自動車と原発

自動車と原発はちょっと似てますね。技術が生み出した便利なものだけど、使っていれば死人を出す恐れもあります。


死亡事故の恐れがあるから自動車を使うのをやめようと考える人は現実にはほとんどいないでしょう。みんなが気をつけたら、ある年を境に交通事故死者がゼロになる事がありうると本気で信じてる人も現実にはほとんどいないでしょう。たいていの人は、例年並みの死者数と自動車の便利さを秤にかけた上で、便利さを優先させることを選んでいます。その犠牲は仕方が無いものだと判断します。自分自身が犠牲になるリスク込みで、です。


原発もその構図は似てます。でも、原発で犠牲が出る確率、出た場合の犠牲の規模(量的規模および遺伝的影響による複数代への影響という意味での時間的規模)は、余程の偶然が無い限り、自動車のそれとは違う値になります。その値が変われば、構図は類似でも、犠牲を仕方ないとみなすかどうかの判断結果は変わって来ます。規模の増減は、ある程度のレベルを超えると質の変化になります。質の変化は仕方なさの判断結果も変えます。


リスク規模の算定は、自動車や原発と言った技術の産物の場合、専門的な知識を要しますし、時間がかかることもあります。専門家ではなく、仕事を持ってて忙しい普通の人には、リスク規模の算定を自身ですることは、現実的にはかなり無理です。自動車の場合はそれでも、毎年何人死んできたというハッキリした実績がありますから、それでもかろうじて感覚的に概算することは出来ます。原発は、今のところ、そういう訳にも行かなそうです。専門家じゃない人に出来るのは、専門家に素人向けの噛み砕いた説明をして貰って、それを材料にして、何がどこまで仕方なくて、どこから先は仕方ないでは済まされないのかを、自分の責任で判断することだけです。判断には、どの専門家の説明が本当っぽいかを見分けることも含まれるでしょう。見分けの基準には、専門家じゃないのですから、勘を使うしかないでしょう。勘が外れたら、勘の悪い自分の責任を背負うしかないでしょう。


専門家の側も、原発技術の専門家だけじゃなくて、複数の分野の専門家が要るでしょう。例えば噛み砕いて説明する技術の専門家が要るでしょう。昔で言えばマスコミ業界に就職したようなタイプの人が。また、リスクとコストの兼ね合いの専門家も要るかもしれません。これは、経済官僚あたりがそれに当たるのでしょうか。もしかすると、判断基準考察の専門家も要るかもしれません。これは政治家のイメージです。


それら多くの専門家の言うことを、勘でより分けながら、自己の責任において、原発の便利さとそのリスクとを秤にかけて普通の生活者が一人一人判断を下していく。難しいですね。普通の社会人にはちょっと出来そうにありません。どうしたらいいというアイデアも特に思いつかないです。

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