第四部

プロローグ

 ──時宮市、郊外。


 低く映る空と身を切るような寒さが縁遠くなり、いよいよ春の訪れを予感させる四月の深夜。海沿いに延々と伸びた国道を一人の男が悠然と歩いていく。


 年は二十代前半、細く引き締まった体躯を量販店で買い揃えた薄手の長シャツとジーンズで包んだどこにでもいそうな青年だ。


 しかし、やる気のなさそうな割に重心がブレない歩みで時折吹きつける風を引き裂く姿は、見る者が見ればだだの一般人ではないと告げている。狂いなく刻まれた四歩──身長と同じになるよう調節された歩幅が彼の"射程"を示している事も。


「──なんでまた、こんな時間に呼び出すかなぁ。マジで何考えてんだよ、あの女」


 人使いの荒さでは右に出る者はないと評判(もちろん皮肉)の旧友に向けて悪態を吐く。


 件の旧友──当真瞳子が県外の学校で何かを企んでいる、そう噂されたのは二月ほど前。その時点では、誰も彼もがあの女ならやりかねないと思うものの、オチのつかない与太話として終わった。


 しかし、しばらくして元同級生である御村優之助がバイト先を辞め、大学を休学したという話が流れると信憑性が確保されていないにもかかわらず、一気に事実として周りに広まっていく。


「(──御村が巻き込まれて穏便に話が済んだ試しがないんだ、仕方ないな)」


 果たして、当真瞳子が事を起こすのが問題なのか、巻き込まれた御村が事を無駄に大げさにしてしまうのが問題なのか、御村が悪くないのをわかっていながら、男がそんな事を考えていたのは一月前。当真家を経由して当真瞳子から連絡があったのも同時期だった。


 大分前に通り過ぎた郊外のファミレスで当真瞳子と再会し、その場で天乃原学園の事、当真家当主が近々その身を引く事、自らが当主になる必要がある事──その理由、刀山剣太郎と篠崎空也が合流する事、王崎国彦に話を持って行ったが断られた事(それを話す時の当真瞳子の顔はその晩夢に出た。もちろん悪夢として)、といった諸々の事情を聞いた。その上で、協力を打診され、特に断る理由もなくその場で了承。


 とはいえ、すぐに向かえるほどフットワークが軽いわけもなく、巻き込まれた元同級生と同じようにバイト先と大学にそれぞれ届け出を出し、それら手続きの処理や後始末(バイト先の引き継ぎ)など、天乃原に向かう準備に追われていた(御村の場合、ほぼ騙し討ちの強制であって、とても"同じ様"と評するには無理があるのを男は知らない)。


 ようやくひと段落し、御村達向こうに合流する日について考え出したのはバイト最終日だった昨日の事。家に帰ってみるとポストに無地の封筒が投函されていて、中を開けるとそこには、打ち合わせの場所と時間が書かれた簡素な手紙と待ち合わせ場所の地図。


 待ち合わせ場所と時間への不審が残るものの(前回は普通にファミレスだった)、何かが始まるという期待とそれに伴う無自覚な高揚に突き動かされ、指定の場所へ向かう最中──より詳しく言えば、向かう途中で面倒くささが表に立ち、呼び出した当真瞳子への悪態を吐いたばかり──の現在に至る。


 深夜の独り歩きには無理からぬであろう呟きは、誰も聞き咎めないのをいいことに旧友への愚痴が大半を占め、さらにエスカレートする。


 しかし、いつまでも語彙が持つはずもなく、そろそろ持ちネタがなくなり、絞り出すのも苦しくなってきた頃、ようやく目的地へと辿り着く。


「たしか、ここだったよな」


 そこは国道と津波対策の可動式防波堤とを結ぶ広場。元々は単なる空き地だかデットスペースだったのだが、味気ない見栄えを気にした時宮市が公共事業の一環として、地面をタイルで敷き詰め、電灯を配置し、花壇で周りを囲う事でどうにか公園の体を装ったという経緯がある。


 夏場ならば海水浴目的でそこそこの利用が見込める場所だが、シーズン外となると人通りは皆無に近い。しかも防波堤以外に遮るものがない為、先に人の有無さえ確認してしまえば、人に見られる可能性は低く、いざとなれば防波堤を利用して隠れる事も立ち去る事も出来る。なるほど、密談にはもってこいの場所だ。だからといって、急な呼び出しを納得できるかどうかは話が別だが。


 普段、あまり立ち寄る事がない為、指定手紙通りの場所か再度確認しつつ、同時にいるはずの人間を探す。居ない可能性が頭の隅をよぎるが、それに反して待ち人らしき人物はすでに到着していた。暗さでハッキリとは見えないが、ほぼ同じ体格の男性であるのは辛うじてわかる。


「(──当真瞳子本人じゃないんだな)」


 考えてみれば、既に学校は始まっている。全寮制の天乃原学園では抜け出して数時間かけて時宮の郊外で待ち合わせるのはあまり現実的ではない。


 代理とは想像していなかったが、深夜の待ち合わせである以上、十中八九間違いないだろう。特に疑う事なくその人物の元へと向かう。


「──あんた、当真の人?」


「当真ではないが、関係者には違いない──お互いにな」


 微妙に訂正する男に、細かい揚げ足を取るなよ、と回りくどい言い回しに内心舌打ちしながら、そうかと表向き頷いて返す。


 会話が成立する距離まで近づいているのだが、電灯を背にしているせいか表情がよく見えない。しかし、声と輪郭を記憶に照らし合わせても知り合いに心当たりはない。完全に初対面だ。わかるのは四月というのに厚手のコートを着ているという事だけ。


「(つーか、むしろローブだなありゃ。リアルで初めて見たわ。魔法使いかよ)」


 自身が薄手の長シャツという事もあり、異様さは増している。知り合いに変人奇人は多いが、それでも不審者という印象は拭えない。


「んで、具体的な打ち合わせとやらは何だ? 情報の漏洩防止の為とはいえ、わざわざ手紙でこんな場所まで来させたんだ。大した話じゃなかったら怒るぜ?」


 封筒を弄びながら不敵に言う。関係者を自称する男は待ち人のそんな態度を咎める事なく、平坦な口調で宣言する。

「とりあえず、一週間ほど昏睡状態になってもらう手筈だ」


「何の冗──」


 言いかけた言葉が途中で封殺される──首を絞められて。しかし、喉元を這うように襲ってきたが腕だとは判断がつかない。なぜなら、その腕? は襲撃者


「ほう、さすがだな。不意を突いたにもかかわらず、とっさに片腕を滑り込ませて気道を確保している。戦闘の勘は鈍っていないらしい」


「ぐっ、この──」


 野郎、と言いかけて止める。無駄に叫んで酸素を無駄に吐き出すのは得策ではないと思い直したからだ。怒りは消えないが、一方で冷静に状況の把握に努める。


 割り込ませた右腕ごと首を締めているのは、たしかに腕だった──王崎『王国』の倍はある腕の長さリーチと手の大きさ、そして何より胸元から生えているのを除けば、だが。


 あらかじめ切れ込みスリットが入っているからか、ローブそのものに痛んだ様子はない。また、ダブついた衣装ゆえ、切れ込みが目立たず完全にこうする事を目的として用意された一品なのがわかる。


 不意に両者の影が斜めに伸びる。視線の先にある光源電灯が傾いたからだ。支えを失い、やがてケーブルが断線を起こしたのか消灯しその機能を完全に失う。別の電灯で確保された明かりを頼りに折れた部分を見ると、まるでそこだけ食い千切られたように不自然に欠けていた。


「(いや、食い千切られたというより、。まさか──)」


 解を得た事で情報収集は終了。思考は脱出へと切り替え、体を捩じり脱出を試みる。しかしこちらを締め落そうとする腕の力が思いの外強い。その上、


「(──駄目押しってやつか)」


 本来のを天を仰ぐように横へと広げ、ゆらりと動かしていく。例えるなら、歌舞伎の大見得を切る動作。そんな動きの中、緩やかにたわむ袖口が不自然に動いたのは、両腕が丁度真横に来たあたりから。脇の下が盛り上がり、さらにもう一対、腕が"生えてくる"。これで首を絞める両腕と合わせて六本。


「──『三面六臂アシュラスタンス』。う、噂通りだな。周囲の無機物を変異させ、自らの血肉にする異能、『ドッペルゲンガー』」


「お望みとあらば、三面の方も披露しようか? ──『スロウ・ハンド』」


「いや、そういうグロいのは勘弁。それに──」


 ──今度はこちらの番だ。そう耳にした『ドッペルゲンガー』の視界が一瞬、暗転する。


「──!」


 はたして、視界が戻ったのが先か、それとものが先か。目の前には不敵に笑う『スロウ・ハンド』と彼の背後にある倒れた電灯。


 それはいうなれば、場面転換からの出来の悪い交代劇。過程を置き去りにキャストの立ち位置が唐突に変わったのだ、これが舞台なら脚本家が真っ先に首を切られるだろう。


「──なるほど、これが“因果の逆転”か。面白い体験をさせてもらったぞ」


「いやいや、そんなものじゃねぇよ──まぁ、気に入ったのならもう少し堪能してろ」


「それは御免こうむる」


 『ドッペルゲンガー』の六本の腕が瞬時に動く。それぞれが独立し、わずかに互いのテンポを外しながら動く様はイカやタコが獲物を捕食するのに近い。近接において、純粋な腕の数で勝る『ドッペルゲンガー』に分があるのは明らか。『スロウ・ハンド』もそれは弁えているらしく、あっさりと拘束を解き、後退を選ぶ。


「それを許すと思うか?」


「許すも許さないもねぇ。俺がそうするんだよ」


 『スロウ・ハンド』に向けて伸ばした腕が弾かれたのは正にその時だった。仮の腕から伝わる衝撃は本物、その間にも残りの腕で追いすがるが、近づいた端から次々と迎撃されていく。だが、『スロウ・ハンド』は逃げ回っているだけで、迎撃の事実はあれど、そのどれ一つにしても攻撃に転じた素振りは見られず、拳を構えてすらいない。今この瞬間も両者は追う、追われる立場に徹している。


 ほんの少しでも前のめりになろうものならたちまち『ドッペルゲンガー』の望む接近戦へと移行しかねない状況で、またも起こった脚本の矛盾。原因は当然、登場人物の片割れである『スロウ・ハンド』──そしてその異名の代名詞とも言える完全ノーモーションによる攻撃、『過程を置き去りにするスロウ・ハンド手』。


「──ここまでか」


 らちが明かないのを悟り、追撃を諦める『ドッペルゲンガー』。その意志に反映してか、その六本あった腕が一対を残してあえなく崩れ去っていく。仮初めの役目を終えた"素材"は塵となって風に乗って舞う。さながら植物の種子のように、次の役割を求めて。


「本来のあるはずのない器官を無理矢理追加したツケらしいな。短時間しか持たず、派手に動くとその分崩壊が早まる欠陥品ってやつだ」


「なに、新しく作り続ければいいだけの話だ。そちらも“因果の逆転”とやらは自分の体に関わる事象にしか効果を発揮しないのだろう? しかも遠距離──どころか自分の身長分の長さより先には対応できず、また不意打ちにも弱い。先ほどあっさり俺に首を締められたのがその証拠。あれが首絞めではなく打撃や刺突だったならダメージは免れない」


「──ぬかせや、『ドッペルゲンガー』」


 『スロウ・ハンド』の戦意が急速に高まっていく。今までのやり取りは小手調べという事だろう。対する『ドッペルゲンガー』もそれに劣らず、凄絶な気配を纏わせる。共に異名を冠する歴戦の異能者同士。お互い、手の内をすべて晒さなければ、勝てないのはとうに理解している。


「時宮高校元序列十一位、『過程を置き去りにするスロウ・ハンド手』逆崎さかさきえにし


 それは無意識の行動。闇討ち同然に仕掛けてきた相手に名乗りを上げるなど愚かしいと、名乗った当人ですら思う。しかし、異能という名の無理を通して、道理を覆す異能者は例外なくエゴイスト。互いの矜持を掛けて争うというのに見栄の一つも張れないようでは意味がない。


 逆崎が『ドッペルゲンガー』に向けて顎をしゃくる。次はお前の番だ、そう言わんばかりに。ややあって、『ドッペルゲンガー』の喉が揺れる──苦笑したのだろう。おそらく儀に自分に対して。


「月ケ丘高校元序列四位、『ドッペルゲンガー』──」


「──いつまで遊んでいるの、『ドッペルゲンガー』」


 『ドッペルゲンガー』の名乗り応えを遮り、窘めた第三者の声。一瞬遅れて、逆崎の体が横に吹き飛んでいく。


「どういうつもりだ!」


 放たれた力の流れを逆算すれば、その方角と位置は明らか。ともすれば、逆崎に向かい合う時以上の迫力を持って、横槍を入れた張本人を睨み付ける。電灯の光を計算した立ち位置のせいでその姿は影に包まれて見えない。しかし、逆崎と『ドッペルゲンガー』を滑稽だと嘲笑う女の声、なにより、逆崎を襲った不可視の一撃──逆崎の異能とは別種の原理で作用した現象──がその正体を否が応でも物語る。


「それはこちらの台詞よ『ドッペルゲンガー』。私は戦力を削れと命じたはず。あなたの自己満足を許した覚えはないわ」


 こちらの意志などありはしないと言い切られ、苦虫を口に含んだとて、ここまで歪みはしないであろう表情を浮かべる『ドッペルゲンガー』。


「──うっ」


 強く噛みしめすぎて軋む歯の音に紛れて、微かにうめき声が聞こえる。反射的にそちらを見やると、逆崎がガタついた体に鞭を打ち、立ち上がろうとしていた。だが、一目見て戦闘不能なのがわかる。


 ──『因果の逆転』は遠距離に対応できず、不意打ちにも弱い。いみじくも『ドッペルゲンガー』が指摘した通りの結末。しかし、こんな不本意な形の過程脚本による決着を望んだつもりはない。


「こ、この攻撃、まさか、他の使い手は──いや」

 気絶しなかっただけでも奇跡というべきか──僥倖とは決して言えないが──しかし、その姿は先ほどの戦意が鳴りを潜め、昏倒一歩手前の意識は辛うじて繋ぎ止めてはいるものの、朦朧としていて、うわ言を繰り返す。


 ──馬鹿な、そんなはずはない。"彼女"はもう──


 回復が間に合わないのか、それともゆえの散漫か。何度目かの自問が『スロウ・ハンド逆崎』の思考を妨げる──手練れの異能者二人に対して、それは致命的な隙。


「まだ立てるの? 存外頑丈ね」


 『ドッペルゲンガー』が止める間もなく、再度、異能が行使される。一切の躊躇いなく打ち出されたのは大気を削る衝撃波。不可視なのは道理。無形で物質に依存する事でしか発揮しないはずのが本来の作用を無視して離れた相手に向かっているのだから。


 それは御村優之助の『運動エネルギーの完全制『優しい手』御能力』と同質──否、の攻撃だった。

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