3 可能性なし
「あら、お帰りなさい」
深夜のテレビ局での打ち合わせが終わり、宮原が疲れた身体を引き摺るようにして都内の共同住宅に帰宅すると坂下理紗子がテーブルにつまみを並べ、独り晩酌を愉しんでいる。部屋には彼女の好きなホワイトスネークの曲がかかっている。話を聞くと本日の仕事先からの移動距離が自分のアパートへ帰るよりも近かったので宮原のところへ寄ったと説明する。
「寄ったんじゃなくて、泊まり、だろう? ホテル代わりに……」
苦笑しながら宮原が指摘すると、その質問には答えず理沙子が問う。
「何かお腹に入れたいのなら作るわよ」
「いや、いいよ。向かいのコンビニで買って来たから」
「脂っぽいものばっかり食べていると太るわよ。……ってまあ、あたしもだけどさ」
宮原の疲れた顔をつくづくと眺めながら、どこか愉快そうに理沙子が言う。ついで、「まあ一献」と台所から持ってきた新しいコップに自分が飲んでいたじょっぱりを注ぐと宮原の前についと差し出す。
「今日は、もう仕事しないんでしょ?」
「ああ、そのつもりだ」
立ったまま差し出されたコップを受け取って一口呑み、そのコップを理沙子に返すとコートと上着をハンガーに掛け、ネクタイを緩める。「よっこらしょ」と口にしながら理紗子の向かいの椅子に腰掛け、皿に並んだスモークチーズを一欠け頬張る。ついで、「ああ、そういえば……」と理紗子も顔見知りの神崎雄二に会った話をし、「あいつも、いい顔付きになってきたよ」と続けるが、話はそれには留まらず、当然のように生体クローンに及ぶ。
「なによ、それ?」と宮原の言葉を請け、理沙子が早速話に絡む。臆することなく自身の博識振りを披露する。「まあ、植物だったら珍しくもないんだけどね」と前置きし、「一八九一年にウニの幼生、それからずっと下って一九五二年にヒョウガエル、さらに下って一九八一年にヒツジで成功してるわ。で、体細胞クローンだと一九六二年にアフリカツメガエル、一九九六年には乳腺細胞核由来のヒツジのドリーが作られてる」と止まらない。「それから細胞融合法が発明されて一九九八年にウシ、それからホノルル法(註4)を使って一九九八年にマウス、同じ方法でヒツジ、ウマ、ヤギ、ウサギ、ブタ、ネコ、ラットの成功例が報告されてるわね。で、二〇〇五年に――いろいろと複雑だから難しいといわれていた――イヌでも成功。まあ、あの韓国の研究者には後で土が付いたけど、イヌのクローンに関しては本当だったみたいね」
そこまでを一気に喋ってから理紗子は酒で咽を潤し、その先をまったりと続ける。
「一応、ヒトではまだ成功していない……ってことになってるけど、実際のところはどうなんだろう?」と首を捻り、「それにどの動物クローンでも細胞分裂に必要なテロメアの長さが元より短いらしいから、たとえ上手く作れたとしても今のところクローンはクローン元より短命なのよね。……ということは臓器移植用なら次々と育てる必要があるってことで、例えば培養槽の中で育てる場合は筋肉だって付かないから、見た目もきっと元と異なるわ」と続ける。
世間一般にはクローンとクローン元の姿形がまったく同一だと捉えられている節があるが、それは違う。例えば指紋や血管パタンは発生生物学的に後天的なものだ。見かけや生体情報が必ずしも瓜二つになるとは限らない。ネコの場合は毛色が、ウシの場合は鼻紋が、クローン元と異なることが確認されている。もちろん育成環境が変われば外観はいくらでも違ってくる。
「だけどさ、生体クローンだとすると見かけは人間なのに臓器移植用だから人権ナシっていうのは、この時代じゃ、ちょっと難しいかもしれないわね。それが良いか悪いかは別にして。……とすると残るのは、やっぱりiPS細胞(註5)かな? STAP細胞(註6)はあっという間に何処かへ行っちゃったし……。(作者註。この部分は投稿原文のママ)ES細胞(註7)だと発生初期の胚からしか得られないし、その採取で母体を傷付ける可能性があるし、それに個体まで育つかもしれない胚を実験で使っちゃっていいのかっていう倫理的な問題も付きまとうしね。その点iPS細胞だったら、血液や皮膚から安全に採取できる――ってことになってる――し、ローマ法王庁・生命科学アカデミー所長のお墨付きもありますからね」
一般に、植物は組織の切片からその全体を再生することができるが、動物では――一部の下等な種を除き――受精卵以外はその能力を持たないとされる(註8)。だが培養下においてはすべての組織に分化し得る能力を持つ細胞が存在する。よってそれらの細胞から必要な組織を分化形成することができれば、事故や病気で失った腕や臓器をドナーからの提供なしに移植することが可能になる。またその場合はドナーとレシピエントが同じ個体であるため、理論的に拒絶反応も生じない。
「……とはいってもiPS細胞から始めて移植可能な腎臓や膵臓を作り出すのは、まだ至難の業だよね」
ヒトの身体は約六十兆個の細胞から構成されているが、過去に戻ればたった一個の受精卵に辿り着く。その一個の受精卵が増殖分化を繰り返し、やがて人の形が出来上がる。
一般に受精卵だけが持つこの組織への分化能力を全能性と呼んでいる。
ES細胞もiPS細胞も――実際にあるとすればSTAP細胞も――全能性を有しているが、ES細胞では倫理的な問題が研究上の枷となる。一方iPS細胞(及びSTAP細胞)にはそのような問題はないが、iPS細胞の場合は最初期に懸念された成長細胞の癌化を回避する方法は発見されたものの細胞作出の効率が低く、現時点でも癌遺伝子を用いた以前の方法に至らない。
全能性を持つ万能細胞の研究は――特許権も含めて――世界各国でしのぎを削り合いながら押し進められているが、実際に移植された場合の組織補完力などについては不明な点が数多いのが現状だ。よって種々の組織や各種臓器の再生を目論む再生医療への道程は、まだまだ険しいと言わざるを得ない。
「なんか、すっかりそっち方面の物知りになってるけど、そんな仕事でも引き請けたわけ?」
専門知識をスラスラと口にする理紗子に感心して宮原が水を向けると、
「別にそういうわけじゃないのよ。この前一緒に行ったあのときの取材で悲惨さが頭にこびりついちゃってね。それで調べたわけ。ホラ、わたし、あなたと違って抜群の暗記力を誇る日本最高学府の一つを出てますからね。……それにあたし子供が出来ない身体だし」
理紗子は自分の知識開陳の理由をそんな言葉で宮原に説明する。
「だけどさ、拒絶反応がまったくない自分以外のヒト由来の臓器なんて考え難いわよ。少なくとも、ここ数十年の研究スパンではね。もしかしたらどこかの秘密国家の最先端研究所では完成間近なのかもしれないけど、仮にそうだとしてもそんな情報が漏れてくるとも思えないし……。とすると一番近いのが異種移植でブタかしら? 例の超急性拒絶反応関連遺伝子をノックアウトしたミニブタ(註9)……」
「でもミニブタの場合はとりあえずヒトでの臓器対象は膵臓だろう? それに超急性拒絶反応が抑えられたとしても作出過程で豚の染色体に組み込まれたウイルスが移植先で悪さをしないという保証もないし」
「……となると夢は見たいけども、やっぱりまだ拒絶反応なしのヒトへの臓器提供は単なる可能性の段階だと言わざるを得ないんじゃないかな?」
註4 細胞融合を行わずにクローンを作る方法。核を除いた卵子に体細胞を直接入れる。
註5 人工多能性幹細胞/誘導多能性幹細胞。
註6 刺激惹起性多能性獲得細胞。
註7 胚性幹細胞。
註8 その常識を覆したのがSTAP細胞だったのだが……。
註9 遺伝子ノックアウトとは、ある生物個体に機能不全の遺伝子を導入する遺伝子工学上の技法で、この場合のノックアウトとは『使えなくした/機能不全にした』という意味。人体では異物が混入すれば、超急性、急性、慢性の順で拒絶反応が生じるが、対象となるミニブタでは超急性拒絶反応を起こすとされる人間にはないアルファガラクトース遺伝子が除去され、かつ超急性および急性拒絶反応を抑制する作用を持つといわれるMCP(Monocyte Chemoattractant Protein)遺伝子が導入されている。
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