2 奇妙な噂

「いえ、ちょっとわかりかねます」と神崎。「SF小説の話ならばクローンかな、っていう気はしますけど」

 宮原は神崎には直接関係ないと言ったが、実は臓器売買と若年売春には関係がある。異常勃起目的でホルモン剤を多量投与され、その結果、低血圧/心疾患/脳梗塞といった副作用で使い物にならなくなった子供たち、あるいは売春宿オーナーの命令を聞かなかった子供たちの中には臓器の提供者(ドナー)として命を奪われる者もいる。日本を含めて先進国の金持ちの命を救うため、売買目的で臓器を抜かれ、最終的に死に至らしめられるというわけだ。その実態は正確には把握されていないが、現地で逮捕者が後を絶たないところをみると、危険だが労せず金を稼げる美味い闇商売なのだろう。人は利に傾く。そして被害を蒙るのはいつも社会的な弱者だ。

「そうだな。確かにクローンだったら本質的に自分と同じ身体だから拒絶反応はないだろう」

 倫理的問題が伴うので技術的には可能でも行政的には実行困難な生体クローン移植を社会に適応させるには、おそらく法律が必要だ。そして生体クローンを強制的に移植臓器として利用することが可能にならない限り――子供たちばかりでなく――貧困者の悲劇が続くだろう。そう考えると宮原は絶望的な気持ちに囚われてしまう。

「そうか、クローンならばな」

 宮原が神崎の言葉を受け、パチンと頭のスイッチを切り替える。

「可能性はあるな」

 臓器移植における拒絶反応には大きく分けて三つある。

 その一つが超急性拒絶で、これは主に提供者のHLA(註1)が関与する。二つ目が急性拒絶で、こちらは細胞性免疫(註2)が関係する。そして三つ目が慢性拒絶で、これは液性免疫の影響が主要因といわれている。それぞれ移植後、一日以内、一週間から三ヶ月、三ヶ月から一年以降に発症する拒絶症状だ。いずれにしても自分と他者との生体系の違いから起こる免疫反応が原因なのだ。

 臓器移植に関して最初に懸念される超急性拒絶にはHLAが関与するが、それには三種類(註3)あり、そのパタンすべてが一致するのは兄弟姉妹でも四人に一人、それ以外の赤の他人となると百人から千人に一人くらいしかいないだろうと見積もられている。

 近年では優れた免疫抑制薬が開発されているのでHLAが合致しない移植でもある程度拒絶反応が抑制できるようになってきたが、そうはいっても拒絶反応をできるだけ少なくするにはHLAの一致が不可欠なのだ。

「……ですけど自分用の生体クローンが実現できたとして、それはそれで結構後味悪いんじゃないですかね? これは単なる想像ですが、培養液の中で最低限の刺激しか与えないようにして育てれば自己の認識も記憶もないでしょうから、たぶん自分の遺伝子を分けた兄弟姉妹という感じはしないかもしれませんが、でも一度でも実物を見たら、その先は嫌悪感と倫理的な想いの板挟みになって気分が悪くなりますよ」

 だが神崎のそんな暗澹としたイメージを宮原は平然と引っ繰り返す。

「ふうん。神崎くんは案外気が弱いんだな。見かけからして屠畜現場を見たら肉が食べられなくなる人間とも思えんが……。まあ、それはともかく、自分のクローンは他人じゃなくてどこまでも自分なのだから、他人を殺して臓器を奪ったりするよりは、よほど後味が悪くないと思えるよ。倫理的に言っても臓器が提供されなければクローン元が死ぬと仮定すれば、他に選択の余地はないだろう。屠畜の喩えでいえば、自分が育てた肉を自分で喰うのと同じ理屈だ」

「理屈はそうでも、そんなに簡単に割り切れませんよ」

「確かにね。言うのは簡単だが、実際には抵抗があるだろうな」

 そこまで話したところで二人が宮原の目指す会議室前に到着する。さすがに音漏れはないが、中に人の気配がする。

「じゃ、今日はここで」と宮原。「来週中には仕事も一段落するはずだから、そのときは飲みに行こうじゃないか」

「では、その日を楽しみにAD修行に戻るとします」

 神崎は極めて明るい声で宮原にそう応えると一礼し、踵を返して元来た方向に駆け足で去る。宮原以外の仕事仲間たちは既に会議室内にいるらしく廊下に他の人影はない。

 若い友人の後姿を暫しぼんやりと眺めた後、宮原は気を引き締め、会議室のドアを開け、中に入る。


 註1 HLA=ヒト白血球抗原/組織適合抗原。HLA抗体による液性免疫のこと。液性免疫とは抗体や補体を中心とした免疫系で抗体が血清中に溶解して存在するため、こう呼ばれる。別名、体液性免疫。

 註2 獲得免疫のひとつで抗体が関与しない免疫系。マクロファージなどの免疫細胞が体内の異物を排除する。

 註3 HLA・A、HLA・B、HLA・DRの三種類。なおヒトは各HLAを二種類ずつ持っているので実際には計六種類となる。

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