そして彼女はニャーと鳴く

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そして彼女はニャーと鳴く

 二月二十二日。

 暗かった部屋が窓からの日差しで明るくなってから、大分時間が経った。

 時間は、ちょうど午前八時。

 浩平のスマホが、彼に起床時間を告げる為に動き出す。

 スマホからは昨日新しく設定したばかりの音楽が鳴り響いているけれど、浩平はなかなか起きない。

 とても気持ち良さそうに寝ている。

 私もこのまま浩平の幸せそうな寝顔を見ていたいけれど、寝坊させるわけにはいかない。

「浩平。浩平、朝だよ。友達との待ち合わせに遅れちゃうよ」

 私は浩平に声を掛けながら、浩平の顔をぺしぺしと叩いた。叩き続けた。

「……ん? メイさん、おはよう。起きたから叩くのやめて」

「おはよう、浩平」

 浩平が起きたので、私は叩いていた手を引っ込め、後ろに下がった。

 浩平はベッドから起き上がり、朝食の準備を始める。

 私は浩平の邪魔にならないように部屋の隅へ移動して、そこでじっと浩平の様子を眺めていた。

「メイさん、ご飯だよ」

「ありがとう」

 しばらくして浩平が朝ご飯を用意してくれた。私は浩平の隣に行って、一緒に朝ご飯を食べる。正直、まだこの食事には慣れないけれど、と言うよりも、慣れちゃいけないと思っているけれど、まずは生きなくてはいけない。

 それに今は浩平と一緒だ。大好きな浩平と一緒に朝ご飯を食べている。その幸せな時間を大切にすることにした。

 朝ご飯を食べ終わった浩平は、食器を片付けた後、服を着替えて玄関に向かう。

 私は浩平を見送る為に浩平の後に続いた。

「行ってくるね、メイさん」

「いってらっしゃい」

 玄関のドアが閉じて、ドアの前から浩平の足音が離れていく。

 まるで夫婦みたいなやりとりだなと思いつつも、現状に苦笑してしまう。

 私は、しばらく玄関でその足音を聞き届けた後、部屋に戻った。

 一人になると、部屋が広く感じる。

 まあ、今の私には、浩平がいても、広く感じるのだけれど、それでも一層広く感じた。

 私は部屋に置かれたテレビリモコンのボタンを押す。

 この手では押しづらいが、頑張って押した。

 この部屋の留守を預かる私が楽しめるものは、テレビくらいだ。

 今は私のスマホも手元に無く、ノートパソコンも無い。

 本棚にある本を読もうにも、この体だと取り出すのも、読むのも大変だ。

 何よりも下手に触って、浩平に怒られるのは嫌だ。

 なので、ボタン一つで何とかなるテレビを見るに至るまで、そう時間はかからなかった。

 しばらくぼうっとテレビを見ていると、部屋が暗くなった。雲が太陽を覆ったのだろう。

 ふと窓の方を見ると、窓ガラスに薄っすらと映る自分の姿が目に入った。

 そこには愛らしい、けれども憎たらしい、白い猫が映っている。

 そう。窓には白い猫が、今の私が映っているのだ。

 出来る限り意識の外に置こうとしても、現実から目を逸らし続けようとしても、無理なものはやはり無理だった。

 私は今、猫である。名前は、メイ。浩平はメイさんと呼んでいる。

 けれど、私は生まれてからずっと猫だったわけではない。

 私の名前は、雪枝芽衣。この部屋の主である浩平は、大学の同級生で、もっと言えば幼稚園で出会い、そのまま同じ小中高に通った幼馴染でもあり、そして私の恋人だ。

 ずっと仲の良い幼馴染くらいにしか思っていなかったけれど、気がつけば好きになっていた。好きになっていることに気づいた。

 けれど私は告白する勇気のない臆病者だった。告白して、今の関係を失うのが怖かったのだ。

 だから高校の卒業式の日。浩平が私に告白してくれた時は嬉しかった。本当に、本当に嬉しかった。告白を聞いた時は驚いて、言葉を失い、これが現実かどうか分からなくなり、その日は浩平の「付き合ってください」との言葉に「はい」と返事をするのが精一杯だった。

 私の気持ちが少し落ち着いた翌日。改めて私も浩平を好きだという気持ちを告げて、私達の交際が始まった。

 その日から約一年後の今、猫として恋人の世話になるとは、想像もしていなかった。

 まあ、想像するほうが無理だろう。

 私がメイさんになってから一週間が経ったけれど、メイさんになってからは寝てばかりいて、一週間と言われてもピンと来ない。それくらいあっという間のことだった。記憶を振り返っても、一週間前のことを、つい先程のことのように思い出せる。

 あの時、メイさんに噛まれなければ、私はメイさんになっていなかったのかもしれない。



 あの時。そう、一週間前。

 春休み明けに提出するレポートを浩平と一緒に作成する為、通い慣れた浩平のアパートを訪れた日。

 浩平が近所のコンビニへ飲み物などを買いに行った為、私一人が部屋に残った時のことだ。

「ニャー」

 レポートを作成していると、メイさんが私の足にトントンと触れるのを感じた。

「メイさん、ごめんね。ウチで預かってあげられなくて」

 メイさんは私の親友、小春 > こはるの猫だ。この子をメイと名付けたのも小春で、「芽衣ちゃんみたいに白くて綺麗で、知的な雰囲気のある子だから、メイと名付けたの」と言っていたのを覚えている。私の名前と同じ呼び方の名前を付けたことに色々と思うところもあったけれど、もうこの子をメイさんと呼ぶのにも慣れた。

 小春の言う通り、メイさんは、とても綺麗な白で、美人さんな猫だ。私も可愛がっている。

 で、そんなメイさんが何故浩平のアパートにいるのか。

 それはこの日から一週間、小春が家族旅行で海外へ行っているから。

 本当は私が預かって、メイさんとイチャイチャしたいのだけれど、私の母は猫が苦手な人で、それは叶わない。

 そこで実家で猫を飼っており、気心も知れていて、以前もメイさんを預かったことのある浩平が、今回もメイさんを預かることになったのだ。

 小春もまた、幼稚園の頃からの幼馴染で、ただ一人の親友。消極的で引っ込み思案な私とは対照的に、積極的で行動力があり、私の手を引っ張って、色々なことを体験させてくれた。小柄で、可愛く、笑顔の似合う子だ。

 ……本当に、笑顔が似合う子だ。

「ニャー」

 と、メイさんが私の足に寄り添ってくる。

 そんなメイさんを撫でながら、私は呟いた。

「ねえ、メイさん。小春は何か、私に隠し事でもしているのかな?」

 最近、小春の様子がおかしい。いや、最近でもないか。

 それはともかく、私に向ける笑顔がいつものそれとは違く、どこかぎこちない。

 けれど、私はその理由を聞けないでいる。

 私は相変わらず臆病者だ。自分の気持ちを表に出すのが怖い。小春が何を思っているのか、本当は察しているのに、そのことに触れたら、色々なモノが壊れそうで触れずにいる。

「私の気のせいかな?」

 こんなことをメイさんに言っても仕方がないのは分かっている。メイさんが何か良いアドバイスをくれるわけもなく、「気のせいだよ。小春に隠し事なんてないよ」と言ってくれるわけがないのも分かっている。それでも私は、今の気持ちを誰かに聞いてもらいたくて、口に出さずにはいられなかった。

 だから私は、

 ――もうすぐ分かるよ。

 そんな言葉を耳にして、「ひっ」と声にならない短い声をもらしてしまった。

 今の声は、誰?

 周囲に目を向けようとした時、私の指をメイさんがかぶっと噛んだ。

 噛まれた。

 そう認識した時、私の全身に電流が走ったような衝撃を受けた。

 今の衝撃はなんだったのだろう。噛まれたにしては痛みの感じ方がおかしい。

 そう思った時には、私はもうメイさんになっていたのだ。

 今でも意味が分からない。

 メイさんに噛まれたら、メイさんになった。そんな馬鹿げた話があるのだろうか。

 けれど実際に私がメイさんになったのだから、そんな馬鹿げた話があるのだろう。

 あの時、メイさんに噛まれ、一瞬、視界が暗転した後、目の前には大きな何かがあった。

 それが何なのか知る為に視線を上に向けると、そこには巨大な人間がいたのだ。

 目が合った瞬間、自分の中の危険信号がけたたましく鳴り響き、私は逃げようとしたが、身体が上手く動かせず、その場に前のめりに倒れてしまった。

「た、助けて!」

 誰かに助けを求めるため、大きな声を出した。

 けれど恐怖のためか、上手く喋れず、まるで猫の鳴き声のような声しか出なかったのだ。

 今にして思えば、「猫の鳴き声のような声」ではなく、「猫の鳴き声」そのものだったわけだけれど。

 とは言っても、その時の私にそんなことを理解できる余裕はなく、ばたばたと上手く動かせない身体で逃げようと必死だった。必死に、必死に逃げた。

 結局、それは無意味に終わったのだけれど。

「ひっ!?」

 身体を抱きかかえるように持ち上げられた私は、恐怖で暴れに暴れた。

 全てが終わる。訳が分からないまま終わってしまう。

 それは嫌だ。嫌だ、嫌だ、と思いながらも、走馬灯のようなモノが脳裏を駆け巡った。

 そんな私の走馬灯が止まったのは、その巨人の顔が私の顔を覗き込んだ時だった。

「……私?」

 目の前に現れた巨人の顔は、鏡で見慣れた私の顔だったのだ。

 何故この巨人は、私と同じ顔をしているの?

 そんな疑問を浮かべ、呆気に取られた私の顔を、その巨人はまじまじと見た後、不気味な笑みを浮かべた。

「にゃはははは」

 まるで人語を話す猫が笑ったら、こんな笑い方をするかもしれないと思うような笑い方をした後、その巨人は私を静かに下ろした。下ろして踵を返し、玄関へと向かっていったのだ。私は呆気に取られながらも、すぐに逃げられるように警戒しつつ、その私に似た巨人から一瞬も目を逸らすことなく、部屋から出て行くのを見届けた。

 そして足音が聞こえなくなった頃、私は警戒を解き、安堵したのだった。

「助かった……」

 けれど、恐怖は終わらなかった。喋った言葉が人間の言葉になっていなかったのだ。

 何かおかしい。

 ようやくそこで自身の身体に起きた変化へ目を向けられたのだけれど、ここからはもう錯乱という言葉が相応しい。

 取り乱して、取り乱して、意味もなく叫び、そしてその人の言葉ではない、猫の鳴き声を耳にして、更に混乱した。

 当然といえば、当然だ。自分が猫になっていたのだから。

 私が、現実から目を背けるように意識を失うまで、そう時間は掛からなかった。



 意識を失う程錯乱したにも関わらず、次に目を覚ました私は、自分の身体を見て、ああ、やっぱり猫のままなのか、これは夢ではないのだな、と冷静だった。

 自分でも不自然に思うほど冷静だったのだ。

 人間の環境適応能力は高いというけれど、そういうレベルの話ではない。

 何かおかしいと自分の感覚に疑問を抱いた。抱いたのだけれど、今は深く考えないことにした。

 再び取り乱して、今後のことを全く考えられないよりはマシだと思ったからだ。

 今後のこと。つまり私が元の身体、雪枝芽衣に戻る方法についてだ。

 時計を見ると、意識を失っていたのは、ほんの僅かな時間だったようだ。

 私は私の身体を取り戻したい。その為にも、すぐに私の身体を追いかけたい。

 けれど、追いかけるにしても、どこに行ったのか分からないのに追いつけるはずもない。

 それ以前に私は、この姿で外に出るのが怖い。

 私は今、猫なのだ。当てもなく、この姿で外に出れば、どんな危険が待ち構えているのかも分からない。

 だから今は、ここにいる他ないと思った。

 ――ガチャ。

 その時、部屋のドアが開く音が聞こえた。同時に私の身体が緊張と恐怖でこわばる。

「あれ?」

 私の身体が戻ってきた。

 と、思ったけれど、ドアを開けたのは、浩平だった。

 私の身体から恐怖と緊張が抜け落ち、助けを求めるために浩平の名前を呼び、浩平に駆け寄った。

 この時、何の疑問も抱かなかったけれど、私は駆け寄ることができた。

 猫の体なのに、先程はまったく動かせなかったのに、当たり前のように動かして、浩平の側まで駆け寄れたのだ。

「芽衣のやつ、どこかへ行ったのか?」

「ここだよ! 私が、私が芽衣なの!」

 巨大な浩平の足に掴みかかって、私は叫んだ。

 自分が雪枝芽衣だと名乗り、助けを求め続けた。

 けれど、

「ごめんね、メイさん。ちょっとこっちへ行っていて」

 私は浩平に抱きかかえられ、メイさんの居住スペースに置かれた。優しく、ちょこんと置かれたのだ。

 それで十分だった。十分に理解した。

 浩平の耳に私の言葉は届いていない。

 そして私の姿は雪枝芽衣ではなく、猫のメイさんとしか映っていない。

 そんな気はした。それはそうだろうと思った。自分でも自分がメイさんに見える。

 言葉を話したつもりが、まともに話せていない。

 さっきまで浩平に向けて話した言葉も、うまく話せず、結局は「ニャー」としか言えていなかった。

 他に何か私が雪枝芽衣だということを伝える方法がないかと思い、書くものを探したが見つからない。

 どちらにしろ、この手ではペンの類は無理だなと思った。

 それから机の上に私のノートパソコンが置いてあることを思い出し、それに「私が雪枝芽衣だよ」と打とうと思い、頑張って机の上に乗っかり、置いていたノートパソコンに文字を入力しようとしたけれど、この手ではなかなか上手く打てず、「あっ、メイさん、芽衣のパソコンで遊んじゃ駄目だよ」と再び抱きかかえられ、メイさんの居住スペースに戻された。戻されてしまった。

 それから浩平は、スマホで私に連絡を取っているようだった。

 そして、

「あっ、芽衣? 部屋に戻ったら、いなかったからどうしたのかなって。……うん、ああ、そうなんだ。お大事に。芽衣のノートパソコンは、どうする? うん、分かった。後で届ける。無理せず、安静にしていろよ」

 私は浩平の言葉を聞きながら、目を見開き、言葉を失った。

 私が電話に出ている? 私が? いや、私はここにいる。

 じゃあ、電話の向こう側にいるのは、誰? 私なの? それじゃあ、私は誰なの?

 頭が再び混乱を始めた。

 私は確かに雪枝芽衣だ。これまでの人生を振り返っても、雪枝芽衣としての思い出しか出てこない。

 だから自分は確かに雪枝芽衣だ。

 では電話の向こう側にいる私は誰だろう。

 浩平が普通に電話で話しているところから、不自然な様子はないのだろう。

 けれど私は覚えている。今も耳から離れない。

「にゃはははは」

 あの笑い声が耳から離れないのだ。あの笑顔が目に焼き付いて離れないのだ。

 電話の向こう側にいる私、あれはメイさんだ。私は、そう思った。

 取り戻さなきゃ。メイさんから私の身体を取り戻さなくては。

 けれど、どうやって?

 自問に対する答えは、すぐに思い浮かんだ。

 私はメイさんに噛まれてメイさんになった。ならば、私が雪枝芽衣の身体を噛めば元に戻れる。

 ……はずだ。

 確証はない。けれど、それしか思い当たる答えもなかった。

 しかしメイさんは、ここに来るのだろうか。来れば私に噛まれるかもしれない、というのに。

 先に結果を言えば、この一週間、私になったメイさんは、ここを訪れることはなかった。



 テレビを見ながら、回想の中にいた私は、いつの間にか寝ていたようだ。

 この身体になってから、眠くて眠くて仕方がない。

 それに抗おうとしても、抗うことは許されず、私はいつの間にか寝てしまっている。抗いたいのに、抗えないのだ。

 私が睡魔に抗いたいのには理由があった。

 私が寝て起きる度、私の中の何かが変わっていっているのだ。

 何が変化したのか。

 それは気づいたり、気づかなかったりだけれど、確かに私の中で何かしら変わっていっているのを感じる。

 分かるところで言えば、この身体にだんだんと馴染んでいっていることだ。

 最初は少し身体を動かすだけでも違和感があった。転びそうになることもあった。

 けれど今は、普通に動かせる。当たり前のように、飛び跳ねて、ベッドの上にも、机の上にも登れる。

 他にも感情面でも変化を感じる。

 うまく言葉には出来ないけれど、徐々に徐々に変わっていっているのを感じるのだ。

 なんとかしないといけないとは思いつつも、なんとかする方法が思い浮かばないでいる。

 困ったものだ。本当に。

「おはよう、メイさん」

 私が目を覚ましたことに気づいた浩平が私に挨拶をする。

 部屋の時計を見ると、午後一時。友達との用事を済ませて、帰宅したようだ。

「おはよう、浩平」

 私は返事をしてから、あぐらをかいてテレビを見ている浩平の足の上に乗った。

 ここ最近、私の居場所はここだ。ここが落ち着くのだ。普段の私なら、こんなことをするのは、恋人とはいえ、恥ずかしくて、恥ずかしくて、とても出来ない。出来るわけがない。

 けれど、猫になってから、自然とそれが出来るのだ。

 本能の赴くままにというか、感情に素直というか、まあ、ともかく出来るのだ。

 あれほど本心を表に出せず、隠して生きてきたというのに。不思議な感覚だ。

 それにしても落ち着く。落ち着きすぎているな、と自分でも思う。

 今、猫になっているのに。おかしなことになっているのに。

 こういうところにも変化が起きているなと思いつつ、私は浩平に身体を預けて、再び眠りについた。

 が。

 ――ピンポーン。

 部屋のチャイムですぐに目を覚ました。

 浩平は足の上にいる私を横に置き、玄関へと向かった。私は浩平の後を追いかける。

「こんにちは、浩平くん。あっ、メイさん。元気だった? 迎えに来たよぅ」

 ドアの向こう側には小春が立っていた。小春は浩平に挨拶した後、浩平の足元にいる私に顔を向けて、手を振る。

「はい、これ。旅行のお土産。メイさんを預かってくれたお礼に、沢山買ってきたの」

「おお、こんなに買わなくても良かったのに。でも、ありがとう」

 旅行の荷物を抱えたまま来たのかと思ったら、そのカバンごとお土産だったようだ。浩平はそのお土産を受け取り、小春を部屋に促す。小春は「お邪魔します」と言い、綺麗に靴を並べてから部屋に上がった。浩平と小春は、どこか余所余所しさも感じたが、和気あいあいと話をしながら、一緒になってメイさんの荷物をまとめ始めた。

 つまり、私がここにいられる時間は、あと僅かだということだ。

 浩平が小春の家に遊びに行くことはほとんどない。それは私が浩平と会える時間が、もう皆無だということだ。

 それは困る。とても、嫌だ。

「さっ、メイさん。私達のお家に帰ろうね」

 そんなことを思っている間に荷物をまとめ終わったようだ。

 小春が私をペット用のキャリーバッグに入れようと手を伸ばす。

「嫌!」

 私は小春の手から逃げた。追いかけてくる小春の手から、部屋の中を逃げまわった。

「どうしたの、メイさん? 浩平くんの部屋が気に入っちゃったのかな?」

「そうだよ。だから私はここにいる。小春の家には行かない」

 通じないのは分かっている。けれど私は自分の意志を言葉にした。

 けれど、意志の通りにはならない。

「気に入ってもらえて嬉しいけれど、小春を困らせちゃ駄目だよ」

 逃げまわる私を浩平はあっさりと捕まえた。こんなにあっさり捕まるとは、猫として失格だ。

 失格で良いのだけれど、今は良くない。私は浩平に優しく抱きかかえられ、キャリーバッグの中に入れられた。

 抵抗したのに、暴れたのに、人間の力には敵わなかった。

 ――カシャン。

 これでもう、浩平とは会えない。そんなのは嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ!

「浩平! 浩平!」

 私は助けを求めるように浩平の名前を呼び続けたが、浩平は笑顔で私に手を振るだけだった。



 次に目を覚ました時、見慣れた小春の部屋にあるメイさんの居住スペースにいた。

 時刻は午後十時。あれから大分寝ていたようだ。部屋に小春はいない。私だけだ。

 ……もう、浩平とは会えないのだろうか。

 おそらく、ここにも私になったメイさんは近づかない。近づいてこない。

 私が私に戻るチャンスは、もうないのかもしれない。

 そして何より、仮に戻れたとしても、雪枝芽衣は浩平と……。

 気持ちが沈んでいく。黒い感情が増していく。

 自分の中で、この先の選択が確かなものへと変わっていくのを感じた。

 ――カチャ。

 そんな気持ちでいると、部屋の扉が開き、小春が入ってきた。

 その顔は、見慣れた明るい表情とは、かけ離れていた。

 どうかしたのだろうか。

 正直、親友とはいえ、小春の心配をしている気分ではない。自分のことで精一杯だ。

 が。今の私がそんなことを思っているとは思わないだろう。

 小春は私の前に座り、私に対して話を始めた。

「聞いて、メイさん。芽衣ちゃんが浩平くんと別れたんだって」

 ……ああ、その話か。

 私はどこか冷めた気持ちで小春の話を聞いていた。その話はもう知っている。

 私がメイさんになった翌日。私の家に私のノートパソコンを届けに行った浩平の顔色は優れなかった。

 私になったメイさんの様子がおかしかったのだろうか。そんなメイさんと何かあったのだろうか。

 もしかして、あれが私ではないと気づいたり?

 と、少しでも良い方向に考えを向けた矢先、とてつもなく悪い答えを耳にする。

 浩平が呟いたのだ。

「何で芽衣は、急に別れようだなんて……」

 ……は?

 その時、私の思考は浩平の言葉の意味を理解出来ず、一旦停止した。

 そして再び私の思考が動き出した時、物凄い勢いで感情が暴走を始める。

「浩平、別れようって言われたの!? メイさんに!? どうして!? 何があったの!」

 私は話して、と浩平の足を叩いた。

「メイさん、慰めてくれるの? 優しいね」

「いや、慰めるとかじゃなくて! 優しいとかじゃなくって! どういう話があったのか聞かせてって言っているの! 私、浩平と別れるつもりなんてないんだからね!」

 私は何とか話を聞き出そうとしたが、浩平には通じなかった。

 それでも独り事を呟く浩平の言葉から、私になったメイさんが別れを切り出し、浩平と別れたのだけは分かった。

 分かったけれど、納得が行くはずもない。

 ふざけるなよ、メイ……!

 私の中のどす黒い感情が留まることを知らず、溢れに溢れた。

 今すぐにでも部屋を飛び出し、アイツをどうにかしたい。

 けれど、今の私にそれも叶うはずもない。

 暴走する感情とは別に、冷静にモノを判断する私がいた。

 そして暴走する感情を抑え込むように、睡魔が私を襲い、その猛威に抗えず、私は眠りについたのだった。

 次に目を覚ました時には、私の中で暴れていた感情は沈静化していた。

 まただ。またこの変な感覚だ。

 メイさんに対する怒りは変わらずにあるけれど、眠る前までの暴れる感情は静まり返っていた。

 静かに怒っていた。おかしな感覚だ。

 と、その時はそんなことを思ったものだった。

 そんな回想を私がしているとは知らず、小春の話は続いている。

「芽衣ちゃんの家に旅行のお土産を持って行ったんだけれど、その時に芽衣ちゃんが言ったの。『小春は浩平が好きなんでしょ? だったら、あげる。小春になら、浩平をあげられるよ』だって。芽衣ちゃんのことだから、私の気持ちに気づいているとは思っていたけれど、まさか突然あんなことを言うなんて……」

 確かに私は気づいていた。小春が大学に入ってから浩平を好きになったことを。

 気のせいだと思いたかった。気のせいだと思おうとしていた。

 もしもそれが本当なら、小春に浩平を盗られてしまうと思ったから。

 小春は「芽衣ちゃんは、すらりと背が高くて、色白の美人さんで、しかも頭が良くて才色兼備だよね。私も芽衣ちゃんみたいな長身美人さんに生まれたかった」と言う。

 けれど私は、その言葉を素直に受け入れられない。

 私は私に自信が無い。私は消極的で引っ込み思案な、暗い子だ。

 もしも小春が本当にそのように思っているのなら、それは小春のおかげだろう。

 小春は私を美人だと言うけれど、化粧や服などは小春の影響を多分に受けている。

 もしも私が美人に見えるとしたら、小春に、

「芽衣ちゃんには、こういう服が似合うと思うの!」

「芽衣ちゃんもお化粧しようよ! 分からない? 色々と試してみようよ!」

「芽衣ちゃん、芽衣ちゃん。芽衣ちゃんには、この雑誌のモデルさんみたいな髪型が似合うと思うんだけれど、どうかな?」

 と、勧められたものを勧められるがままに試した結果だ。

 学校の成績は良いけれど、頭が良い訳ではない。学校内の型にはまった勉強が出来るだけで、社会に出てから通じるような応用力はないのだ。それに学校の成績が良いのも小春と一緒に勉強をしていたおかげで、普段から勉強する癖が付いただけだと思っている。

 彼女の言う私は、小春のおかげで出来た私だ。

 小春と出会っていなかったら、存在しない私なのだ。

 小春には本当に感謝している。こんな私の手を引っ張り、色々な体験をさせてくれて。

 思い返しても、本当に楽しかったことばかりだ。

 だからこそ思う。小春には敵わない、と。

 小春は積極的で行動力があり、いつもクラスの中心にいた。

 小柄で、可愛く、笑顔のとても似合う子だ。

 そんな小春が本気で好意を寄せれば、浩平は私の元を離れていくだろう。

 だから、そのことには触れずにいた。触れたら、色々なモノが壊れそうで触れずにいたのだ。

 けれど今、雪枝芽衣は浩平と別れた。私は別れたくなかったのに、別れたことになっている。

 だとしたら、小春が遠慮することもない。私自身に遠慮するなとも言われてもいるし。

 小春も切り替えの早い子だ。遠慮するなと言われたら、遠慮はしない。

 けれど、そうか。私が、私になったメイさんが、小春にあげると言ったのか。

 もしかしたら、メイさんは、そんなご主人様の想いを叶えるために、私の身体を奪い、私と浩平を別れさせ、ご主人様と浩平をくっつけようとしたのかもしれない。

 そうだとしたら、なんて主人想いの猫なのだろう。

 三味線にして飾ってあげたい気持ちだ。

 ふざけるなよ、本当に。

 自分の中で黒い感情が増していく。徐々に、徐々に増していく。

 そして、その感情を抑え込めようとするように、再び睡魔が私を襲ったのだった。



 次に目を覚ました時、いつもの様に高ぶった感情は静まっていた。

 が。

 それも目覚めて少しの間だけだった。

 自分の中にある黒い感情は消えておらず、自分の中に広がっていく。

 そしてまた、それを抑えるように、すぐさま睡魔が私を襲い、私は寝る。

 その繰り返しを何度繰り返したことだろうか。

 気がつけば、小春の家に来てからあっという間に、二週間が経っていた。

 そしてその日。小春の口から浩平と恋人になったことを聞いたのだった。

 小春は、とても嬉しそうに語る。本当に、嬉しそうだ。

 小春は、私のただ一人の親友だ。今まで小春のおかげで、私はとても楽しい時間を過ごしてこれた。

 本当に感謝している。私は、そんな小春のことが大好きで、

「ニャー」

 そんな小春のことが大嫌いだ。

 全身に電流が走ったような衝撃を受けた後、視界は一瞬暗転した。

 先程まで感じていた部屋の広さは感じない。とても高く感じていた天上もすぐ近くに見える。

 自分の身体が人間であることを確認し、近くにある姿見に視線を向けると、鏡に映る小春と目が合った。

 どうやら上手く、小春の身体を手に入れられたようだ。

 最初にこうしようと思ったのは、浩平と雪枝芽衣が別れたのを知った時だ。

 元に戻っても、私のことだ。浩平のことが好きでも、きっと復縁することは出来ない。

 だとしたら、あの体に戻る意味があるのだろうか。

 けれど、ずっと猫のままでいたいわけではない。

 この姿では、いずれ小春の家に連れて行かれ、もう浩平とは会えない。

 浩平と会うには、浩平と話すには、人間の体が必要だ。

 だとしたら、適任は一人しかいない。小春だ。小春しかいない。

 小春に噛み付いて、小春と身体が入れ替われるのかは分からない。

 けれど、その手段で入れ替われるのなら、小春と入れ替わろうと思った。

 それでも、その時の私はその考えを否定したのだ。

 他の人の身体を、親友の身体を奪ってはいけない、と。

 自分のために他の誰かを巻き込んではいけない、と。

 けれど私は、その考えを完全には頭の外に追いやることはできず、その後も、そのことについて、何度も何度も考えていた。考えては否定して、考えては否定しての繰り返しだった。

 でも、今は無理だ。無理だった。否定することが出来ない。

 浩平を他の誰かに渡したくない。

 浩平を小春に渡したくない。

 だから私は噛んだ。私から浩平を奪った小春の指をがぶりと噛んだのだ。

 ペットと飼い主は似ると聞いたことがある。確かにその通りだ。

 メイさんは私の身体を奪い、小春は私の恋人を奪った。

 どちらも、私の大切なモノを奪っていった。よく似たペットと飼い主だ。

 足元を見ると、メイさんになった小春が、目を見開いてこちらを見ている。

 そして彼女は「ニャー」と鳴いた。

 彼女が何を言っているのか分からない。けれど、分からなくても構わない。

 私は彼女に言う。

「泥棒猫にはお似合いの姿ね」

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