008:盲目の王子
日課の帝王学を終え部屋に戻ると、暖かく調整され花の香りで満たされた部屋の中央に、小間使いが落ちていた。
「……なんだ、これは」
薄汚れた女だった。王子より若い。少女と呼ぶべきか。
呼べばすぐに付き人がやってくるだろう。手を叩こうかと腕を上げかけ、ふと起こした気まぐれに収めた。
「おい」
付き人に気付かれないような声で呼んでみた。
少女に反応はない。
「おぉい」
今度はえいとつついてみた。触れた少女の肩が思いの外柔らかくて、王子はつついた自分の指を見る。
少女に反応は、ない。
「おい、起きろ」
今度はおっかなびっくり方を掴んでみた。そのまま揺する。掴んだ肩は、柔らかい。……柔術で組み合う教官の肩とも、かつて取っ組み合ったことのある乳母兄弟の物とも違う、『女の子』の肩だ。
「う……」
突然零れた少女の声にびくりと腕を引っ込めた。引っ込めて、何をやっているんだと自分で自分を叱咤する。
動じてはいけません。いつも泰然とあられるべきです。……そう、帝王学の教官に言われたばかりではないか。
だから、少女を見下ろすように立ち、はやる心の音を努めて知らない風にと取り繕う。
「……あ」
少女は目を見開くとぱっと身を起こした。めまいでもしたのだろうか。一度手を突き呼吸を整え、再度ゆっくり身を起こす。後ろに立つ王子のことなど気づきもせずに、深いため息を一つ吐くと、今度はゆっくり立ち上がった。
箒を手にとり、ハタキを掴み、出て行こうとする。
「おい」
びくぅっ! ……と、文字に出来そうなほど鮮やかに、少女の肩が跳ねた。
おびえる小動物のように振り返る少女を、ようやく『王子らしさ』を取り戻した王子はにやりと……実に楽しいとにじみ出ている笑顔で、迎えた。
「貴様、ココで何をしていた?」
――本当に申し訳ございません。言い訳のしようもございません。
少女は何度も頭を下げる。下げるどころかそもそも上げない。掃き清めたとはいえ床の上、毛足の長い絨毯に顔を埋めるようにして、ひたすら頭を下げ続ける。
どうしてくれようか。
王子は考える。
――どうかどうか人をお呼びになることだけはご勘弁を。見逃して頂ければ、すぐにでも私は出て行きます。ですが、人をお呼びになることだけは……。
一番簡単で面倒が無いのは、今すぐ人を呼ぶことだ。程なく付き人が現れ、少女はいずこともなく連れ去られ、二度と会うようなこともないだろう。
少女が泣き叫ぶ姿というのも一興ではあるが、楽しみは一時だけで終わる。
……それでは少し、面白くない。
折角手に入れた玩具を、みすみす手放すようで……。
「なぜお前はココで倒れていた?」
一刻近くも頭を上げない少女に、しびれを切らしたように王子は問いかけた。
顔を上げないまま、肩をふるわせるように少女は声を出す。
「……お清めの最中に、その、目が回りましてございます……。大変な失礼をば……」
ふむ。王子は考える。目が回る、とは?
「あの……今朝は食事をしておりません。その……夕べも食事することが出来ませんでした」
少女は聞き取れるかどうか怪しいほどの小声で言う。
食事をしていない。なぜ。お前は食べることが嫌いなのか。
「そんなことはありません。食事をしなければ人は皆死んでしまいます。……ですが、あの」
続けよ。
王子を伺うように顔を上げた少女へ、表情だけで先を促す。
びくりと何度目か肩をふるわせた少女は、つっかえつっかえ言葉を続ける。
「私の家は貧しく、兄弟が大勢おります。父は国境へ堤を作りに出かけ、二年の間、音沙汰がありません。母は一番下の弟を産んだあと、体調が優れず床に伏せっております。ようやく下働きの婆様にお仕事を頂き、この一年ほど働かせて頂いておりますが、私の稼ぎではどうにかようやくの食事を家族に用意することで精一杯で、それも、近頃の干魃で食料の価格が高騰し……」
ふむ?
王子は首を傾げる。
堤? 干魃? ……なんだ、その話は。
少女の言葉を足先で止める。伺うように見上げてきた少女へどういうことだと、問いただす。
一瞬だけ、不思議そうな顔をした少女は、ひでりでございます、と、呟くように口を開いた。
「半年ほど雨が少なく、そのため小麦も野菜も十分に育つことができず、食べるものが少なくなっているのです。先頃からの隣国との争いもあり、男手は街や村には少なく、対策もままならず……」
ふむ。椅子に腰掛け、呟くような少女の声を聞きながら、王子は窓の外を見る。
月明かりに照らされた中庭には、花が咲き乱れ、噴水が心地よい音をたてている。
……そういえば、雨が少ない気はしていたのだが。
「それは、真か」
「嘘など申しません」
少女を見下ろす。絨毯に埋もれるように手を突いたままの少女は、大きな目いっぱいに涙の粒を乗せ、王子を見上げている。
「ここには水がある。花がある。麦や野菜はないが花は咲き続けている。お前の言葉は真実か」
その粒が一つ、なめらかな頬を滑って、落ちた。
「嘘など申しません! お城のお庭は、遙か上流から、決して涸れない水を引き、庭師様が丹誠込めてお手入れをされているものです。王子様に、王様に、王族の方々にみすぼらしい姿など見せないように。でも……!」
声が大きすぎたな。
見下ろす王子の視界の片隅で扉が開いた。耳をそばだてていただろう付き人が王子の名を呼び駆け込んでくる。
「あなたは何も知らない。私たち、民の暮らしなど、あなたは……!」
連れて行かれる少女ははたはたを大粒の涙をいくつもこぼす。
零れた涙は絨毯のスキマに入り吸われて消えた。……まるで何事もなかったかのように。
跡さえ残さず。
玩具はあっけなく、消えてしまった。
つまらないな。
王子は窓辺へ近寄る。ふと揺れた植木の葉にそっと手を伸ばす。
柱の影で忘れ去られたものかすっかりしなびた植木の葉は、かさりと乾いた音を立て、王子の手の中で崩れた。
「だれか」
崩れた葉を握りしめたまま、王子は人を呼ぶ。
少女の柔らかい肩の感触が、手の中にある。
こんな感触のように。
帝王学でない現実を見たいと思った。
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