053x:月食の隙に

 どんと背中をぶつけられ、思わず膝をついた。通り過ぎていく哄笑はクラスメイトのモノと相場が決まっている。

 振り仰げば相手を想起するまでもなく、見たくもない顔が通り過ぎていった。

 ぎりと唇を噛んで立ち上がる。黒い制服についた埃を払った。

 ――今に見ていろ。

 雅人は一人だけ飛び出た頭をにらみつける。

 ――いよいよ今夜だ。

 走り出し、クラスメイトの脇をすり抜け、そのまま家路についた。


 グランドクロス、惑星直列。

 グランドクロスは地球を中心に太陽系の惑星が十字を描く現象であり、惑星直列はその名の通り太陽系の惑星が一直線に並ぶ現象である。

 単なる珍しい天文現象ではあるが、雅人の手にする本には違う説明があった。未だ説明仕切れない重力が時空のひずみを生む瞬間なのだと。

 何十年、何百年に一度のグランドクロス、惑星直列など待ってはいられない。奇跡が、非日常がほしいのは今だ。

 今夜はスケールこそ小さいがそれが起きるのにふさわしい夜だ。


 家に着くと、鍵を隠しから取り出して玄関を開ける。ただいまと言う必要もなければ実際に言うこともない。

 そのまま静かな家が気のせいであるかのように音を立てて階段を駆け上がる。自室に飛び込み、天体望遠鏡を手に取った。

 必要なモノは上着と、小銭。望遠鏡を入れた巨大な鞄、決定的瞬間を撮影するためのデジタルカメラ。玄関をあけようとして思い立つ。何か夜食のような物。

 台所へ行けば、見慣れた文字のメモ用紙と千円札が一枚。――今夜も遅くなります。夕飯はこれで食べてね。

 途中でコンビニでも寄ろうと、千円札を懐へしまい、メモは破って捨てた。


 目的地は小一時間自転車を走らせた先にある森林公園だった。木々に囲まれた広場は住宅の明かりも届かず、街にありながら比較的夜空が見える。本当はもっと星の見える場所が良いのだけれど、中学生の少ない小遣いでは贅沢も言ってはいられない。

 日が沈むまで……人気がなくなるまでベンチで過ごし、雅人は望遠鏡をセットする。

 向ける先は南。月の南中高度に合わせる。

 対象は今、昇り始めたところだった。数時間後。雅人の望遠鏡がとらえる中で皆既月食が始まるのだ。

 月食は、太陽と地球と月が一直線に並ぶ現象である。月と地球のラグランジュポイントL2では、最大の重力負荷がかかることになるのだ。

 常より高い重力負荷は時空をゆがめる。ゆがんだそこに異世界へ続く扉が開く。

 NASAがアポロ計画で隠匿し、月探査衛星かぐやのデータからも消された、異星人どころの騒ぎではない。異世人がそこにいるのだ。

 異世人は地球をねらっている。地球人を根絶やしにすべく、この世界に現れるそのときをねらっているのだ。

 ……雅人の願いの通りに。


 月は徐々に高度を増す。煌々と街灯よりも明るく街を照らし出す。

 夜食に買ったおにぎりを食べ終え、夜風に上着の前をあわせる。

 そして、それは始まった。


 気のせいほどの影の浸食。じわりじわりと月を喰い、覆い尽くしていく。

 太陽は今は地球の真裏を照らしている。影は地球の陰、そのもの。

 陰の中で雅人の願いは形をなす。

 ごくりとつばを飲み込む。『彼ら』が現れる瞬間を、望遠鏡を……望遠鏡にセットしたデジタルカメラの画面を見ながら待ち受ける……!


「及川」

 !?

 びくりと揺れた手がカメラにぶつかった。あわてて振り返ると、見知った影が立っていた。……見たくもない、クラス一の長身……半井だ。

「おまえも月食見に来たのかよ」

 言われた間にも、闇が深くなっていく。雅人は答えず……拒否するかのように背を向けた。

「へぇ、すごい望遠鏡だな。カメラも」

 食最大まで、あと一時間。

「お。欠け始めてる!」

 半井は雅人の様子を気にすることもなく、望遠鏡の脇に立つ。空を仰いで歓声をあげた。

「すげーな、月食なんて。俺、ニュースで聞いてさ、飛び出して来ちまった!」

 そういえば、半井の家は公園のそばだったか。ぼんやり思いながら、カメラを直す。

 ……このままだと、『奇跡』の瞬間まで居かねない。

「それにしても、ずいぶんゆっくりなんだなぁ」

「……全部終わるまで二時間はかかる」

「げ、そんなにかかるのか!? うわー、母ちゃんにちょっとって行ってきちまった」

 今すぐ帰ればいい。心の中で思う。

「ま、いっか。月食なんて滅多に見れるもんじゃないしな」

 居座る気か。

 カメラの調整を終え、望遠鏡を挟んで半井と反対の側で座り込む。無言で上着の前をあわせた。

 しばらくは無言で月を見上げた。時間がかかるとはいえ、見る間に確実に、月は影に浸食されていく。

 地球の陰。自分たちの、陰。

「……及川、こういうの好きなのか?」

 こういうの? 意味がわからず、無言でいた。

「月とか、星とか……天体、とか言うの」

 ……好きだった。遠くの星を、何千、何万年もかけてやってきた星々のひかりを見ることは。自分たちなど、所詮ちっぽけな存在でしかないのだと、自分たちの葛藤など、ほんの些細なことなのだと、思い知ることが。

 普段は口も聞かない父親にやっとの思いでねだって買ってもらった望遠鏡、貯めていたお年玉をはたいて購入したデジタルカメラ。

 そして見つけた、本。

 とはいえ、答えるのもしゃくな気がして、やはり黙ったままでいた。

「嫌いなわけがないか! ごめんなつまんないこと聞いてさ」

 何に謝られているのかわからず、やはり黙ったままで、いた。

 風の音。木の葉の音。遠く、救急車のサイレンが通り過ぎていく。

 月食率は五割を超え、夜空はますます暗くなる。

「月食とか日食ってさ、なんか、不思議じゃね? 他の世界とつながりそうってか、魔物でも出てきそうってか」

「……え」

 思わず振り返った半井の顔は、望遠鏡に遮られて見えなかった。

 ……半井が。クラスのリーダー格で、スポーツもできる半井がそんなことを言うなんて……。

「ちっさいころ、日食あったじゃん。皆既日食っての? あれ、見てさぁ。なんかやたらと感動したんだよね。真っ昼間なのに真っ暗になるし、星見えるし。んで、怖くもなったわけ」

 自分の影からなんか出てきそうで、と笑みを含んだ声で続ける。

「昔の人が日食とか、月食とか、彗星とかで凶事だとか大騒ぎした気持ちがわかるなぁって。もちろん、単なる天体現象だって、知ってるけどさ」

 陰が濃くなっていく。食最大まで……異世人の襲来まで、あと、わずか。

「知ってるけど……ありそうじゃね? 月の裏でたとえば別の世界との扉が開いて……とかさ」

 闇が静かに、世界を覆った。

「あ……!」

 半井の声が聞こえる。

 雅人はカメラに手を伸ばすこともなく、膝に顔を埋めた。

「及川、撮らないのかよ、撮るぞ!? うわ、すげー!」

 異世人が訪れるはずが、なかった。

 けれど。雅人は奇跡を、見た気がした。


 ――僕は一人じゃないんだ。


 結局完全に影が月から抜けるまで待ち、半井と別れた。

 家に帰ると珍しくそろっていた両親に、こっぴどくしかられた。

 ……しかられ、望遠鏡は没収されてしまったけれど、そう悪い気はしなかった。


 短い睡眠時間を経て、どうにかこうにか起床する。

 食事をする間もなく学校へとタイムトライアルを始めようかと思ったときに、カメラの確認だけした。

 半井が押したシャッター。何枚も移された丸い真闇。きれいに撮れた月食画像

「……ええ?」

 目を丸くしてもう一度画面を確認し、カメラをひっつかんだまま、家を出た。


「半井!」

 たぶん、初めて呼んだ。半井は動じることもなく振り返る。

「よう、及川。どうした」

 雅人はカメラを押しつけた。画面を操作し、一枚の写真を呼び出した。


 ……月の裏から地球を目指すかのような、不思議ないくつもの、光の画像を。

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