奔走

 僕は目覚め行く意識の中、ゆっくりと瞼を開いていく。ぼやけた視界の中にアカリの姿を見つける。アカリはまだ意識が戻っていないのか、小さな寝息を立てて眠っている。

 これでいい。眠っていてくれた方が気兼ねなくこの場を離れることが出来る。僕はおもむろに立ち上がり、アカリに背を向ける。そして僕は背中越しにアカリに向けて二言だけ残した。


「ごめん……。そして……、ありがとう」


 その言葉を言い残した僕はゆっくりと元来た道を戻っていく。このままの状態でミノタウルスに挑んだところで、一つの可能性もなく蹂躙されて終わりだろう。戦うことが僕の罪の償いになるのなら、僕は戦わなければならない。

 戦わなければならないのなら、僕はミノタウルスと戦う訳にはいかない。それは戦いではなく死にに行くだけだ。

 もし僕に少しでも勝機があるとするのなら、入り口に向けて戻りながら、もう一度出現したモンスターを倒すことでパラメータの向上を図り、ある程度のパラメータになったところでミノタウルスに挑んだ方が余程勝率が上がる。

 アカリはたぶん一人でもこのダンジョンを攻略できるだけの力を持っている。僕がいなくなれば重荷もなくなり、これまでよりも順調に進めるようになるはずだ。

 今まではアカリに助けてもらいながらモンスターを倒してきたが、僕だって武器も手に入れたし、パラメータも初心者平均くらいには上がった。これなら一人でもなんとかモンスターを倒すことができるはずだ。


「あんた、あいつと別れちゃって本当に良かったの?正直、今のあんたの力だと、一対一ならともかく、群れと出くわしたら勝ち目なんて無いわよ。自分がソロになっているってことわかってる?」


 そういったアイリスの忠告も、ほとんど耳には入っていなかった。

 自責と後悔の念から来る涙に溺れた僕の視界は何も捉えることはできず、ただただ真っ直ぐに歩き続けていた。

 そうやって進んでいった先には、いつの間にか再び出現したモンスターが僕の目の前に待ち構えている。


「これからは、僕の戦いだ。僕が全部引き受けてやる。掛かってこいよ。僕だって戦えるんだ。これまでの僕だと思うなよ。僕は変わるんだ。これまでの僕と決別して、主人公になってやるんだ。だから、僕の邪魔をするなあああああああ!!」


 僕が珍しく放った殺気に、アイリスは少し驚きながらも魔導書へと姿を変える。僕はそれを手に取ると、魔導書から刃先の小さなナイフを引き抜く。

 僕はそれを構えてモンスターと睨みあう。敵はザンザーラ。アカリが戦うところを何度も見てきた。僕にだって倒すことが出来るはずだ。


「うおおおおおおおおお!!」


 僕はラビット・ナイフを片手に雄叫びを上げながらザンザーラに突っ込んでいく。孤独な僕の一人の戦いが始まった。




 どれだけ敵を倒しただろうか。感覚的には、かなりの数を倒したような気もするが、実際はどうだろうか……。

 ゲームと違って一体を倒すのにかかる時間も長いし、手数も多いから実際よりもかなり倒しているような感覚に陥る。

 さっきからパラメータのページを見ていないから、どれだけ上がったかもわからない。でも、それももう関係ないか……。

 僕はザンザーラ三体と、ラパン二体に囲まれていた。しかも、さっきザンザーラの巨大な前足の打撃をもろに喰らって、動ける状態ではなくなってしまっていた。

 行きのときにはこんな大集団と出くわすことはなかったから、僕はどこかで油断をしていた。

 想定外の大集団に出くわした僕はやる気が空回りして、アイリスの忠告に聞く耳を持たず、そのままその集団に突っ込んでいき、そして現状に至る。最早僕は死をも覚悟していた。

 どうせ一度は死にかけた命だ。別になんてことはない。少し時間が伸びるだけじゃないか。


「ちょっと、何やってんのよ。早く起き上がりなさいよ。あんたが死ねば私だってどうなるかわからないのよ。あんた一人の命じゃないんだから、戦わなくてもいいから逃げてよぉ」


 アイリスの嗚咽の混じった泣き声が聞こえる。いつの間にか魔導書から妖精の姿に変わり、僕の服の肩の辺りをグイグイと引っ張って僕を立たせようともがいている。だが、僕の身体は既に言うことを聞かない。もう立ちたくても立つことが出来ない。

 僕の虚ろになった視界の中に二匹のラパンが映し出される。ザンザーラは動きが遅いため、まだ少し距離があるが、ラパンは既に動きだし、その鋭い角をこちらに向けて走り出している。

 その姿が妙に遅く感じるが、僕は身体を動かすことが出来ないため避ける手段はどこにも残されていなかった。

 ミノタウルスと戦っているときは死にたくないと思った。でも、今回はどこか清々しい気分だった。

 僕は初めて自分のために、自分の力で戦った。これまでの僕では考えることもできなかったことだっただろう。

 戦って、敗れて、死ぬ。それなら少しは僕のなりたかった主人公に近づけたんじゃないかと思う。本当に少しだけど……。

 今度は目を瞑りはしなかった。自分の罪を受け入れ、自分の死を受け入れ、自分の弱さを受け入れ、僕は目の前の敵を見据えたまま、ただラパンの角が僕の身体を貫くのを待った。

 隣で泣き叫ぶアイリスの声が聞こえるが、何を言っているのか耳に入って来ない。

 アイリスには、本当に悪いと思っている。自分のパートナーがヘタレで、弱くて、使い物にならなくて、ただただ迷惑だけを掛けて死んでいくなんて、僕がその立場ならやってられないと思う。

 アカリはこれで気兼ねなくダンジョン攻略に向かえるはずだ。アカリのパラメータなら、一人でだってボス攻略できるだろうし、寧ろ僕がいた方が僕を護りながら戦わなければならないから、さっきのミノタウルスみたいに受けなくてもいい傷を負ってしまう。

 エミリアさんは、僕が死んだって知ったら悲しんでくれるかな?僕のこっちの世界での数少ない知り合いだけど、それでも少しは親しくなれた気がする。ちゃんと僕のことを覚えていて、少しくらい悲しんでくれたら僕も嬉しいな。

 そう言えば、こっちの世界で死んだら向こうの世界の僕はどうなるのだろうか…。まあ、向こうの世界の僕も一緒に死んでも悔いはない。だって、僕はちゃんと戦ったんだ。だから、全ての世界から僕が消えても、僕は後悔なんてしない。

 僕は全てを受け入れ、目の前から襲い来るラパンを眺めた。最早数メートルしかなく、もし動けたとしてももう逃げることはできない。僕は今どんな顔をしているのだろうか?怯えているだろうか、泣いているだろうか、それとも笑っているだろうか……。

 そしてラパンとの距離が一メートルを切り全てを受け入れた瞬間、僕の耳にいつの間にか聞き慣れていた強く、優しく、可憐な声が響き渡った。


「ヴィント・スパーダ」


 その瞬間、身体に凄まじい勢いでいくつもの斬傷を残しながら、ラパンは大きく吹き飛び僕への軌道から外れた。

 その声の主は僕に背を向けて立つと、残りのザンザーラ三体へと向かっていく。そして、圧倒的な力の差で、数秒も掛からない内に全てのザンザーラを片付けてしまった。

 僕がどれだけ苦労したと思っているんだ。それを、こんなにいとも容易くやられてしまっては、本当に僕の立場が無いじゃないか。なんで、来たんだよ。なんで、先に行かなかったんだよ。なんで……、そんなに優しいんだよ……。

 僕の頬を一筋の雫が流れ落ちる。もう、諦めていたはずなのに。もう、死ぬ覚悟はできていたはずなのに。もう、彼女からは離れようと思っていたはずなのに……。

 助けてもらったことがとても嬉しかった。死なずに済んだことが本当に嬉しかった。何より、アカリにもう一度会えたことが心の底から嬉しくて仕方がなかった。

 アカリの息は絶え絶えで、ここまでどれだけ全力疾走してきたかが容易に想像できる。

 アカリは僕の方を振り向くと、一歩ずつ踏みしめるようにゆっくりとこちらに向いて歩いてくる。そして、動くことのできない僕の目の前で立ち止まり、何かを逡巡するように動きを止めると、思い切り力を込めて僕の頬をビンタした。


「はあっ、はぁ……。あんた、何考えてんのよ。自分が弱いから、あたしの邪魔になるから、だから私の傍を離れようって、そんなことでも考えてた訳?冗談じゃないわよ。それで、あんたが死んだら、私がどれだけ目覚めが悪いと思ってんのよ。そんなの、優しさでも気遣いでも何でもない。ただの迷惑よ」


 アカリは僕の襟首をつかんだまま、その瞳に涙を浮かべて僕に捲し立てる。アカリの肩は小刻みに震えており、言葉にもその震えがダイレクトに伝わっている。


「あんたがどう思っているかは知らないけど、私はあんたのこと邪魔だなんて思ったことは一度もないわよ。あんたがいなければいいなんて思ったこと一度もない。あんたが弱いことなんて最初からわかり切っていることじゃない。それでも、私はあんたと行くことを決めたの。どれだけ傷ついたって、こうやって生きてるんだからいいじゃない。死んだ訳じゃないんだからいいじゃない。変に責任感じて、いなくなったりしないでよ……。私を、一人にしないでよ……」


 最後の方はそのまま消えてしまいそうなかすれ声で懇願するかのように、アカリは僕に向けて告げた。

 正直、弱い僕にはアカリの気持ちの全てを理解することはできない。けれどこの戦いが僕に与えられた贖罪ならば、僕は彼女と一緒に行くべきなのかもしれない。彼女がそう望んだのなら、僕はそれに従うべきなのかもしれない。


「ごめん、アカリ。僕の早とちりだったみたいだね。僕はどこかで、アカリは僕のことを邪魔だと思っているんだとばかり思っていた。こんなに僕のために世話を焼いてくれていたのに、僕はアカリを信じきることが出来ていなかったんだ。それで勝手に負い目を感じて、アカリの傍を逃げ出した。本当にごめん……」


 僕は俯いたまま、地の底に沈んで行ってしまいそうな程、重く落ち込んだ声でアカリに告げた。

 今のアカリの顔を見れば、おそらく何も言えなくなってしまうことは容易に想像ができたから、アカリに視線を合わせることはしなかった。だって、アカリが初めてだったから。僕のために涙を流してくれたのは……。

 僕のそんな落ち込んだ声音の謝罪に、彼女は瞳に涙を浮かべたまま微笑むように優しげな表情でこう告げた。


「まあ、生きているなら、それでいいわ。生きていればいくらだってやり直せるのよ。だからもう一度、あのモンスターと戦いましょう。トオルと私の二人で……。少しは強くなったんでしょ。なら、あんな奴楽勝よ」


 その言葉と声音はとても優しく、まるで僕の沈みきった心を地の底から這い上がらせるために、手を差し伸べてくれているようなそんな暖かみを感じた。

 僕はその言葉に、ただただ無言で何度も何度も頷いた。

 僕の瞳からまるでアカリの涙が移ったかのように、ボロボロと涙が零れだす。その涙には女の子に守られている自分への悔しさや、自分をも騙していた死への恐怖、何よりも、アカリの優しさに対する感謝など、様々な感情が渦巻きひしめきあっていた。

 僕のその姿を見たアカリは僕の襟首から手を放して、脱力するように肩の力を抜くと、先程の微笑みから苦笑交じりの呆れた表情へと移り変わる。


「本当に世話が焼けるんだから……」


 僕はそのまま泣き崩れた。アカリは僕のその様子を何も咎めることはなく、僕が落ち着くまでずっと、何も言わずに傍で待っていてくれた。僕は彼女に甘えて、気が休まるまで声を上げて泣き続けた。

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