作業仮説としての標準受容者
「文法は作業仮説ですから」と英語学の教授が言うのを講義で聞いたことがあります。そこでの「作業仮説」の意味は、私が察するに、その説が主張するような仕組みが実在するかどうかはともかく、そういう仕組みがあると仮定すると、いろんなことの説明がついて、何かと作業がしやすくなる方便、といったようなことだったと思います。自然科学みたいな、実体のある対象を研究するのと違って、言語研究は、そもそも存在してるのかどうかも怪しい、言語の本質なんてものを追い求める空疎な遊びだよ、という、言語研究者という立場からの、自虐めいた発言だったのでしょう。
作品の意味とは何か、を考える時、私は、作業仮説として、標準受容者という存在を措定します。特定の時代・地域に於ける、ごく一般的な感性を持った受容者、それがここで言う標準受容者です。作品の意味とは、その作品が標準受容者に与える印象や作用である。私はそう思います。例えば、ノルウェーの森が、発表当時の日本の標準受容者に対して、切ない恋愛小説という印象を与えるなら、それが当時の日本におけるノルウェーの森の意味なのだし、21世紀のドイツの標準受容者が人間の実存の不条理性を読み取るなら、それが21世紀ドイツでのその作品の意味。
この考えが言外に排除しようとしてるのは、作品の意味を作者個人や個々の受容者の中に求めることです。それを排除しようと私が思うのは、私がたまたま、大衆芸能によく接するからでしょう。週刊誌に連載されるマンガを想像するとわかりやすいかとおもいますが、連載マンガなんてものは、作者がどんな深い意味を込めたって、読み手が詰まらないと思えばすぐ打ち切りになります。一方、10パーセントの読者がつまらないと思っても残り90パーセントが面白がれば連載は続くでしょう。私が、標準受容者にあたえる印象・作用が作品の意味だと言うのは、そのノリです。
こういう益体もないことを何故考えるかというと、それは、趣味で創作をして、その創作作品を推敲していく際に、推敲の基準が欲しいから。複数の表現方法があり得る場合に、どちらを採るかを考える時に、良し悪しを判断する基準があった方が作業しやすいのですが、その際に、自分の狙ってる時代・地域の標準受容者に対してどの表現方法がより効果的かと考えるわけです。
ただ、土日創作者の私としては、どの時代・地域の標準受容者を狙うかは作者であるこっちの勝手だぜ、と思ってるとこがあって(笑)。極端な話、三千年後の火星地方在住の標準受容者向けに推敲するかもしれないw
そんな受容者、実在しうるのかって?。作業仮説ですからね。実体的に存在するとはかぎらないんですよ(爆笑)
土日にこうゆう下らない文章を書いてると、如何にも休日だなぁって気がして心が和みますねwwwあー、なごなご(なんちゅうオノマトペw)
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