水神の城

@mayukawaguchi

第1話 長野県立松本音和高校入学式

  信州の春は、遅い。四月になっても、空は冴え冴えとした冷気を含み、街を囲む山々の峰も、白い雪を頑なに戴いている。入学式の今日も、桜の蕾は硬く、未だ咲く気配を見せない。昭和初期に建てられた、桟瓦葺の古びた講堂では、父兄らが式服の上に着込んだコートの襟を立て、白い息を吐きながら、式の開始を辛抱強く待っていた。

 講堂後方には、吹奏楽部と室内楽部の二・三年生で構成された臨時オーケストラが、ひっそりと控えている。やがて、指揮者役の女生徒がタクトを取り上げ、合図する。演奏者達が、一斉に楽器を構えた。バッハのG線上のアリアが静かに始まり、新入生の入場が粛々と始まった。奇妙なのは、緊張した面持ちで講堂内へ次々と入ってくる新入生達の服装であった。彼らが着用している制服の種類はばらばらで、男子生徒のほとんどは黒の詰襟だが、そこにちらほらとブレザーにネクタイなど異なる種類が混じっている。女子の方は更に多種多様で、セーラー服があるかと思えば、紺のスーツに胸にはリボン、あるいはチェックのブレザーにスカートなど様々だった。

 彼らが着ているのは、それぞれの出身中学の制服であった。長野県の公立高校では、殆どが制服を定めず、服装は自由である。そのためであろうか、高校の入学式で、中学の制服を着用する慣例があった。

 新入生達は、講堂前列に用意された席に、順次、着いてゆく。在校生たちは、その後方に既に着席している。こちらは、めいめい好き勝手な私服姿である。


 「これより、平成二十六年度、長野県立松本音和高校の入学式を執り行います。」

進行役の教頭の声が、厳かに告げた。

「一同、起立。」

全員が立ち上がり、入学式が始まった。オーケストラの伴奏による国歌斉唱、学校長挨拶、来賓、及び、PTA会長の祝辞、新入生代表の挨拶、在校生代表(生徒会長)による歓迎の言葉、と式典は滞りなく進行していった。

 「続きまして、校歌斉唱。」

 異変が起こったのは、その時だった。マントをなびかせ、弊衣破帽の異様な風体をした数十名が、講堂内へ雪崩のごとく一斉に駆け込んできたのである。不意をうたれた新入生とその父兄は、驚きでざわめいた。しかし、在校生らは一向に平気である。中には、新入生達の動揺を楽しむかのように、にやにやと眺めている者もいる。

 いつのまにやら壇上には、むやみに背の高い人物が、腕を組んでのっそりと立っている。あり得ないほどの背が高いのは、およそ二十センチはあろうかという朴歯の高下駄を履いているからであった。絣の着物を肩までまくり、袴にマント、学生帽、白手袋をはめたその彼は、大音声でやおらこう呼ばわった。

 「松本ォーー、音和ァーー、高ーー校ーーー、校ーー歌ーー斉ーー唱ォーーー! アイン、ツバイ、ドライーーー!!!」

かくて、校歌斉唱が始まった。伴奏は、なし。歌詞と譜面は、あらかじめ配布された式次第に印刷されているものの、応援団長はしばしば楽譜の音程を無視し、ところどころで無闇と音を伸ばし、不可解で難解な節回しをつけ、うまいこと拍子を合わせられないその他大勢を五線譜の上で右往左往させた挙句、大混乱に陥れた。講堂にぐるりと陣取った他の応援団員らが、懸命に声を張り上げ頑張ったが、結局、かなりのグダグダ感は否めなかった。しかし、在校生らも一丸となって声を合わせ、あたう限りの力でもって、なんとか四番までの歌詞全てを果敢に歌い通した。

 長く伸びた声調が、歳月を経た埃っぽい講堂の天井に最後に響き渡り、やがて静かに消え去ると、団長は満足げに腕組みを解き、深々と一礼した。それを合図に、講堂内に散らばっていた団員たちは、マントを再び翻し、無言のまま、風のように走り去っていった。人々の中には、ようやくその時になって、応援団員に男装した女生徒らが数名混じっていることに気付いた者も多かった。彼女達は、頬を上気させ、それまでの真剣な面持ちとは打って変わって楽しげに、にこにこ笑いながら駆け去っていった。黒い詰襟の学生服にいかめしく身を包んでいるにもかかわらず、あるいは、却ってそれ故に、彼女らは一層、可憐に見えた。団員たちが全員、姿を消すのを見届けると、団長もまた悠然と退場していった。しかし、朴歯の高下駄は歩くにはあまりに不便であったのだろう、まず、自身が下駄から飛び降りて、両手に鼻緒をひとつづつぶら下げて、裸足のまま、しかし、あくまで威厳をもって、壇上を後にしたのであった。


 「びっくりしたわねぇ。」

まだ雪の残る校門の前で、待ち合わせていた母は雅弥の顔を見るなり、開口一番、そう言った。無論、式典最後での応援団乱入のことを言っているに違いなかった。

「ああいうのって、まだ残ってるのね。いわゆるバンカラってやつ? 北杜夫の『ドクトルマンボウ青春記』の時代みたい。知ってる?」

雅弥は、曖昧に首を振った。

「今度、読んで御覧なさい、面白いから。あ、パパはね、先に駐車場まで車を取りに行ってるから、少し向こうの道路の方に出て待っててって。」

入学式が終わり、学校周辺はひどく混雑していた。校門からぞろぞろと人々が溢れ出し、路肩には次々に迎えの車が停まり、バス停前には行列が出来ている。人混みの間を縫って、母子は歩き出した。

「提出書類、ちゃんと出せた? 全部揃ってた?」

「うん。」

「明日は、試験があるんでしょ? 課題、終わってるの?」

「一応。」

高校の合格発表の後、入学手続きのために登校すると、目を剥く量の課題を渡された。春休みの残りは、あらかたそれで潰れたことを雅弥は恨みがましく思い起こした。

「忙しいわねぇ。最初の週は、授業の後、何か歌の練習もするんでしょう?」 

「らしいね。」

他人事のように答えた彼は、この時、その「歌の練習」が、とんだ試練になろうとは、全く思い及ばなかった。

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