第五部
幕間三
「――少し寒くなってきたな」
換気の為に空けた窓から吹き込んでくる思いの外強い夜風に首を竦める。考えてみれば山を切り開いて建った建物のそのまた最上階の角部屋だ。街で吹く風とは一味違うという事なのだろう。
「……予定より早いが閉めるか」
角部屋のリビングという構造上、併設されたベランダはL字型で長方形の内の二面が窓になっている。両方をわずかばかり開けて風の通り道にしたわけだが、想像以上に冷えてしまった。一人暮らしでよくある無意識の独り言に気づいて苦笑しつつ、リビングの窓を閉めにかかる。まずは街を見渡すのに最適な南側の窓に鍵を掛けていく。
高原市の北側にある日原山に建てられた天乃原学園の施設は基本的に南側を正面として建てられている。見晴らしの点もそうだが、高低差のある山でわざわざ高くなる他の方角を正面玄関にするわけはないので、当然と言えば当然の話。反対に山を挟んで学園のある位置に建てられたキャンプ場の施設はその大半が同じ理由で北側を正面としている。
「?」
もう一方の窓を閉めようとして、止まる。理由は
「――何してんだ?
今度はさほど間をおかずに問う。誰を真似たのか、ベランダから侵入してきた
「普通に訪問するという選択肢はなかったのかよ」
ほんの少し前、同じことをした友人達へ向けた疑問をそのまま会長に投げる。三度とも同じ人物なら怒るなり呆れるなり出来るのだろうが、年齢も立場も関係も違うとなるとどうしていいものか対応に困る。
そんな俺の内心など構うつもりなどないのか(十中八九、皆無だな)会長と真田さん、そして飛鳥の三人はそれぞれ靴を脱いでサッシを跨ぐ。すれ違いざまに湿り気を帯びた柑橘類の香りが鼻をかすめ、風呂上りだな、となんとなく思う。だからなんだと言われればそれまでだが。
「――あなた、こんな夜ふけに男子寮への訪問が可能だとでも思う?」
「え? ……いや、そうだな」
だしぬけに放たれた会長の一言に思わず時計を見ると、なるほどあと数十分もすれば日付が変わる。そもそも女子が男子寮に踏み入れるのは共用部のある1階までだ。一生徒におおげさなほどの権力を持たせる天乃原学園でもさすがにそこまで緩いわけではない。
学園の
「(靴をきちんと並べるだけ空也や剣太郎よりマシか)」
よくわからない方向性の納得で誤魔化し、もはや開けたままにする意味のなくなったガラス戸を締めようとして、ふと気まぐれにベランダへと一歩踏み出してみる。なんとはなしに外に出た俺の眼下には深夜でも明々と光る高原の都市部とそこから北上していくたびに明度を落としついに真っ暗になった日原山のふもとが対照的に映る。そして視線のほぼ真下近くに位置するのは学園を覆う壁と校門というには仰々しい正面玄関。しかし現在、学園の顔ともいうべき校門は工事用の暗幕によってその威容を減じている。
「来週には元通りになるんだっけか。さすがに
しみじみと振り返るのは
「ーーだらしないわね」
景色を望んでいたのもそこそこに部屋へと戻り換気で開けていたガラス戸を今度こそ締めていると、ソファに腰掛けていた会長の非難がましい出迎えにあうことになった。なんのことかと首をかしげるが、すぐにソファに合わせたテーブルの上にあるトースターのことを指しているのだと気づく。
元々キッチンにあった電化製品は瞳子や空也達と飲んだ際に大活躍し、その後一人暮らしの食事に欠かせぬ存在となり、それに伴い、キッチンとリビングのテーブルを行き来していた手順を省き、ついにはテーブルの主となった経緯がある。などと長々言ってはみたが、つまるところ単に俺がズボラなだけだ。
「前に会長がこの部屋に来たときはちゃんと戻していたんだけどな。だんだん面倒になってね」
そう言いながら会長に指摘されても戻す気がないのは元の位置へと動かしたところでどうせまたテーブルに帰るだけだというのと、そもそも今使うつもりがあるからだ。
「自堕落だな」
と、非難というより、ただの事実を述べたというていの真田さんが目ざとく開封途中にある個別包装の餅に視線を向ける。別に責めているわけじゃないはずだが、なんだか会長に言われるよりも身につまされるものを感じつつ、本来の予定に沿ってトースターを暖める。ますます鋭くなった会長の睨みを浴びながらせかせかと手が動くのは腹がすいているからなのか、気まずさから逃れるためか自分でもわからなくなってくる。
「……言いたいことはわかるけど、これが今日の三食目なんだ。大目に見てくれ」
「もっと早い時間に食べられるはずでしょう? 何のための食堂だと思っているのよ」
「ナチュラルな嫌味をどうも――知らないわけじゃないだろ?」
言いっぱなしを許したままの状況に耐えかねて、反射的に大人気なく返してしまう。会長の言うとおり、学園の食堂(食堂という単語で部外者の誤解を招きやすいが、その規模やサービス、扱うジャンルから考えて一流レストランをひとまわりもふたまわりもスケールを大きくしたものと想像してもらうとわかりやすいか)で朝昼晩と食事にありつけることが可能だ。しかし、今の俺はそれを気軽に利用するのは難しい。
なぜならば、解任要求に端を発する一件で俺をはじめとする転入生に対する感情はより悪化してしまったからだ。といっても迫害とかいう方面ではなく一方的に恐れられているという方に、だが。クラスメイト達は授業で顔を合わせるということもあってかむやみやたらと恐慌に陥ることはなく、どうにか学園生活が成立するものの、食事ともなると上級生、下級生を含めた不特定多数に広がってしまうため、そこからくる緊張を避けるのは難しい、そう考えてのことだ。
そういうわけで解任要求の日以降、食堂を利用することを止めて朝昼晩と自炊という形をとっている(まぁ、瞳子や空也はあいかわらず利用しているそうなので、俺一人がいなかったところで大して変わらない気もするのだが。あと剣太郎、国彦、帝はそれぞれの事情で元々利用していない)。だが、いつ食べても自由となると、どうしても遅く遅くとずれこんでしまうもので、今日の夕食も会長の言うとおり夜食でもおかしくない時間帯になってしまった。栄養の面も含めて、どうにかしなければいけないと思うが、改善には時間がかかりそうだ。
「なら私達と一緒に食事する? 別に相席でも構わないわよ」
「それだと対外的に無関係を装っている意味がないだろ」
皮肉かジョークかはたまたわずかばかりの同情か、どうともとれる会長の提案に苦笑いがこみ上げる。ちなみに俺の住んでいる寮のフロアは数人を除いて時宮関連の人間しか残っていない。これも解任要求の日以降、別の部屋に替えてくれという要望が数多く出たらしい。学園側も事情が事情というか、単なるわがままではないと理解してか、暫定的に別の寮生の部屋に割り振るなど対応した。荷物はそのままなので本格的な引越しはおいおいになるが、近場に仮説住宅を用意するらしいので荷物の移動はそちらが完成してからだろう。基本二人一組で使うとはいえ、そこそこ上等な4LDKから仮設住宅に追いやられるわけだが、特に不満は出なかったそうだ。どんだけ恐れられてるんだよ、俺達。
「(――ただ、いくら餅を主食代わりにといっても、ずっと焼き海苔まいて醤油つけただけってのは自分のことながらちょっとないなぁ)」
海苔から伝わる餅の熱を感じながらしみじみと思う。瞳子と飲んだ時にはふんだんにあったチーズもこの前切らしたし、海苔ももうすぐ尽きる。そうなるとあとは餅に醤油をつけただけとなってしまう。目に見えて貧相になっていく食卓は、だらしないだの自堕落だの言われ放題の俺でもさすがにもの悲しくなってくる。
「それだけか?」
同じ端的な感想も他の二人と比べて気遣いの色が含まれているのが、一つ目の餅を頬張るのを見ていた飛鳥だった。俺に用件がある会長、その護衛を当真家に任された真田さんと違い、会長との話し合いに口を挟むつもりはないようでソファを陣取っていた会長と真田さんから離れた位置――というよりソファを取られ反対に座るしかなかった俺の隣――を確保していた。
「いや、あと五、六個はいくかな。最近異能を派手に使うことがないせいか、少し控えめっちゃあ控えめなんだが」
「餅の五、六個のどこが控えめなのよ」
などと聞こえたような気がするが、俺からしてみれば本当に控えめな方だ。異能者が大喰らいなのは周知の事実だが、どうやら異能の使用頻度によってその食欲に幅があるらしい。プロの将棋指しは脳を最も働かせる対局中に大量の糖分を欲するそうだが、心先輩いわく異能を発動させる“信号”とやらもどうやら同じ
「そういう意味で言ったわけじゃないんだが……」
そういうなり立ち上がると部屋に入ってきた方向とは逆の――つまり正式な入り口であるはずの玄関側に歩を進めていく飛鳥。意図をはかりかねた俺がつられて目で追っていくと、スラリと字幕がついてきそうなスタイルに白シャツとショートパンツという機能重視だが体のラインがはっきりとわかる組み合わせに視線のやり場と何故を問う機会を失い自分でもわかるほど挙動不審ぎみに体を揺らす。……もう少し自分の魅力について自覚した方がいいと思うぞ、飛鳥。
「キッチンを借りるぞ。時間も時間だが、餅だけというのはさすがに寂しい」
それをもう少し早く言ってくれたなら気まずい思いをしなくて済んだんだけどなぁ。……会長と真田さんのこころなしか冷たい視線を浴びる必要も。
「……まぁ、いいわよ。急に来た私にも落ち度がないとはいわないし」
「台詞自体は殊勝だけど、しょうがないみたいな空気を出すのはやめねぇのな」
「あなたも餅を食べる手を止めてないじゃない。お互い様でしょう?」
「失礼な。ここへ来た本題に入るならいったん止めるわ」
「なら、さっそく始めようか」
売り言葉に買い言葉も相手を考えてから言うものだ。安易な返しをしてしまった後悔をする間もなく、てきぱきと動く真田さんによってテーブルの上が強制的に整理されてしまう。さすがに手に持っていた分は奪われなかったものの、それ以外はほどよく色づいた焼けたものや続けて焼こうと包装を破ったばかりもの、それらの別なく全てトースターの中に放り込まれてしまった。代わって広げられたのは几帳面に折りたたまれたプリント用紙の束がいくつか。そんなものをどこから? と真田さんを見れば、飛鳥に負けず劣らずの脚線――ではなく、飛鳥と偶然お揃いになったショートパンツからでもわかるほっそりとくびれた腰――に巻かれたポシェットから取り出させたようだ。まぁ、出所はどうでもいいだろう。さんざ見てから言うのもなんだが。
「(――さて、中身はなにかな?)」
妙な空気を振り払うように軽く咳払いをしつつ、B5サイズの用紙を開く。内容はどうやら画像の一部分を印刷したもののようだが、撮られた時間帯が夜らしく全体的に薄暗くて何が写っているのかよくわからない。もちろん、これを出される意味も同様にわからない。
「これは?」
「警備班から防犯カメラの情報提供だ。深夜に男子寮と女子寮間を出入している生徒がいるとな」
どうやら手にした一枚で完結しているわけではなかったらしい。手近だったため、最初に触れた束から二枚目、三枚目と続けて開いていくと明暗や解像度を調整された同じアングルの撮影にくっきりと映える瞳子と空也がそれぞれ確認出来る。おそらく四枚目以降も証拠写真だろう。
「……バレてたのか」
実のところ、瞳子と飲んでから数えて一ヶ月と少し、この部屋で集まるのは十、二十を超えている。さすがに飛び跳ねたり、暴れたりするみたいな子供じみた飲み方はしないのだが、それでも昼の食堂の喧騒に負けない程度には賑やかしていると思う。とはいえ、この階には他の住人は数えるほどで彼らが住んでいる部屋もここから離れている。寮の造りを考えても窓さえ開けなければ、外に洩れることはないはずだった――そう油断していた結果が重ねられたひと山丸々一つ分の証拠の数々というわけだ。
「天乃宮からの依頼で潜入しているとはいえ、一生徒として籍を置く以上、看過は出来ない。……こうも証拠を残されては、な。それとも当真家側の打ち合わせだと弁明してみるか?」
「いいや。指摘のとおり、ただの宴会だ。言い訳はしないよ」
差し出された逃げ道を辞退して素直に認める。ハルやカナといい、要芽ちゃんといい、しっかりした年下にはどうも頭が上がらない俺だが、ぐうの音も出ない正論を説かれた上に情けまでかけられては本当に立つ瀬がなくなるからだ。もとより出来る兄貴でも先輩でもなかったので面目もへったくれもないわけだが、意地の一つくらいは張りたいものだと思う。
「――そのくらいでいいわよ、凛華」
意外にも真っ先に追求しそうな性格と立場なはずの会長が真田さんをなだめにはいる。人形のような、という例えがしっくりくる整った造形の少女はワンピース型の寝間着――ナイトドレスというらしい――の上に薄くもう一枚羽織るという
「どうせ本題前の軽い揚げ足取りみたいなものだし」
前言撤回だこのアマ。っていうか、真田さんも本題に入るんじゃなかったのかよ。
「……だそうだ。本題はその隣の山だ」
悪びれる様子もなく(といっても指摘そのものは真っ当なものなので、悪くもなければこちらに文句を言えた義理もない)真田さんの指が
「解任要求の一件――というより一連の騒動と言うべきかしらね。その被害額の算出が完了したのでその報告よ」
「ーーそれ、俺だけが聞く話なのか?」
「そうでもないわよ。額が最も大きいのは校門の修繕費。あれ、あなたがやったはずよね?」
背中に嫌な汗が流れて落ちる。なるほど、たしかにこれは本題だ。なにせ、ことは賠償問題。校則や風紀違反でごめんなさいするのとはわけが違う。
「(校門っていくらくらいだ?)」
壁の高さは山の高低差を差し引いても三階建てくらいは優にあるはず。しかもただの壁ではなく中身は防犯システムと警備員が利用する施設が詰まっている。どう低く見積もっても億は確実に超えるだろう。俺が当真家と契約した報酬は一千万、いったい何年分になるのか考えて目の奥が暗くなる。
「――すがすがしいくらいに勘違いしているようだけれど、別に修繕費をあなたに請求するって話ではないわよ」
「本当か!」
呆れたという風情の会長に思わず詰め寄ってしまう。あまりに勢いよく俺に迫られたのを怯んでか、ちょっ、近い近い! と一転して両手で顔を覆い小動物を連想させるように縮こまる。
「そのくらいにしておけ」
さすが護衛役というべきか。真田さんが落ち着いた様子で俺と会長とを引き剥がす。まるで猫の子を摘む要領で首根っこを押さえられ軽々とこなす相変わらずの腕力を相手にそれ以上どうこう出来るはずもなく――するつもりもないが――大人しく引き下がる。
「その……悪かったな」
「いえ、私の方こそ少し悪ふざけが過ぎたわ。今度は本当にそう思う」
やや赤みの走る頬をぬぐいながら謝意を示す会長。動揺の余韻を消すために息をゆっくりと整え、乱れた胸元とソファの座り位置を直し、ようやく人心地がついたのか、俺の勘違いを改めて訂正にかかる。
「実際に壊したのがあなたでも、当真と月ヶ丘両家の思惑に端を発した騒動によって起こった被害よ。あなたの責任が皆無とは言わないけれど、請求する相手は
「なら、どうして俺に被害額の算出なんて話をするんだ? しかも瞳子抜きで」
会長の言葉で開き直るつもりはないが、しょせん俺は当真家のいち工作員でしかない。俺の雇い主である当真家を排してまで場を設ける必要性がどうしても見つからない。
「あら、当事者である以上、関わった物事の総括への出席は必要よ」
「それはそのとおりだが、だからなんで俺だけなんだ?」
「これは天乃原――いえ、天乃宮の内々での話し合いだからよ。当然、その場にいるのは私の味方、または味方になる予定の人間だけ。……言ったでしょう? いくら私でも味方からない袖を振れなんて言わないと」
なぜ俺の部屋に集まったのか、なぜ俺だけが参加を許されたのか、さすがにそこまで言われては気づかないはずがない。天乃宮家は――というより、天乃宮姫子は――
「御村優之助。あなた、私に雇われる気はないかしら?」
――俺を直接味方にするつもりなのだ。
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