憂鬱

 彼女と別れた途端、一気に憂鬱な気分が僕を襲う。僕の楽しい学校生活はこれまで…。僕はまた自分を守るために自分を殺して過ごさなければならないのだ。

 既に貼り出されていたクラス分けの紙を眺めて自分の名前を探す。たった三クラスしかなく、五十音順でならんでいるため、自分の名前を見つけるのはそれほど苦労しない。さっさと自分の名前を見つけて、僕は自分の教室へと向かった。

 席順は案外良く、僕は一番後ろの左から二番目の席だった。欲を言えば窓際が良かったが、一番後ろというのは空気に徹するのにもってこいの場所だった。僕は鞄を机の横にかけると、窓から見えるグラウンドへと視線を落とした。

 まだ始業時間には早いこの時間帯から、朝練に勤しむ少年少女がグラウンドを走り回っている。僕には何が楽しくてあんなことをしているのかわからないが、こういう風景を見ていると思うことがある。僕がこうやって部活か何かに打ち込んでいたら、今とは違った生活を送っていたのだろうか?

 しかし、もしもの話をしても仕方がない。結局いつも答えの無い問いに、面倒臭くなって考えるのを止めてしまう。行動に移すことはなく、結局もしもで終わらせるのが僕の悪い癖なのだ。

 そんなことを思いながら、教室から外を眺めて過ごしていると、一人、また一人と生徒たちが教室に入ってくる。僕はある程度の人数が集まってくると、腕の中に顔を埋めて空気に徹することにする。

 これが誰とも繋がりを持たないようにするための、僕の防御態勢なのだ。お陰で僕は誰に絡まれることもなく、無事に始業のチャイムを迎えることが出来た。これでいい、これが僕の最高の過ごし方。

 始業のチャイムが鳴り、新しい担任の先生が教室へと入ってくる。僕は顔を少しだけ上げて、朝のHR《ホームルーム》を済ませた。

 それが終わると、始業式のために皆立ち上がって移動が始まる。「めんどくせえな」とか言いながら、楽しそうに笑って出ていく人たちの中に溶け込むように、僕は存在を消して歩いていった。

 始業式も終わり、もう一度教室へと戻る。一日目なので授業はなく、LHR《ロングホームルーム》だけで終わる。それさえ凌げば、今日は平和に一日を過ごすことができる。

 先生が入ってきて最初の伝達事項を述べ始めた。


「よーし、まず転校生を紹介するぞ。朝のクラス分けの紙を見て気が付いた人もいると思うが、今日から転校生が来る。さあ、入りなさい」


 転校生と聞いて最初に頭に思い浮かべたのはもちろん彼女だ。そして、前のドアから入ってきたのも、間違いなく彼女だった。

 僕は埋めていた顔を上げて彼女を見ていた。先程まで僕の隣を歩いて、楽しそうに話していた女の子がそこにはいた。


「高梨 蛍です。これから、よろしくお願いします」


 彼女が深々とお辞儀をすると教室中から拍手が湧き上がる。僕は見蕩れたまま、拍手をすることもなく彼女を見つめていた。その視線に気が付いたのか、彼女がこちらに向けて微笑んだ。

 僕はそれを見続けてしまった。そう、見続けたではなく、見続けてしまったのだ。彼女のそんな素振りに気が付いた一部の男子生徒が僕の方を見た。最悪だ……。これで、僕の穏やかで平和な一日は幕を閉じた……。




 昔は毎日のように虐めにあっていたのだが、虐めるのにも飽きてきたのか、今は毎日という訳ではなく、気が向いたときといった感じになっていた。

 そこまでして、誰かを虐めていないと気が済まないのか、というのが正直な感想なのだが、そうやって誰かの上に立っているという証がなければ自分を保っていられないのだろう。

 その気が向いたときというのが、今日みたいに僕が少しでも目立ったときや、学校で僕の名前が上がったときというのが大半なのだ。

 だからこそ、僕は普段から如何に空気に徹するかだけを考えているのだ。本当に生き辛い世の中だと思う。

 放課後、僕は校舎裏に呼び出される。校舎裏って昭和の学園ドラマじゃないんだから……、と思いつつも、無視すると今後がさらにややこしいことになるのでとりあえず従っておく。


「おっ、来た、来た。おい、東雲。今日のあれはどういうことだ?誰がいつ、お前が俺たちと同じ場所に存在していいって言った?俺たちの約束忘れたわけじゃないよな。どうしようもないキモオタは同じ空気を吸うんじゃねえ。それでも学校に来たいんだったら、黙って、存在を消してろって言ったはずだ。それが守れないなら……」


 ドスッ。僕の腹部から鈍い音がした。男子生徒の拳が僕の腹部をえぐるように突き立てられる。男子生徒たちの中でリーダー格の男である、兵頭 虎丸《ひょうどう とらまる》はこの場所に辿り着くなり僕の腹部を殴打した。

 僕は異常なほどの吐き気を催しながら、何とか胃の中に押し戻して我慢する。そして、その場にうずくまって動けなくなる。これは罰……。僕が約束を破った為に行われた罰……。これが僕の日常なのだ……。

 僕は自分を殺して、存在を消して、決して目立ってはいけない。それが、僕がこの学校に来るために与えられたルール。


「顔とかは止めといてやるよ。お前の親が心配するからな。なあ、親には心配されたくないもんなあ。くくく……」


 嘲る様に甲高い笑い声を上げながら兵頭は僕を指差す。それは加害者側の都合だろ……、なんて思っても絶対に口には出さない。僕が欲しいのは彼らに歯向かう勇気でも、力でもない。ただ平穏に暮らしたいだけなのだ。

 だから僕は何されようが、黙ってその場をやり過ごす。周りを取り囲む取り巻きの男子生徒たちも一緒になって僕の姿を見て笑っている。一通り僕を見世物のようにして笑うと、それにも飽きたのか、地面から足音が響いてくる。


「じゃあな、キモオタ君。これからは気を付けろよ、平和に学校で過ごしたいならな」


 そう言って兵頭は僕の肩をポンッと叩くと、取り巻きを連れてさっさとどこかへ行ってしまった。彼らが行ったのを確認した僕は、地べたを気にすることなく背中から仰向けにバタンッと寝転がる。

 校舎の隙間から除く青空が僕の心の中とは裏腹にとてもきれいで、空まで僕を嘲り笑っているような気分になる。流れる雲は一定の速度を保ち、ただ呆然とそれを見ていると、だんだんと心が落ち着いてくる。

 僕の口から自然と笑みが漏れる。それすらも自分を嘲り笑うものだった。何の権利があって、お前たちは僕を縛り付ける……。お前たちがどれだけ偉くて、優れていると言うのか…。僕もお前たちも別に大して変わりはしない……。

 そんなことわかっているのに、僕は結局何も言い返せないし何も抵抗できない。

 ラノベやアニメの主人公なら、あんな奴らを見返してやるんだろうな……。そして、ヒロインの女の子を守って、いつか結ばれて……。でも僕には、そんな勇気も気力もない。

 久しぶりに女の子と会話して、新学年という雰囲気に中てられて、少しおかしくなっていたのかもしれない。明日からは普通の僕で行こう。彼女とはもう話すことは無いだろう。

 噂は水面に落ちた雫の波のように瞬く間に広がっていく。明日には彼女も僕を避けるだろう。

 それでも、たった一日だけでも高梨さんみたいな人と仲良くできてよかった。今日はこんな目にあったけど、僕の中ではこれでチャラだ。

 あ、そういえば今日はラノベの新刊が発売されるんだっけ。帰りに買って帰ろうかな。

 一人で青空に浮かぶ、穏やかに流れる雲を見ながら僕は思いを巡らせていると、自分の空しさに、瞳から一粒の雫が流れ落ちる。

 さっき殴られた場所が、涙が出るほど痛かったかな……、などと自分を誤魔化すかのように自らの心と対話しても、寧ろ余計に自分の無力さ、無気力さが悔しくて、いつの間にか僕の瞳には水たまりができていた。それを腕で拭いながら、声を上げて泣きたい気持ちをぐっと抑え、少し身を震わせながら、僕はその場で少しの間涙が収まるのを待った。

 そんな僕の姿を誰かが見ているかのような視線を感じたが、僕は誰とも関わりたくなくて、気付かない振りをしてその視線が消えるのを待った。

 帰り道、地元の本屋に寄ってラノベの新刊を手に家へと帰宅する。親は共働きで、返事が無いことのわかっている家の中に、僕は「ただいま」と告げる。

 そのまま自分の部屋へとすぐさま向かい、ラノベの包装をすぐに破り捨てると、僕は自らの世界へと潜り込んだ。その頃には、もう腹部の痛みはすっかり消えていた。




 ボロボロになった主人公はそれでも諦めずに、目の前の敵に立ち向かう。どれだけ戦力差があっても、主人公はひるむことなく相手をその瞳の中に捉え、手に携える剣を強く握りしめる。


「お前が、どれだけ強かろうが、それは俺が諦める理由にならない。護りたいものがある限り、俺の命が尽きない限り、俺はお前に屈したりしない」


 主人公が持つ剣が、主人公の決意に呼応するかのように輝きを放つ。主人公の眼に揺らめく炎が浮かび上がり生気が蘇る。そんな主人公の背中には、胸の前で腕を組み祈るように主人公を見守る女の子がいる。


「うあああああああああ!!」


主人公が咆哮と共に地面を蹴り、もう一度敵へと立ち向かう。


「バカな……。さっきまで死にぞこないだったお前が何故、我に立ち向かう。お前の何処に、そんな力が残されている……」


 敵は瀕死状態だった主人公の、急激に増した勢いに気圧され後ずさりをする。敵は主人公に向けて何発も魔法を放つが、それは全て光り輝く剣によってかき消されていく。


「誰かを護りたいと思う心が、俺の力だ」


 主人公は思い切り地面を蹴って飛翔する。そして、敵の脳天目掛けて、光り輝く剣を雄叫びと共に力いっぱい振り下ろした。その剣は脳天から敵を真っ二つに切り裂くように、一直線の軌導を描いて敵の身体を両断した。

 敵は言葉もなくゆっくりと灰になって、静かに吹き付ける風に吹かれ、そして流されて消えていった。

 戦いを見届けた女の子は敵の消滅を確認すると、すぐさま主人公の元に駆け寄る。少女が到着するのを待たずして、主人公は力尽きて膝から崩れ落ちる。主人公の頭が地面に落ちる寸前で、少女は主人公の頭を抱きとめた。


「やっと、終わったのですね。これで、世界に平和が戻るのですね」


 少女の目には溢れんばかりの涙が浮かんでいた。そして、零れ落ちた涙が主人公の額に一粒、また一粒と滴り落ちていく。その涙はとても暖かく、疲れ切った主人公の心をゆっくりと癒していく。


「ああ……、これで終わったんだ。僕たちはもう、奴らに怯えることなく暮らすことができるんだ」


 主人公は少女の頭にゆっくりと腕を回すと、少しだけ強引に彼女の顔を自分の顔に近づけさせる。そして、お互いの唇と唇を重ね合わせる。

 少女も何も抵抗することなく、ただなされるがままに主人公にその身を預ける。

 太陽を覆っていた厚い雲は少しずつ晴れ、雲の隙間から差し込む光が祝福するかのように彼らを照らし出していた。




「やっぱりラノベの主人公ってカッコいいよな。こんな風になれたらどんなに良いか。でも、やっぱりこれは創作のお話で、現実はそんなに上手くいかないよな……」


 僕は気が付かないうちに、三時間を掛けて新しく買ったラノベを読破していた。創作の世界に潜り込んでいると、時間のことなど忘れ去ってしまう。三時間が一瞬のように感じた。

 主人公のカッコ良さに感動し、完全にその世界に入り込んでいた。しかし、読み終わった瞬間に現実に引き戻されてしまい、空しさが押し寄せてくる。

 どれだけラノベの世界に入り込んでも、その主人公になることはできない。それが、どうしようもなく空しかった。


「僕にも特殊能力とか、魔法とか使えたらな。あんな奴ら、すぐに黙らせてやるのに……」


 そんな非現実が起こらないことはよくわかっている。それでも、少しくらい夢を見たっていいじゃないか。頭の中で妄想するだけなら僕の勝手だ。

 そう思いながら、放課後の男子生徒たちが高梨さんを襲っているところに、僕が割り込んで魔法を使って彼女を助け出すという設定で、僕は妄想を始めようとした。


「透、晩ごはんよ」


その母さんの声に、僕の妄想の全てが弾け飛んだ。

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