分からない表情、いや実際には何も考えていないのかもしれない、そんな表情で、あてども無くフラフラと歩き始めた。

 

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