030:箱庭の門番

 あの時までは全てうまくいっていたのに。


 *


 仕事は順調だった。残業は必要だったけどその分必ず成果が出たわ。会社によっては女性の昇進はまだ難しいっていうけど、来年には部下がつくことになりそうだった。係長って言うのかしら? もっと忙しくなるぞって、部長直々に言われたのよ。趣味らしい趣味も持ってなかったらから、忙しいくらいでちょうど良かったし願ったりかなったりだった。細いヒールでコツコツとロビーを歩いて、部下を使って仕事を動かす。キャリアウーマンにあこがれてたのよ。もっと大きいことをしてやるんだから。お世辞にも仕事が出来るとは言えない男の子は、仕事女は可愛くないなんて言うけど、ひがんでるだけだってちゃんと知ってたし、気にもならなかった。

 そんな私でも、恋人もちゃんといたわ。結婚の話も出てた。会社で一番の営業マンで、私の仕事への理解もあった。社内結婚は何かと言われることが多いけど大丈夫だと私の目を見て言ってくれたし、言うだけじゃなくて去年以上に実績も上げた。当然女の子達にはうらやましがられたわ。私も鼻が高かった。彼を狙っている子はたくさんいたもの。営業先に行く途中、電車の中からくれたあのメールを受け取ったとき、不自然な時間だとわかってはいたけど思わずお茶を入れてしまったわ。舞い上がってしまって仕事が手につかなかったから。

 父さんも母さんも結婚には大賛成だった。彼の家でも歓迎してくれた。私ももう二五だし、彼は来年には三〇になるわ。私の上には兄がいて、彼は次男坊だった。お姑さんは優しかったし問題があるわけがなかったの。今まで彼に浮いた噂一つなかったのが不思議なくらいよ。女性社員の間で変な噂が流れたこともあったわ。もっとも、私はちっとも信じなかったけど。

「ほんの少しね、怖くなることがあるの。何もかも順調すぎて」

 婚約指輪をもらったその席だったわ。彼は優しく微笑んでくれた。大丈夫だよと、指輪をはめた私の手を優しく握りしめてくれた。

「大丈夫だよ。全て本当なんだから」

 うんと、私は頷いた。まだ若いウエイターがオードブルを運んできたのを覚えてる。窓の外は淡くもやがかかっていて、けれどかえって街の明かりが滲んでいてとても綺麗だった。

「ここはきっと天国なんだわ。きっと神様も祝福してくれているのね」

 上空には淡い淡い月明かり。月の光と地上にうつる幾千もの星々全てが私たちを包んでいて、祝福されているのだと思えた。


「最初はね、郵便受けの中にチラシの一つもなかったの」

 うん。グラス片手に彼は頷いた。けれどその顔に映るのはめまぐるしく変わるテレビの反射で目は画面を追っていた。

 最近の彼はちょっと変。優しいのも仕事に一生懸命なのも何も変わらないけれど、なんだかほんの少しだけ素っ気ないような気がする。今だって、興味がないかのように顔をこちらに向けてくれもしない。心配してと慰めてと私がすり寄っていけば、優しい笑顔をくれたけど。

「それから、無言電話」

 結婚式まであと一ヶ月。招待状も発送してスピーチも頼んだわ。式を挙げたその日のうちに役所に届けをだすように、ちゃんと時間計算もしているのよ。結婚すると男の人は変わるって言うけど、彼もそうなってしまうのかしら。そのうち仕事をやめろって言い出したり、子供が生まれたら家庭に入れって言い出したりするのかしら。子供が生まれたら保育園の代わりに実家の母さんに昼間の間は預けて、私は今のように働いて良いって言ってたのに。育児休暇は交互に取ろうねって、けれど仕事もしっかりやろうって、半分冗談半分本気で今の制度をフルに使って社内新聞にのっちゃうくらいがんばろうって、何でも一緒にやっていこうって、言ってくれたのに。

「あんまりひどいようなら、警察に行った方が良いよ。今の時代、何があるかわかんないし」

「うん……」

 ほら、『行った方がいいよ』だって。『行こうか』じゃないの。他人事みたいじゃない。そりゃ、しょせんは結婚したって他人は他人だわ。そりゃ、眠れないほど酷いわけじゃないわよ。ただちょっと気持ち悪いだけだわ。けどだからって、それはないんじゃないの?

 なんだろ、やだな。私きっと今ぶさいくになってる。彼がTV見ててくれて良かったかも。疲れてるんだわ、私も彼も。彼は三泊の出張から帰ってきたばっかりだし、私も納入を終えたばかり。実家の父さんもあんまり調子が良くないみたいで、仕事の後で実家に寄ったりしていたから。

 今日は帰ろうかしら。ゆっくりお風呂に浸かってゆっくり寝たいわ。

「今日は帰るわ。ごめんね突然押しかけて」

 決めたら即行動よ。うじうじしてたらみんな嫌な気持ちになるもの。商談も人間関係も全部同じ。

「え、もう?」

「今日はちょっと調子悪いみたい。ゆっくり家で休むわ」

 ほら、すっきり切り替えたから私も綺麗に笑えるわ。カバンをとって、コートをとったら、軽く手を挙げて部屋をでるの。

「もうちょっと待てば、あいつが帰ってくるから」

 居間の扉に手をかけて、そうと頷きかけて、あれれと言葉を理解した。

 あいつって、誰?

「利香にもそろそろ紹介しておこうと思ったんだ」

 ぴんぽーん。

 凄く凄く良いタイミング。彼がひょいっと立ち上がった。私をそっとどかして、玄関へ向かっていく。なんだろう。凄く嫌な予感。何でそんなに足取りが軽いの? 鼻歌でも歌いそうにいい顔して。

 扉のガラスを透かして、玄関の明かりが漏れてくる。楽しそうな声。彼の声ともう一つ、若い男の子?

 目の前の扉が開く。まるで、それは運命の扉。

「利香、紹介するよ。僕のもう一人の恋人。君たち、うまくやっていけるよね?」

 私はなんと言えば良かったのかしら。殴れば良かった? それとも、にっこり恋人君に左手でも差し出せば良かった?。考えたのはもっとずっと後のこと。真っ白になったわ。言葉がはいってこなかった。どっかで見たことあるような気がする彼の若い恋人君になすがままに手を握られて、こっそり耳打ちされるまで。

「どうしてそんな顔するの。ココが君の現実だろう? この世は神様の楽園なんかじゃないよ。……悪魔(ぼくら)の遊び場なのさ」


 *


 あの時、あんな事を言わなければ。

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