2 また別の物語

「結局のところ、負けたんだろ」

 瑠璃(るり)が問う。

「いや、違うよ」

 仄香(ほのか)が答える。

「それじゃなきゃ、こんなところまで来ないだろ」

 瑠璃が言う。

「連れてきたのはアンタだ」

 仄香が逆らう。

「どうしても行きたいオーラを出していたのはオマエだよね」

 瑠璃が指摘。

「勝手に感じたのはアンタだ」

 仄香が反駁。

「意地っ張りだな。まあ、いいけど」

 瑠璃が諦める。

「そんなことないよ。あたしはいつも素直だ」

 仄香は素直じゃない。

 二人がいるのは昼の町、太陽の町、白い町。

 今は砂丘に隠れて見えないが、その向こうには海がある。

 深い藍色の海だ。

 Sという名の芸術家が愛した海、そして砂丘。

 スペイン領だが、もちろんスペイン国内ではない。

 が、それも昔のこと。

 今では元の大陸の寂れた観光地となっている。

 ここは芸術家Sに心酔した者たちにとっては聖地だが、それ以外の大半の者にとっては退屈な場所だ。

 ただし晴れているときの景観は素晴らしい。

 雨が降ると怖いほどで、すべてが闇の中に消えてしまう。

 気の利いたジョークとも思えないが、画家はこの地を『NOWHERE』と名付ける。

 誰でも一度は聞いたことがある言葉だろう。

No Whereならば『何処でもない(場所)』で、Now Hereならば『今ここにいる(場所)』 の意味。

 自分の心境は前者だが、仄香の感覚では後者かもしれないな、と瑠璃は疑う。

 が、それを仄香には伝えない。

「しかし泊まるところがあってよかったよ」

 瑠璃が言う。

「痩せても枯れても観光地だからね」

 仄香が返す。

「でもホテルは修理中だ」

 瑠璃が続ける。

「確かにね。ボーイもメイドもいなけりゃ、ただの大きな石の小屋」

 仄香がぼやく。

「和臣(かずおみ)さん、いなかったね」

 瑠璃が事実を述べる。

「死んだのかな。それとも喰いあぐねて、別の町に行ったのかしら」

 仄香が推論を述べる。

 二人が泊まったのは老婆の家だ。

 老婆以外には形容できない深い顔の皺が逞しい。

 老婆はSのことを覚えているという。

 一度は結婚して妻となり国境を越えた彼女だが、亭主が死ぬと子供と孫を彼の地に残し、独りで戻ってきたそうだ。

 そんなに好きな土地だったのですか、と瑠璃がカタコトのスペイン語で尋ねると、昔愛した男がいたんだよ、とはにかみながら老婆が答える。

 知り合いには一度も明かしたことがないから、たぶん誰も知らないだろう、とも。

 ふうん、と瑠璃は返事をし、それから老婆の物語を想像する。

 もっとも瑠璃は日本では作家だったから、正直に言えば、創造だ。

 今、その人はどちらに、と話の流れで瑠璃が問うと、さあ、わしがこの地を去ってすぐ何処かに行ったようだ、と老婆が答える。

 男だからもう死んでるんじゃなかろうか、と続けて言って笑う。

 ついで、ジャガイモしかないが喰うか、と二人に持ちかけるので、仄香を見てから瑠璃が応える。

 はい、いただきます。

「だけどオマエ、よくこんなところに住んでたな」

 部屋に戻ってから瑠璃が言う。

 問いではない。

「若かったからね」

 仄香が答える。

 事実だけを……。

「和臣さんと別れて日本に帰ってきてから、ずいぶん長い間、結婚しなかったわね」

「単に好いてくれる人がいなかったのよ」

「わっちに向かって、それを言うか」

「あら、本当のことよ」

「つまりオマエには見えていなかっただけか。……和臣さんのこと、本当に好きだったんだね」

「ううん、たぶん違う。それだったら別れなかったと思うよ。たった二年で……」

「帰ってきたとき、まだ三十前だもんな。地元で唯一有名な外資系の会社を辞めて渡航したとき、みんな驚いてたよ。あの優等生が狂ったって……」

「全然優等生なんかじゃなかったわよ。父が望んだ大学には入れなかったし、公務員にもなれなかった」

「でも一番の優等生だったよ。……ゴメンね。わたしたちが重かったんだよな」

「いいえ、そんなことありません、ってきっぱり断言したら嘘だけど、でも最後は自分の問題だから……」

「ねえ、あのとき仄香って処女だったの」

「今更、それを訊くのかよ」

「だって一度でさえ男と付き合ってた噂を聞かないし……」

「処女じゃなくなったのは、ここに着てからよ」

「えっ、うそ」

「失礼ね。うそじゃないわよ。でもわたしも若かったから……」

「オマエ、凄いな。精神的に好きだっただけで、こんな見も知らない土地まで来たのかよ」

「自分を試したかったのかもしれないわね。結局、男の目利きには失敗したけど、今になって思い出として溢れ返るなんて、和臣のこと、少しは見直したわよ」

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