第26話:脱出
「はい。サバの味噌煮です」
そう言って梓が月玄の前においたのはサバの味噌煮と炊き立ての白米、お吸い物に簡単な煮物だった。
「梓って料理上手なんだね。ありがとう。いただきます」
「別にあなたの為に用意したわけじゃないですが、どうぞ」
梓と月玄が居るのは教会の隣にある大きな石造りの建物だった。本来は修道女が住んでいたか、孤児院だったのだろう。そこは今現在見事に改装されていて、二階建ての上に地下室がある、立派で堅牢な屋敷になっていた。そこの一室で机を向い合せながら二人は食事を取っていた。
「梓の手料理が食べれるなんて、僕幸せだなー」
「毎日、毎日、あんなこってりとしたフルコース出されても、胃がもたれて食べれないから自炊しただけです」
梓が此処に来て、早三日。料理や身の回りの世話はシロと呼ばれるあの男が操る使用人たちが行っていたのだが、毎日毎日出される料理はフランス料理のフルコースかと見間違うような豪勢な料理ばかり。
それが朝昼晩と三食出てくるのだ。食欲のあるなしにもかかわらず。
梓も最初は我慢していたのだが、三日目のこの日、胸焼けに胃もたれを併発しそうだった彼女の堪忍袋の緒はとうとう切れてしまった。使用人から食材と調理器具をもぎ取り、勝手に料理を始めたのが一時間前。
ムニエルになる筈だった鯖は味噌煮に、ホワイトソースと煮込まれる予定だった野菜は煮物。
焼いていたパンはちゃんと包装して冷凍庫へ、そのかわりにご飯を炊いて、お吸い物を作った。
「でも、僕の分まで作ってくれてうれしいよ。ありがとう」
「あなただって、普通に食事はするでしょ? ついでです」
「うん。いいね。家庭の味って感じだ」
お吸い物を一口すすって、彼はそう微笑む。こうして笑う姿はどこにでもいる普通の学生のようだなと、梓はそっと思った。
機嫌よく数口ご飯を食べた月玄が何かに気が付いて、あっと声を上げる。
「シロの分も作ってくれたんだ。ありがとう。でも、ごめんね。あいつ僕らとは食事をしないんだ」
「あなたの分を作って、あの銀髪男の分を作らないのもおかしな話だと思ったから作っただけなので、残してくれて大丈夫です。明日の私の昼ごはんになるだけなので」
彼の視線の先には鍋に残った一切れの鯖。
「一緒に食事をしようって何度も言ってるのに、あいつ聞いてくれないからなー。少し寂しくて。だから最近は、梓と一緒に食事出来て、僕は嬉しいよ」
「そう」
梓はにっこりとほほ笑む彼から視線を外す。これ以上慣れ合う気はないと態度に示したつもりだった。
そんな梓の神経を逆なでするように月玄は上機嫌で猫なで声を出す。
「あら? 今の言葉、僕がかわいそうにならなかった? 『一緒に食事してくれる人がいなかったんだー。かわいそうー』ってならなかった? 同情しなかった?」
「…しません。本当に心を痛めている人は自分でそんなこと言わないわ」
「なるほど。哲学だね」
「………」
馬鹿にされたような言葉に梓がむっとしていると、月玄は怒らないでと言うように微笑んだ。
「茶化してごめん。でも、本当に嬉しいって思ってるよ。ありがとう、梓」
「………」
「そう言えば君は普通の家庭で育ったんだよね」
「あなたは違うの?」
「連れ去られたのは君を身籠った方だけさ。僕の生みの親は青の奴らの手によって、秘密裏に違う研究所に移された。僕はそこで生まれて、そこで育ったよ。親に会った事もないし、家なんてない。僕が知っているのは白衣を着た研究者たちと無機質な部屋だけ。だから、
「…そう」
少し、声が詰まったように梓がそう返すと、さっきまで神妙な面持ちだった月玄の顔が一瞬で明るくなる。
「今度こそ僕に同情してくれた?」
「………。最低ね。あなた」
本当に少し同情した自分を梓は恥じる。苛々した様に月玄を睨むと、彼の飄々とした表情が目に付いた。
「何でもいいんだよ。同情でも、怒りでも、憎しみでも。そりゃあ、愛情に勝るものは無いけれど、君がそばに居てくれる為の感情ならなんだっていいんだ」
「ひねくれてる」
「そうかな? でも、君に嘘は一つも言ってないつもりだよ。僕はただ必死なだけ」
「死にたくないから?」
「うん。…そうだね」
その言葉を本当に歯切れが悪そうに月玄は呟く。そうではないのだろうか、と梓が少し逡巡したときだった。
大きく窓ガラスが割れる音。そして、その音と同時に室内が炎に染まった。その炎は梓と月玄を隔てる様に広がる。
「火炎瓶っ!? 仮にも吸血鬼だろっ!」
煙を吸うまいと袖口で口を押える月玄がそう怒鳴るように言う。それと同時に梓は腕を引かれた。悲鳴を上げる隙も無く、梓は腕を引いた人物の胸に引き寄せられていた。
「紅哉さんっ!?」
「…あまりしゃべるな、煙を吸うぞ」
紅哉がスッと腕を上げる。その腕の動きに連動するように炎は月玄を襲い、その体をあっという間に飲み込んだ。そして、もう一度ガラスの割れる音。それと同時に炎は倍に膨れ上がった。
「行くぞ」
その言葉と共に訪れる浮遊感。紅哉は梓を肩に抱きかかえ、窓から飛び出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます