きみのその手はやさしい手

芦屋めがね

第一部

プロローグ

 二月のとある一日、俺──市立時宮ときのみや高校三年C組、御村優之助みむらゆうのすけ──は誰もいない放課後の教室で一人窓辺に腰掛け、そこから見える景色を眺めていた。


 時宮市にあるから時宮高校。時宮はいわゆる一つの地方都市で、特徴といえば人口が多く、市内に四つある高校はどこも一学年最低四クラス以上、クラス生徒数四十人前後をキープし、地方が陥りがちな過疎問題とは無縁というくらいだろう。


 だが他所から見れば地味な土地でもそこで生まれ育った人間からすれば、やはり愛着も沸こうというもの。俺も例外ではなく、この窓辺から覗く風景がこれで見納めかと思うとそれを惜しむ気持ちやここの学生ではなくなるという喪失感がそれぞれブレンドされ、喉の奥に苦味が走る。


 そう、今日は市立時宮高校、卒業式の日だった。


「──ここにいたのね」


 声の源は教室の入り口、そこに一人の女生徒が立っている。三年間、同じクラスの腐れ縁で高校生活で最も身近だった友人の一人だ。


「ん? ……なんだ、おまえか」


「あちこち探させた私に向かって、なんだ、とはまた随分な挨拶ね」


 その名に相応しく魅力的な瞳にわずかばかり剣呑さを帯びながら近づいて来る。別段、瞳の色が珍しいわけではなく俺とあまり変わらない──自分の瞳を改めて見たことはないが──黒と紺色との中間のような色合い。しかし俺のそれとは違い、どことなく惹き込まれるような魅力がそこにはある。おそらく彼女の両親もこの瞳を見て、そう名付けたのだろうことは想像に難くない。


「これは失礼」


 別に待ち合わせた憶えも探される理由もないはずだが、素直に謝っておく。彼女は彼女で冗談半分ということもあり──逆に言えば理不尽な怒りも皆無ではない──その目に宿っていた険が次第に薄まっていく。


 そんな彼女を見ていると『目は口ほどにものを言う』という言葉がしっくりくるなぁ、と密かに笑う。


「なにかしら?」


 普段の付き合いからくる勘の鋭さを発揮した女生徒が俺の態度に半眼で睨むが、やがてどうでもよくなったのか話が変わる。


「あなた一人?」


「あぁ、みんな先に帰った。今夜は卒業祝いの宴会だからな。今頃、その準備に追われているはずだ。……そういうおまえは? てっきり、みんなと一緒に帰ったものだと」


「高崎先生に式の後片付けを手伝わされていたの」


 俺の頭の中に高校生活で天敵だった担任の教師が思い浮かぶ。正直、最後くらいは忘れたい顔だ。それにしても──


「──式の主役である卒業生にやらせることか? 相変わらず人使いの粗い担任だな。ていうか、おまえも手伝うなよ」


「先生らしいと思うけどね。……あぁ、それと伝言。『少なくとも、校舎を出るまでは面倒を起こすなよ。起こすなら、俺の責任にならない所でやれ』だってさ」


「それが仮にも教職者の言うことか」


「ある意味、当然の心配だと思うけど?」


「起こしたくて、起こしてんじゃねぇよ」


 たしかにこの三年間、俺の回りでは面倒事が絶えなかった。それは認める。だが、大半は巻き込まれたようなもので別に俺のせいではない──まぁ、何割かは俺に原因がないとは言い切れないのだが。


「そういえば、この後どうする気かしら?」


「どうする気って……そりゃあ、帰って宴会の準備を手伝わないとな」


「そっちじゃなくて進路の方よ。……本当によかったの? 地元の大学で。あなたならもう少しいいところも選べたはずでしょう?」


 紛らわしい言い回しの上、今さらどうこうできる類の話ではないだろう。それでも真剣に問いただそうとする視線を前に茶化す気になれず望むままに答えていく。


「ただでさえおまえん家の援助のおかげで進学させてもらえるんだ。“もう少しいいとこ”の為に遠距離通学や県外を選ぶわけにはいかねぇだろ。妹達の学費のこともあるし、さすがにこれ以上の借りというか出費がかさむのはちょっとな」


「あの子達って、まだ中二よね? 気が早くない?」


「四月になれば中学三年。早過ぎるってことはないだろ。それにあいつらは俺とは頭の出来が違う。むしろ一つでも上のランクを狙えるのなら、学費など気にしないで目指した方がいいのはあいつらの方さ。……あくまで望むならだけどな」


「とかいって離れて暮らすことになって寂しくなるのが嫌なんでしょう? このシスコン」


 今度は悪戯っぽく目を細める。まったく猫のようにころころ変わる瞳だ。見ていて飽きない。というか誰がシスコンか。当然反発するが、口をついたのはそのことではなく──


「──百歩譲って俺が寂しがるとすれば、その原因はおまえに対してだろうな」


「……」


「まさか、県外の大学に進学するとはな。少し、意外だ」


 それを知ったのは、二日前のこと。ちょっとした偶然からだ。それがなかったら今でも知らないままだろう。その理由はわからないがなんとも水臭い話だ。


「意外……かしら?」


「意外だろ。風来坊で三年も同じところに滞在しているのが奇跡的だった空也くうやや、卒業したら武者修行の旅に出るつもりだった剣太郎けんたろうはともかく、わざわざ遠くの大学に行くなんて思わなかったからな」


「……少し……ね……」


「少し……なんだ?」


 なにかをいいかけ、そのまま押し黙る。彼女にしては珍しく歯切れが悪い様子に痺れを切らした俺はこちらから水を向ける。ここで聞き逃せばおそらく一生聞く機会はないだろう。なんとなくそんな気がする。俺に引くつもりがないのを察したのか、根負けした様子で渋々ながら語りだす。


「……外から見てみたくなったのよ」


「どういう意味だ?」


 ようやく聞き出したわりにその答えは端的過ぎていた。向こうもそれはわかっているようで、逡巡を振り払っては塞き止めていたものを開放するようにすらすらと言葉を吐き出していく。


「私ね、この三年間とても楽しかった。毎日がお祭り騒ぎで──悲しいこともあったけど、それでもかけがえのない日々だったと胸を張って言える。多分、みんな同じ意見のはずよ。学校を卒業したとしても、そんな毎日が続いていくって信じてる。……あなたを中心にね」


「それで?」


「そんな日々を今度は外から見たくなったの。『踊る阿呆に見る阿呆』ってあるじゃない? 踊らなきゃ損、って言うけど、たまには見る側にも回ってみようかな、って……ね。だから、県外の大学へ進学しようと思った。見るのに飽きたらこっちの大学に編入してもいいし──もういいでしょ? これ以上、言わせないでよ! 恥ずかしいじゃない!」


 シリアスに語ったのがむず痒いのか、照れながら俺の背中をバシバシと叩く。


「痛い! や、ホントに痛えよ!」


「あ―恥ずかしかった。こんな青春真っ只中な台詞、素面じゃ口にできないわよ。もう二度と言わないからね」


 ──こうなると思ったから内緒にしてたのになぁ、などと恨み節めいた愚痴を吐きながらも止まらぬ暴力から逃れるべく彼女から大きく身を離す。


 たしかに身悶えするほどの恥ずかしさを発散したいのはわからなくもないが、その照れ隠しのために俺の背中を犠牲にされてはたまったものではない。おそらく服の下には真っ赤な手形が張り付いているはずだ。それはもう、くっきりはっきりと。


「さぁ、帰るわよ」


 どうやら、ようやく気を取り直したようで会話を一方的に打ち切る。いや、違う。自分の青臭い告白を忘れるために話を変えたいだけのようだ。


「もう少し浸っていたいんだがなぁ」


「もう充分サボれたでしょ。いい加減、観念なさいな」


「……バレてたか」


 悪戯を見破られたというていで降参のポーズをとる。それを見て皮肉げに鼻を鳴らした女生徒と共に教室を出る。


 廊下の窓から入る光が低く、そして長く伸びる。二月の日の入りはまだまだ早く、俺達が宴会に合流する頃には夜になっているだろう。その短い間だけ夕日に照らされた学校の廊下は赤く染まり、ここを巣立とうとする俺達を送り出そうとしているのでは? などと柄にもなく思ってしまう。もちろん錯覚だが。


「……ここも見納めか」


「なにか言った?」


 隣を歩く少女に不思議そうな顔をされる。


「なんでもない」


「……そう」


 不意に俺達の間で会話が途切れる。校舎を出た俺はグラウンドの中心でふと立ち止まると、振り返って今まで世話になった学び舎に感謝を告げる──気恥ずかしいので内心でだが。


「(世話になったな)」


 今日はなんだか慣れないことをしたくなる日のようだ。視線を隣に向けると、俺と同じ気持ちだったのか校舎を感慨深げに見渡していた。慣れないことをしたくなるのはどうやら俺だけではないらしい。だが、こんな日もたまにはアリだろう、と自分でそう納得する。


「──ねぇ。手、出して」


 学校を出てから、しばらく無言を貫いていた女生徒がいきなり俺を抜き去り、行かせない、とばかりに道を塞ぐ。進行方向をとおせんぼしたまま、なにを思ったのか妙な要求を突きつけてくる。


「……は?」


「いいから、手を出しなさい」


「お、おぅ」


 その剣幕に押されて思わず、右手を彼女の方へ差し出す。それに合わせて女生徒も自身の左手を伸ばし、必然と、お互いの手のひらが重なる。触れた手が思いのほか柔らかく、その意外性に緊張で固まっていると、同質の柔らかさが込められた声が耳を撫ぜる。


「手、大きいね」


「そうか?」


「そうよ」


「……そうか」


「……手。あたたかいね」


「なんだよ。優しくない、って言いたいのか?」


「なによそれ」


「ほら言うじゃん。『手の冷たいやつは心が優しい』ってさ」


「それだと、冷え性の人は全員優しいってことになるわね」


「そうなるな。それに、こうやって手を合わせたら、体温の低い方が相手の手を温く感じるし」


「……ふふっ、なんだか台無しね。私の言いたいのはそうじゃなくて──」


「──わかってる」


 苦し紛れの軽口が途切れる。代わりに交わされるのは、互いの体温と鼓動。人は他者の心音を聞くと落ち着く生き物だ、と聞いたことがある。その理由までは知らないが、多分、心音を聞くためには相手の胸に抱かれている必要がある。その相手が自分を受け容れてくれることへの安心、そしてなにより相手の真ん中に“触れて”いるからだと、俺は、そう思う。


 つまるところ、さっきと同じだ。お互い"らしくない"とわかっていながらも止められないほどに俺は──俺達は惜しみ、恐れているのだ。別れを、そして"今"が終わるのを。




「──さぁ、ついたわよ」


「って、ここは」


 合わさった手を離す気にはなれず、なんとはなしに手を繋ぎ続けていた俺と彼女。普段と違うことをしていると自覚して微妙な空気が流れる中、不意に彼女が手を離した場所は友人達を合流するはずの待ち合わせ場所ではなく、その途中にある公園だった。


 そこそこ広く、普段なら近所の子供達の遊び場として利用されるそこは、二月の黄昏時ということもあり、人気はなく閑散としていた。なるほど、どおりで──


「──どおりでそんなものを持ってきているはずだ」


 納得しつつ、彼女の右手を見る。ついさっきまで俺の手を繋いでいたのは左。本来、右利きであるはずの彼女が左手しか使わなかった理由は二つ。一つは右手が私物で塞がっていたから──そしてもう一つはそれを操るために利き腕は柄尻側を持つからだ。


「察しがいいわね」


「皮肉か? 俺としてはまんまスルーしておきたかったんだがな……」


 長さ七十センチはある"それ"は彼女にとって体の一部と言っても過言ではなく、不思議と違和感はない。とはいえ、そんなものを所持していて気付かないなんてことはありえない。


「こんな田舎だと、他に楽しみなんてないしね……いいでしょう? 決着をつけても」


「さほど田舎でもなければ、他に娯楽がないわけでもないが決着をつけるというのは同感だ」


 そんな軽口を叩きながら、内心の緊張が一気に上昇する。先ほどまでのくすぐったい空気は霧散し、あるのは目の前の存在をどう屈服させるか。その一点のみ。


 そう、彼女はクラスメイトで割と気の合う友人で、そしてなにより──敵だった。俺達にとって、これもまた日常の一つ。


 だから、その奥にある気持ちも変わらない。"今"を少しでも長引かせるための悪あがき。しかし、それすらもいつかは終わりが来る。


「──忘れないで、優之助」


 彼女が"相棒"と言って憚らない“それ”を構えながら、搾り出すように彼女が呟く。普段の彼女からは聞くことのない、嗚咽にも似たかすれた声。俺はその夕暮れを背に佇む彼女を目に焼き付ける。この先どんなことが起こったとしても決して忘れないように──


「──あぁ、忘れないよ。瞳子とうこ


 それが合図とばかりに俺達は走り出す。互いの存在を、交わした誓いを、確かめるように──




 ────そして三年後。




 二月のとある一日、俺は時宮市郊外にあるファミレスの窓側の席で一人、そこから見える景色を眺めていた。


 時宮はいわゆる一つの地方都市で、特徴といえば人口が多く、市内に四つある高校はどこも一学年最低四クラス以上、クラス生徒数四十人前後をキープし、地方が陥りがちな過疎問題とは無縁というくらいだろう。


 だが他所から見れば地味な土地でもそこで生まれ育った人間からすれば、やはり愛着も沸こうというもの。そんな土地のファミレスは他に競合店が少ない──特に郊外周辺少なくとも三キロ圏内には今居る店舗しかない──ためか料金設定が少々強気気味で清貧に努めたい大学三回生の身としてはあまり足を向ける場所ではない。ならば、なぜここにいるのかというと──


「──久しぶりね。優之助」


「そうだな。かれこれ一週間ぶりだな。……いや、一週間と一時間ぶりか?」


 と暗に一時間待たされたことを待ち合わせ相手である友人に──無駄とは知りつつも──軽い皮肉と共に告げる。


 一時間遅刻してきた待ち人──当真瞳子とうまとうこは高校から数えて六年来の友人だ。周りが一部を除いて地元で進学・就職を決める中、ただ一人時宮を離れ県外の大学に進学し、現在大学三回生。


 その時はらしくもなくお互いしんみりとしたものだが、いざ大学生活を開始すると週に二・三回のペースで地元に顔を出すようになった──あの時の盛り上がりはなんだったのだと時々無性に突っ込みたくなる。


 当の瞳子はそんな俺の不満もどこ吹く風という感じでウェイレスにコーヒーを注文し、向かいの席に腰を下ろす。お昼時ということもあってか子供連れの母親の集まり──いわゆるママ友ってやつ──やサラリーマン、自分達を含めた学生など客層はさまざまだ。


 そんな書き入れ時の店内でコーヒーしか頼まず(いくら強気設定のファミレスといってもお手ごろな価格のランチが一つや二つあるのだができるだけ外食は控えたい)、一時間も平気で居座っていられるほどこちらの神経は太くない。こころなしか居心地の悪さを覚える店員の視線に耐えながら待たされた身としては、いろいろ言いたいことがあってもいいはずだ。しかし、彼女の性格を考えると俺がどうこう言ったところで痛痒を感じるとは思えず、逆によくわからない内に言い負かされる可能性すらあるのでさっきの皮肉が精一杯だろう。


 と、まぁ、彼女に対して頭が上がらない関係というか立場なのだが、それというのも高校を卒業してからこのかた、瞳子に対して多大な恩義があるからだ。その辺りについて、少し俺の過去に触れることになる。


 俺が高校に上がる少し前、両親が死んだ──俺やまだ幼い二人の妹を残して。原因は相手の過失による交通事故。両親の遺してくれた貯蓄や保険、それに相手側の慰謝料があったため、いきなり路頭に迷うことはなかった。


 しかし、将来のこと、特に妹たちの養育費を考えるとそうのんびりしていいわけもなく、高校を卒業したらすぐ働きに出ないと生活が苦しくなるのは目に見えていた。そんな時、協力を申し出てくれたのが瞳子である。


 瞳子の実家である当真家は戦国武将を祖とした家柄で、武士の時代が終わり武家としての名を失ってもその権力・影響力は現代でも──方面にも──健在だというとんでもない一族だ。


 そんな家で育った瞳子自身も『古流剣術・当真流』という剣術の師範であり、高校時代は常に刀を所持していた──もちろん県に許可を得て。たぶん真っ当に申請したと思う──という高校時代でもっとも物騒な友人だ。


 そして瞳子への恩とは有り体に言えば資金援助。当時、俺が進路を進学ではなく就職を選ぼうとした時、


 ──キャンパスライフなんて人生で一番の遊び時らしいわ。目指したい道があるならともかく、やりたいことがないなら大人しく進学しなさいな──


 といかにも瞳子らしく、かつ身も蓋もない言い回しで援助を申し出てくれた。そのおかげで俺は今、現在進行形で大学に通うことができ、妹達を地元からは遠いが有名なところに進学させることができたというわけだ。ありがたいやら、世話になりっぱなしで情けないやら心情は複雑だが……まぁ、それはさておき話を戻そう。


 さっきも言ったが週に二・三回は時宮に帰ってきては突然大学やバイト先に冷やかしにきたり、家に帰ってみるとどこで調達したのか合鍵を使って先に家にいたり──当然ながら不法侵入──で唐突かつ理不尽に俺を振り回してくる瞳子が珍しく待ち合わせを指定してきたのが昨日の晩。待ち合わせと言っても時間と場所を電話口で伝えられただけで内容はまったく知らされぬまま、ファミレスで一時間も待たされ今に至る。というわけだ。


 俺にとって感謝と迷惑が人の形をした友人である瞳子は運ばれてきたコーヒーを一口含むと人心地がついたのか、ようやく用件を切り出してきた。


「──優之助。あなた、私立天乃原あまのはら学園に入学しなさい」


「断る」


 俺、即答。


「えぇ~。なんでよう~」


 なんだよ、その猫なで声。


「そんな金なんてないのはおまえだって知っているだろ? 今の大学も援助のおかげで通えているのになんでわざわざ余分に費用を出してまで別の学校に籍を移さなならんのだ」


 というのは半分本音、半分建前だ。今の生活自体、瞳子のおかげで成立している手前、断らないのが筋なのだろうが、こいつの人使いの荒さは相当なものだ。どんな意図があるかは知らないが謹んで辞退させてもらいたい。


 しかし、俺の言葉にキョトンとしていた瞳子が、難解なパズルの解き方を自力で閃いたかのようにうんうんと納得しながら否定する。


「あぁ、違う違う」


「あん?」


「優之助に入学してほしいのは高等部の方よ」


「……なんの冗談だ?」


 少し怪訝な顔をした俺を見て、瞳子も少し真面目な“ふり”をして──こいつがシリアスに語りかける時はなにか悪巧みをしているときのポーズだ──説明する。それがわかっているので自然、こちらの表情も固くなる。


「優之助、天乃原学園について知っていることは?」


「一般に知られている程度には。有名だからな──いろんな意味で」


 日本屈指の学術都市として全国レベルの知名度を持つ高原たかはら市。その高原市にある私立天乃原学園の高等部は全寮制となっている。そのため幼・初・中等部は地元かその近隣の県からの生徒が多いが、高等部以上は全国から来た生徒の比率が格段に高くなる。勿論、生徒の数もだ。


 いくら有名な学園とはいえ、なんでわざわざ寮住まいしてまで全国から天乃原学園に入学しようとするのか? それは他にはない特殊な学園運営に理由がある。


 その理由とは学園運営そのものを生徒の裁量に任せる点である。まぁ、それ自体ならどこの学校でも程度の差はあれど、そう珍しいものでもないだろう。そう、天乃原学園が特殊なのはその“程度”の幅がとんでもない方向で突き抜けているからだ。


 曰く、一部の経営とカリキュラム以外は生徒会や各委員会で学園を取り仕切っているらしく(特に体育祭や文化祭といったあらゆる年中行事は、企画・実行・責任の所在をも含めた全てが生徒側の管轄になっている。大人は一切、手を出さない。出すのは予算のみ)、職員会議に始まり、果ては学校法人の役員として、教育委員会の集まりまで出席する。正に大人顔負けの規模で生徒が運営に関わるとか(さすがに理事側の人間がチェックし、OKがでないと予算も出ないし、実現も無理だそうだが、却下された例は今のところ一度もないらしい)。


 曰く、生徒会は強大な権限を有していて、生徒会は選出・投票によって民主的に役員は決まるが一度決まるとその権限は一年間やりたい放題しても誰も文句が言えないほど、絶対的なものであるとか。


 曰く、一生徒の退学すら生徒会が干渉することが可能で、実際に生徒会の決定で退学になった生徒もざらだという噂もある。


 今日び、マンガやアニメでしかお目にかかれない荒唐無稽な話ばかりだが、こんなバカなことが現在進行形でまかり通っているのも、このシステムによって生徒間の自主性と競争心が育まれ、優秀な卒業生が何人も輩出されたという"実績"がたしかに存在しているからだ。


 経営の素人であり、それ以前に子供である生徒に学園の運営をさせる──そんな学園経営は無責任でなにより危険だという声も、多数あるのだが(事実、この論争はたびたびテレビで採り上げられている)、教育崩壊だと言われて久しい現代では、斬新な教育方針として強引に押し切っているという印象だ。


「というか、それって法律的に大丈夫なのか?」


「あら、未成年でも親の承諾があれば役員になることは可能よ。学園側が生徒達の意見を参考に運営している──そういうふうになっているの。それに考えてもみて。いくら権限があるといってもワンマンを振舞えるのは極々一部の例だけ、実際は他の役員がフォローとストッパーを兼ねているわ。天乃原学園の運営も学校法人として別に大人が在籍しているから意外に誰でもこなせるそうよ。第一、周りがどう思っているか知らないけど、天乃原学園はそれを売りにしたことはない。生徒会に入れば役員としての仕事が付いてくる。言わば、ボランティアの延長線上よ」


 なるほど、各方面への建前は万全ってわけだ。


「でも、問題が起これば批判が殺到するのはわかるわね?」


「そりゃあ、あれだけ強引にやってればな」


 少し前にも天乃原学園を退学になった生徒が学園を訴えたって話もニュースでやっていた。その後、どうなったかまでは知らないが、騒動は今も絶えない。というより、今でも充分大問題だ。これ以上なんて想像がつかない。


「生徒の個性と主体性を育てるシステムとして採用された"それ"は簡単に言えば、一足早い親離れ。それを突き詰めるために生徒に権利を持たせたの。あの学園では教師はただのおまけ、教材とそう変わらない存在よ。そうして自立していった生徒はたしかに優秀な人材として社会へと巣立っていったわ。でも、教師と生徒の距離は物理的にも精神的にも遠退いていった。生徒を自立させるためとはいえ、これでは本末転倒よね? そのために生徒に扮した"大人"の出番というわけ。安直だけど、外からどうにもできないなら内側から、ってね。もしかしたら解決する切っ掛けが掴めるかもしれないし、少なくとも監視にはなる。そして、こんな無茶をこなせる人材は限られるわ。人格的にも、能力的にも私が信頼できるとなると尚更よね」


 ──だからあなたが必要なの、と締めくくる瞳子。いくら旧家の子女とはいえ、なぜ一大学生がここまで内側に踏み込んだ話を持ってきたかというと天乃原学園の創設に当真家が一枚噛んでいるからだ。


 その後も当真家は天乃原学園の経営に関わり続け、現在の理事長も当真家の人間が務めている。つまり、この件について関係あるなしで言うなら間違いなく当事者なのだ。だから瞳子が当真家の人間として俺に話を持ってきたというのはわかるのだが──


「──二・三、質問がある」


「どうぞ」


「おまえのことだ、昨日今日で決めたことじゃないはず、なぜこの時期なんだ?」


 まだまだ寒い日が続くとはいえ、あと数日で三月。つまり、受験シーズンはとっくに終わっている。どうせ潜入させるなら入試の時点から仕込んだ方が紛れ込ませやすいはずだ。仮に転校するとして時期的に不自然ではないがあまりうまい手とは思えない。


「普通に入試で通過するよりも編入の方が都合がいいのよ。編入試験を誤魔化しやすいから。それに毎年百人単位で生徒を受け入れているからあなたが思うより中途で入学するのはそう珍しくもない。成績はともかく家庭に難ありの生徒が多いからそう詮索されることもね。あと、三月に入ると全寮制の高等部は春休み期間中でほとんどの生徒が帰省するから潜入が楽っていうメリットもあるわ。……そもそもあなた、中学生に混じって受験するなんて度胸ないでしょ」


「なんで俺が話を受けるって前提なんだよ!」


「それに、元々一年生にするつもりもなかったし」


 どういう意味だ? ……まぁいい、一年でないことに関して異論はない。受ける受けないは別として。


「他に候補くらいいるだろう? 俺である必要はないはずだが」


 すでに述べたが、瞳子の家は武家の流れを汲む旧家だ。その人脈・影響力は未だ健在であり、警察や自衛隊、民間の警備会社といったものから、果ては企業スパイの派遣や職業的暗殺者──いわゆる殺し屋といった非合法なものまでおよそ"武"というものが必要とされる分野に例外なく当真家の息がかかっている。つまり、人材の面から見て俺である必要性があるとは思えないのだ。少なくとも潜入ということなら適任はいくらでもいるはず。


「すでに派遣しているのよ」


「どういう意味だ?」


「当真家で派遣した人材が生徒会側についているわ。別件でね」


「別件?」


「今の生徒会長が天乃宮当主の孫娘なの」


「……天乃宮って、あの"天乃宮グループ"の天乃宮か?」


「そうよ」


 天乃宮あまのみやグループとは、公家の末裔である天乃宮家を母体とした複合企業のことだ。市場の変化が激しい現代においてコングロマリットとしての経営は縮小傾向にあるとされており、その存在はあまり多くはない。


 しかし、いつの時代でも家柄やその裏にある歴史とやらには価値があるらしく、その家名による信頼と人脈、それらのバックボーンから得た影響力によって、この激動の時代においても揺るがない一大企業として日本どころか世界中に名を馳せていた。


 そして天乃宮グループの人材育成を目的として設立されたのが『学校法人 天乃原学園』である。ちなみに天乃原学園という学校名は天乃宮の"天乃"と高原市の"原"とを混ぜて『天乃原学園』となっている。念のため。


 つまり、この状況がまずいのは百も承知だが共同出資者の縁者と敵対する可能性がある以上、当真家の息のかかった人材を派遣するというのは難しいようだ。しかも相手はただのビジネスパートナーではなく当真家と同じ旧家。下手に対立するということは、この先何十年といらぬ因縁をつくってしまうことを危惧しているのだろう。


 その点、俺は瞳子の友人ではあるが、当真家的には部外者だ。最悪俺を切って知らぬ存ぜぬを決め込むことができるというわけらしい。


「ねぇ、本気で考えてくれない? これは個人的な頼み事というより当真家からの正式な仕事の依頼として受け取って欲しいの。学園に侵入するわけだから、見た目も高校生に見えないといけないし。……給料もいいわよ。一応、契約は年単位で報酬は一千万位。細かいことは雇い主の理事長に交渉してもらうけどね」


「そんなにもらえるのか!」


 軽く驚く。が、よくよく考えるとそんな揉め事の塊の中で犯罪ラインギリギリアウトの仕事内容だ、当たり前か。瞳子もこちらの考えを読んだようで話を続ける。


「それだけの価値のある仕事であるという証拠でもあるわね。どう、やってみない? 私が保証するわ。あなたなら絶対やっていける。ううん、あなたが一番の適任なの」


「……そんなこと言われてもな」


 瞳子の頼みごとはたいがい無茶ばかりだがここまでのものはいつ以来だろう。金銭が絡み、拘束期間も長い、いつもならこいつの口八丁手八丁で強引に手伝わされるんだが、今回はそういうわけにはいかない。なぜなら──


「──やっぱり、決めかねているのは学園にあの子達がいるから?」


 付き合いが長いせいか、さすがに察しがいい。


「……ハルとカナは元気か?」


 脳裏に浮かぶのは二人の少女──今の俺には会う資格のない存在。


「気になるなら会いに行きなさいな。私に聞かないでね。いくら全寮制と言ってもその気になれば機会なんていくらでもあるでしょうに。二人が入学してから二年間一度も会っていないんでしょう? ……あなたもあの子達も意地っ張りだわ」


「別に意地を張って会わなかったわけじゃない。ただ、あいつらが頑張っているのを邪魔したくなかっただけだ」


「普通、そういうのを意地っ張りって言うんだけど……お金」


「うっ!」


 今、凄く耳の痛い一言が……。


「必要でしょう? それに私への借りも返せる。一石二鳥じゃない」


「い、いや、だが……」


 さずがは瞳子。こちらの性格なぞお見通しか。ちなみに当真家からの資金援助は無利子・無担保・返済期限無期の事実上、貰った扱いになっている。


 瞳子は返さなくてもいいとは言ってくれているが、利子はともかく借りた分は返さなければ、俺の気が済まない。そう思い、大学に通いながらバイトで少しずつではあるが返済している。というわけで、そもそも──


「──バイトがあるから無──」


「あ、それと、あなたの勤務先にはもう退職の連絡を済ませているわよ?」


 俺の断る理由を予想していたのか、はたまた単に今思い出したのか、辞退の返事を寝耳に水の報告で逃げ道を潰す瞳子。……なんて、呑気に解説している場合ではない!


「は!? いつ!」


「先月。退職の申請は最低でも一月前に──常識よね?」


「なにが常識か! くぁ! なにしてくれんだ! このアマ!」


 どおりでここ最近、仕事場の連中がよそよそしいわけだよ。


「大丈夫よ。後のことは後輩の柳田くんと柏木さんがうまく引き継いでくれるって!」


「何で知ってる!?」


 柳田くんは一つ下の好青年で、柏木さんはこの冬めでたく高校卒業が決まった小柄でかわいらしいお嬢さんだ。一月前急に俺の下についた二人を教育係として、あるいは直属の上司として受け持ったつもりだったのだが、職場的にはただの引継ぎ業務だったようだ。あぁ……、管理職気分で偉そうに教えてたよ。真実を知った今、ここ一ヶ月のピエロっぷりが恥ずかしい。


「……みっちり教えちまったよ。俺居なくても回っちまうくらいに」


 二人とも素直だし、真面目だからそれはもうノリノリで。「もうお御村さんがいなくても大丈夫っスよ!」なんて柳田くんの言葉に頼もしく感じてたよ。……なんかもう辞めるのを止められない空気になってんじゃん!


「いや、ちょっと待て! まさか、ここ最近大学の方にも頻繁に顔を出していたのは……」


「うん。もろもろの手続きをするためよ。休学の」


「おっ、おまえなぁ……」


 と、悪びれる様子もなくあっさりと認める瞳子にさすがに二の句が継げない。


「いいじゃない。次の就職先は決まっているわけだし」


「……」


 人を勝手に退職させておいてなにを抜け抜けと。言いたいことは山ほどあるが、現実に退職が受理されている以上、なにもかも虚しいだけだ。


 なにより友人──こんなんでも──であり、恩人である相手に金銭的にも精神的にも借りを返すチャンスは用意されている。ここまでお膳立てされているなら断る方がどうかしているのだが、まだどこかでこの話を断りたい自分がいる。


 本音を言おう。仕事のことを抜きにしてもあまり乗り気ではない。その理由は話を振った瞳子が一番わかっているのだから頭が痛い。俺がノーと言うのをわかった上で、建前も本音も丸ごと逃げ道を潰しにかかるのだ。……その首が縦に揺れるまで。


 それなんて拷問? と泣きが入りそうになるが、今の俺にとって職場を辞めさせられる以上の泣き所などない。気分的には一発目で首を斬り落とされたようなものだ。


 何気なく瞳子を見ると、飲みさしのコーヒーを良家のお嬢様よろしく口をつけている。不気味だ。いや、振る舞いは優雅なのだが、その静けさのせいで落ち着かない──持っているのだ。俺を動かせるための理由を。


「……予想以上に粘るわね。よし、こうなったら踏ん切りをつけさせてあげよう」


「(……きたか)」


 ある意味、予想通り過ぎて逆に清清しい感じのイヤな予感。まるで将棋やチェスで詰まされる一歩手前のような感覚を味わいながら瞳子の言葉を待つ。

 さぁ、どうくる? ──


「──あの二人が学園を退学になるかもしれないって言ったら、どうする?」


 それは、今までのやり取りなど、ひと断ちにする決着の一手。その一手の前ではどんな意地も抵抗も葛藤も無駄だ。


「……先に言えよ」


 俺はこいつの手のひらで一生踊らされ続ける。認めたくないことだが、そんな気がした。




 その後、ファミレスを出た俺と瞳子は善は急げとばかりにその足で当真の実家へ向かうことになった。というか強引に連れ去られた。“丁度よく”実家にいるはずの天乃原学園理事長に会うためだ。そして当真の本家に着くなり、まるですでに話がついていたかのようにそのまま面接を受けることになった。手際よすぎだろ──などという類の突っ込みは逆に間抜けに違いない。


 説明が遅れたが理事長にとって瞳子は自分の姉の娘でつまるところ叔父と姪の関係にあたる。姪には大甘な人物で出会い頭に「この子は嫁にやらんぞ」的な目で睨まれた時には早くも話を受けたことを少し後悔した。……話を戻そう。面接自体は瞳子の紹介ということもあり形式的なものだった。その席で、


 給料──年俸一千五百万円を十二分割で支払い(強引に休学やバイトを退職させた事への迷惑料が上積みされた)。


 学園での仕事内容──学園に潜入し、学生の視点から調査・報告。バレた時、あるいは当真の関与が疑われそうだと依頼主が判断した場合、即座に中止。学園が俺を追及した場合、当真家は一切関知しない(ただし、次の職の斡旋や何らかの前科がついた場合のフォローはする。それについては後ほど)。



 編入先でのプロフィールの説明──編入先は二年C組(つまり、契約期間は最長でも卒業式までの一年)。プロフィールはボロが出にくいように俺の高校時代をそのまま流用、もちろん本名もそのままという戸籍を用意(前科がついた時など俺に回るリスクを最小限にする為の措置。当真家にとって偽の戸籍を用意くらい朝飯前)。


 といった打ち合わせを行い、その日は終わった。その後、潜入目的とはいえ入学する以上、時宮を離れるため、友人に転居の挨拶周りだったり(その際に地元の後輩に散々泣かれてなだめるのに苦労したりもしたのは別の話)、新しい生活の準備に追われ、あわただしい数日間となった。そしてファミレスでの話し合いから一月後──晴れて俺は天乃原学園高等部の生徒となった。




「──暑いな」


 暦は三月の中旬。春という季節の中でも冬の名残がまだかすかに感じられる時期である。そんな中、俺の呟きは季節感がない発言なのだが。


「……こんなに日差しがいいと冬服じゃあそうなるよな」


 時期はともかく、例年より気温が高い上に、そこそこ長い山道を登るとなるとまったく逆の感想になってしまう。


 俺が今身に付けているのは、天乃原学園の制服。ネクタイの色は高等部を示す青、そしてラインの数は二本。高等部の二年生という意味だ。


 いわゆる小中高一貫校、ついでに大学付属でもある天乃原学園では青を基調としたブレザータイプの制服に合わせるネクタイやリボンの色とプリントされたラインの本数で学年がわかるようになっている(さすがに大学は私服なのでそういった区別の方法はない)。


 どう控えめに言っても山登りに向いているファッションではないのは一目瞭然なのだが、それでもこんなことになっているのは、


「ちくしょう、瞳子のやつ、迎えを、寄越すって、言ってた、のに」


 息も絶え絶えに山道を歩かせる原因であるところの友人に恨み言を吐く。向こうが指定した待ち合わせ場所でいくら待っても迎えのむの字すらこない上、携帯も繋がらず、結局、約束した時間から二時間もオーバーして、これ以上待つのはもはや無駄だと判断した俺は、駅員に行き先への道順を聞いて目的地のある山の麓まで辿り着いた。


 目的地は山の中腹に建てられており、バスが通るための道路が整備されてはいるが行き先の都合上、週に数えるほどしかバスは走らないらしい。運悪く走らない日だったため、今現在、汗だくになりながら山道を登る羽目になったというわけだ。


「鈍った体には丁度いいか」


 などと慰めに思ってみるも、易しくない道のり。登山というほどハードなものではないが、本来ならば直通のバスで通うところを徒歩で行くというのは、些かキツイ。


 山道は目的地に真っ直ぐ通っているわけではなく、まるで峠の走り屋達が競うためじゃねぇの? と思うほどに曲がりくねっていて、もうかれこれ二十回はカーブを曲がった。……こんなにカーブを作る必要あるのか?


 時計を見ると昼の二時を指している。駅を降りたのが朝の七時だから迎えを待った時間を差し引いて、五時間も歩きっぱなしという計算だ。手元には財布と身の回りのもの数点を入れた鞄だけ。……事前に荷物のほとんどを行き先に送っておいて正解だった。


「もう……そろそろ目的地が見えてもいいはず……だろう?」


 別に誰かが答えてくれることを期待したわけじゃないが、少しでもポジティブに独り言でも言ってないといい加減挫けそうになる。


 それに答えたわけではないだろうが、ふと顔を上げると青々しく茂る山の木々の間に自然ではありえない光沢を纏った灰色――人工物だ。遠目からではあるがようやく壁のようなものが見える。


「あれ……だな。……多分」


 迎えが来なかったから、こんな苦労をしてきたわけだが、それでもこうして自力で辿り着くとなんとなく達成感がこみ上げてくる──だからといって迎えが来なかったのを許したわけじゃないが。


 しかし、だんだん壁? が視界のほとんどを埋めていくにつれ、達成感の代わりに疑問の成分が頭の中を占めていく。本当に目的地で合っているのか? あれ。なんというか外界だけでなく中に住む人間をも外から隔絶する刑務所の壁に近い。俺が目指す目的地からは真逆のイメージの建物だ。


 疑問は建物に近づけば近づく分だけ大きくなり、ようやく今歩いている道路とその建物が結びつけられる線が見えてきた頃には疑問から不安に変わってきた。


「……ここは本当に日本か?」


 まるで要塞か西洋の城のような門を前に呆然としながら呟く。この非常識な光景は先ほどのちょっとした達成感を根こそぎ奪われるほどに異様で、できることならこのまま回れ右をして帰りたいくらいだ。


「俺……なんでここにいるんだっけ?」


 いや、そんなことはわかっている。ここに来ることを決めたからだ。いつまでも現実逃避していても仕方がない。とりあえず、本当にここで合っているのか門の横に立派に掲げられている表札を見る。表札には、『私立 天乃原学園』の文字。……うん、大丈夫だ。合っている。……なにが大丈夫かわからんけど。


 ここは私立天乃原学園の正門前。そう、ここは学校なのだ。だが、その目の前にあるのは恐ろしくものものしい門構え。本当に学校なのか? 改めて疑わしい。両端も高い壁に覆われ、どこまで続いているのかここからでは確認できない。


 ある意味、見た目通りと言うべきか監視カメラが至るところに目を光らせている。詳しくは知らないが他にもいくつか仕掛けられているらしい。軍隊でも攻めてくるのか、と思ってしまうほどのものものしい外観だ。


 初等部から付属大学まで存在する天乃原学園は高原市のあちらこちらに学園の施設があり、高等部は高原市の北側ある日原山を切り開いて校舎を建てており、山丸々一つ分が高等部としての学園の敷地らしい。全て含めると、市の六割強が天乃原学園の関連施設らしく、学術都市と呼ばれるのも、むべなるかなである。


 そんな学園都市にあって高等部の制服を身にまとっているのだ、傍目から見て、俺がこの学園の生徒だということがわかると思う──というか見えないと困る。


 内心、高校生を装えているか自信がない。自信がないから落ち着かない、落ち着かないから挙動不審に見える(と被害妄想が発動する)、挙動不審なのを自覚しているから堂々と高校生になりきる自信がわいてこない。そんな悪循環に陥っている。


「俺、二十歳超えてるんだよなぁ……」


 ため息交じりに人に聞かれれば間違いなく怪訝な顔をされるであろう発言をしつつ、天を仰ぐ。このところ、このように素というか思考が生々しく現実に帰ることが頻繁にある。


 この年で学生服に袖を通すなどというコスプレまがいの姿を大勢の高校生に見られるという日々がはじまるのだ、と言えば察してもらえるだろうか。有り体に言えばとてつもなく気が重い。


 とはいえいつまでもウジウジとしているわけにはいかない。話を受けることにした以上、覚悟を決めるべきだ。


 胸に秘めた決意──まぁ、そこまで大袈裟なものでもないが──と共に顔を上げ、学園の敷地へと歩を進める。校門というにはあまりにも物騒な門構えまであと十数歩。


「──あん?」


「や、優之助。待っていたわ」


 いつの間にいたのやら、瞳子がなぜか挑戦的な眼差しをさせながら門の向こう側で立ち塞がっていた。


「改めてようこそ、天乃原学園へ。学園はあなたを歓迎するわ」


「なにが『待っていたわ』だよ、それはこちらの台詞だ。そうだ! 迎えだよ、迎え。迎えはどうした! 朝には駅に着くって言っただろ! 連絡しても繋がんねぇし、結局ここまで来るのに五時間だぞ! 五時間! 迎えを待っていた時間足したら七時間!」


 今までの不満を込めてまくし立てる俺。そんな俺に対して、瞳子の反応は、


「……そう言えばそうだったわね。忘れてた。ごめん」


 今、気づいたかのようにあっさりと謝る瞳子。そのあっさり具合があまりに絶妙でこれ以上、怒るに怒れない。あんまり引っ張ると器が小さいみたいで負けたみたいな気分になる。って、いや別に勝負しているわけでもないが。


 それに俺としては待たされたことを追求するよりも先に突っ込まなければならないことがあったからだ。それは──


「──なんで制服なんだ?」


 正門を通さないとばかりに仁王立ちする瞳子は俺と同じく青がベースのブレザータイプの制服。違いがあるとすれば、ズボンがスカートにネクタイがリボンになっているくらい。そしてリボンの端にラインが二つ──高等部二年生の証。

「そんなの決まっているじゃない。"編入"するのよ、私もね」


「聞いてないんだけど……」


「言ってないもの」


「……はっ、まさかおまえ、俺を巻き込んだのって一人じゃ恥ずかしいからだろ!」


「理由の一つではあるわね」


 なにが理由の一つか。それが嫌で道連れを作りたかったに違いない。


「しかしいいのか? 当真家の人間が関与するのはまずいって言ったのおまえじゃないか」


「傍観者に徹するから大丈夫よ。もっと正確にいえばあなたの監査役ってところかしらね」


「おいおい物見遊山かよ」


 なんというかバイト先で冷やかされているような気分だ。ただ一方で、先に派遣された関係者への配慮もあるだろうし、天乃宮家側を刺激せず内情をより深く知ろうとするなら俺の監査役として潜入した方がいい。そう考えれば納得できる部分がある。それに──


「──まぁ、おまえの方でもかなり待っていてくれたみたいだしな」


 よくよく考えたら、今、校門の前にいるということはこいつも俺を出迎えるために朝からずっと立ちっぱなしだったのだろう。


 そんな演出のするくらいなら迎えを出したかどうかに気づけよ! とか、こいつ何時間突っ立ってたんだ? アホだろ? とか、いろいろ脳裏を駆け抜けたがそれについては黙っておくことにした。


「……? ……あぁ! ううん、私は優之助が来るまで寮にいたわよ。部屋の模様替えとかあったし。でも優之助がくるかどうか学園の警備部の報告待ちだったから、そういう意味では待っていたといえなくはないわね」


「……」


 考えたら負けだ。気を取り直していこう。


「んで、今からどうすればいいんだ? なにもないなら、寮に案内してほしいんだが」


 送った荷物を片付けないといけないし、なにより疲れた。


「あっ、ちょっと待って」


 今度はなんだ? 見ると、瞳子が校門の周りをうろちょろしている。どうやら、何かの立ち位置を確認しているみたいだ。何かってなんだよ? と聞かれたら、んなもん本人に言えよと返す程度には不可解ではあるが。


「ええと、この辺りかしら」


 十秒ほど、あちこちうろついて、ようやく納得できるポイントを見つけたようで、俺を置いてけぼりにしたまま、芝居掛かった仕草で何事かをのたまう。


「──この学園では外の常識は通用しない。一歩踏み出すともう後戻りはきかず、あらゆる苦難が待ち受けるわ。それでもあなたは踏み出すというの?」


 どうやらさっきの答えが出たようで、立ち位置確認からの数十秒はこのアホな寸劇のためらしい。


「じゃあ、帰るぞ」


「ちょっ、待った! 待った! ん、もう、ノリが悪いわね。せっかく悪の巣窟に立ち向かおうする勇者の歓迎っぽくしたのに」


「そんな演出はいらん!」


 普通に歓迎してくれ! 普通に。


「でも、あながち的外れではないわ。この学園はある意味、悪の巣窟よりもタチが悪い。一言で悪だと断じることができるならどんなに楽か。悪党と違って生徒を叩きのめすわけにはいかないもの」


 いきなりシリアスになるなよ。リアクションに困る。


「たしかにそんな解決は無理だな」


 それができれば俺が引っ張り出されることもなかっただろうに。人知れずため息が出る。


「期待しているわよ優之助」


「まぁ、ここまできたんだ。学園に潜入して諜報活動なんてレアすぎる経験を楽しませてもらうさ」


 覚悟を決めたせいか気持ち足取りが軽い。そうさ、こうなりゃ楽しまないと損だ。そう開き直る俺の後ろで瞳子が呟く。


「──諜報活動だけしてもらうなんて言った覚えはないんだけどねぇ」


 なにか不吉なことを言われた気がするが、腹を括った──開き直ったともいえる──俺はまったく気にならない。気にした方がいいのだとわかってはいたが、無駄だと思うので気にしないことにした。すでに賽は投げられたのだから。

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