035:遭難幽霊船

 白々と曙光が世界を海と空の二つに分けていく。

 重々しくたれ込めた雲もいつの間にか薄くなり、穏やかな波音に嵐は去ったのだとようやく気づく。

 乗組員たちは大丈夫だろうか。見回りに行こうとしてその場に引き戻された。何事かと振り返れば、骨ばかりの自分の指が堅く手すりをつかんだままだった。

「船長、だめでやす。また同じ場所でさぁ!」

 苦労して指を引きはがしていると、物見台から声が振ってきた。

 いち早く立ち直った遠見が、早速自身の仕事をこなしたのだろう。

 私は苦労して引きはがした白い骨で手すりをつかみ直し、落ちくぼんだ眼窩で前方を凝視する。すでになくなって久しい胸から大量の息を吐き出した……そんな錯覚を覚えた。

 ――見慣れた平らな島影が我々を取り囲んでいた。


 貴様らは何だと問いかける声があったならば、由緒正しき幽霊船だと答えただろう。暫く前であったなら。

 人の時間をはかることはできないから、暫く前がいつのことだったかと人に説くのは非常に難しいが、そう昔のことではない。

 ある時、声が聞こえた。声は『神』だと名乗った。

 幽霊である我が身。神などくそ食らえと思わないでもなかったが、声は取引を持ちかけてきた。その取引は……長い幽霊生活にいい加減倦んでいた我々にとって、魅力的なものだった。

 さる少年を幽霊船に引き入れること。

 少年を死者の世界に引き入れ、我々と同じ存在にすること……つまり、殺すことができれば、我々に安寧の『死』を与えるというものだった。


 遙か東方にいるという少年を求め、旅を始めた。

 月の恩恵を受ける夜にすすむ、日の当たる時には『陰』で休む。

 それを幾度も幾日も、何度となく星が巡る間続け、ついに『東』へたどり着いた。

 少年の乗るという大きな船が海賊に襲われ、難破するその瞬間を見た――。

 船内は歓声に包まれた。

 海に落ちた人間はもろい。あとは少年を捜して、殺すだけだ。

 元水夫たる人魂が幾人も海に降りた。骸骨が木ぎれを出して少年を捜す。

 探すついでに邪魔な生者を別の生者たちが落としたボートに押し込めながら、ただ一人を捜した。 


 ついに見つけた少年は、少年と言うだけあってまだ若く……幼く、我を見て、晴れ晴れと笑った。

 自分の運命など知りもしないというように。

「よかった。やっぱり来てくれた……!」

 こしゃくな笑みを見た瞬間、曙光が我々を照らし出した。


 再び夜のとばりが落ちてみれば、確かに我の手の中にいたはずの少年はどこにも存在しなかった。

 船はいずことも知れぬ海をさまよい……幽霊船だと言うのに、遭難したかの様相を呈していた。

 時折大嵐がある他は至って穏やかで、取引をするまでと変わらない『幽霊船』の生活が待っているばかりだった。


 少年はいったいどこへ行ってしまったのか。

 我々は取引に失敗したのだろうか?

 ……永遠にこの海をさまよい続ける定めなのだろうか。


 *


 月光にぼんやりと浮かび上がる陰をプールサイドで眺めながら、少年は思わず笑みを浮かべた。

 まさか、幽霊船と『人間』が同居できるとは思わなかった。……やってみれば、納得といえなくもないけれど。

 『人間』が使うのは主に昼間で、幽霊船は夜の生き物(?)だ。……豪華客船の甲板のプールの棲み分けにはもってこいというものだ。

 くしゅん。

 夜の潮風は存外冷え込む。

 くしゃみを漏らした少年はすっかりしめった上着に顔をしかめながら立ち上がった。夜の甲板に長くいるもんじゃない。

 船室へ入ろうとドアへ手をかけて、ふと、足を止めた。

「僕をどうにかしたいなら、せめて『人間』を使うべきだね」

 振り返りもせず言い置いて、ドアの中へと消えていった。


 少年の背後、月を背にして、影が揺らぐ。

 揺らいだ影は名残があるかのようにしばしその場をたゆたい、じわりと夜空に消えていった。




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