雪と鱗粉
伊豆 可未名
第1話 ゆうごはん
雲が流れる速度を強化ガラスの窓に嵌った黒くて細長い鉄線を利用して測っていた。同じく黒ずんだ雲のかけらが空の青を汚しているのを見つけて、ふと気付けば測定対象にしていた雲から何分間、目を離していたかわからなくなり、結果が出せなくなる。今度はあの雲にしよう、と思い、十秒間じっとその雲を見つめていたが、鳥の群れが近くの街路樹に集まり鳴き始めた音に驚いて気が散ってしまった。さあ、もう一度最初から、次はどの雲を選ぼうか、と思案しているうちに空は暗くなり、もう雲の動きを目視で確認するには難しい時間になっていた。
味噌汁の匂いがしている。台所から野菜を切ったり炒め物をしたりする音が聞こえる。時折か細い鼻歌も交じっている。舞は書きかけのメモに向かおうとしたが、やる気になれなくて座布団を枕にして寝ころんだ。
この部屋の天井には壁と同じ壁紙が貼ってあり、白い。ほんの少しだけ凹凸のある壁紙を撫でて、指の腹にざらざらした感触を確かめる。キッチンと一続きになっているリビングに置いてあるものは全てルームメイトの絵梨子が用意したものだ。統一感を言い訳に他人任せにしていると舞は口に出さない。家事もほとんど絵梨子に任せているのだが、それも絵梨子の好きなようにしてくれればいい、とは言うものの、本当はやりたくないから暗黙のうちに押し付けているだけだ。
炊飯器から音楽が鳴ったのを合図に舞は動き出す。絵梨子は時間配分を調節して米が炊けるのと同時に料理が全て出揃うように準備する。舞がこの家で引き受けている仕事は食事の時の食器を出してテーブルに並べること以外にない。旅行先で買ったという伝統工芸品の茶碗は絵梨子の、舞のは自宅から持ってきた黄色い花柄の子供用みたいな茶碗だ。いつもと決まった量だけ盛ってテーブルに並べる。肉野菜炒めとデザートのイチゴがキッチンで舞を待っている。
「今日の味噌汁の具はきのこ」
舞が料理を取りに来るとタイミングを見計らって絵梨子が言う。
「しめじ。最高ですね」
舞は伸びあがって鍋の中にわずかに黒々した笠が浮いて見えるのを確認した。絵梨子が盆に味噌汁の椀と箸を載せてテーブルに運ぶ。舞は先に椅子に座って待つ。湯気が立つ椀を差し出されて舞はそれを受け取り、テーブルのちょうどいいスペースに置く。椀を持った時、縁から椀の内側に突き出た親指が湯気に当たって熱い。絵梨子が先に手を合わせてから、舞も食べ始める。
絵梨子は作り立ての味噌汁も平気そうだ。舞は適度に冷めるまで放置する。
「いちごが安かったから沢山買ってきた」
絵梨子が言う。
「どのくらいあるんですか」
舞は自分の皿に盛られたイチゴを数える。
「二パック」
その返答に舞は声を大きくする。
「一人一パックですか。当分イチゴには困りませんね」
「食べたければ全部食べていいよ」
「お腹痛くなりますよ」
絵梨子が無言で自分の近くにあるいちごの皿を舞の方に寄せる。
「無理ですってば。自分の分だけで十分です」
「実は私もこんなにはいらないんだよね」
「何で買ってきたんですか」
「余ったらジャムにするよ」
「じゃあ多めに取っておきます」
「食べてよ」
舞は味噌汁の椀を口元に持っていき、息を吹きかけた。ちょっと啜って、まだ飲むには熱すぎたので椀を置く。
絵梨子がテーブルの端に追いやられた舞のメモを覗き見る。書き殴った汚い字は時々舞でも判読できない時がある。
「卒論、全く案が思い浮かびません」
「まだ半年もあるのに」
「ぐずぐず言っていたらあっという間ですよ」
「私なんか提出期限の最終日に完成して急いで提出したけどな」
「そういうスケジュールで動いたら、ミスした時に一巻の終わりです」
「自分の納得のいくものが書ければいい」
舞は意味もなく味噌汁に箸を突っ込んだ。沈んでいた味噌が混ざって揺れ動いた。箸を舐めただけでも熱い。
「そのつもりではあるんですけど」
絵梨子は食後にシャワーを軽く浴びただけで寝てしまった。明日の朝は早いそうだ。泊まり込みの出張だと言っていたが、荷物が用意されている痕跡がない。だが、舞の知ったことではない。
舞はすっかり暗くなった空を窓越しに見ていた。空の色は紺色に近かったけれど、強化ガラスの鉄線を見分けることはできなかった。飛行機から発せられる光だけがはっきりと見える。眼下には街灯と店の明かりが満ちていて昼間同様の明るさだった。舞は偶然上を見上げた通行人と目が合ったような気がして、カーテンを閉めて自室に戻った。
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