第3話
別室で濡れた服を着替えて戻ってくると、部屋はすっかり元通りになっていた。その後は上手く眠ることができず、夜明けと共に部屋を出た。あれは夢の中の出来事だったのだろうかと思案しながら、中庭に面した回廊へ向かう。ぼんやりと回廊の柱にもたれかかり、瞳を閉じて耳を澄ますと、聞き慣れた水音の代わりに父親の怒鳴り声が聞こえてきた。
「一晩で三人だぞ!」
柱から身を離して振り向いてみれば、領主ルシエンテスは屈強な庭師と兵士を使い、聖なる泉に土と岩とを投げ入れていた。
「許しては置けぬ!」
ルシエンテスは怒りに任せ、吐き捨てるようにそう怒鳴った。
「父上」
早朝の陽射しはまだ低く、建物に遮られて中庭へは届かない。ルシエンテスの表情を読み取ることはできなかった。
「いったい、何を……」
「見ての通り、聖なる泉を埋めておるのだ」
中庭へ降りてきたガスパールに、ルシエンテスは不機嫌な声で答えた。ガスパールには、父親の意図が理解できない。水の一族と戦うにしても、力ある魔術師の助力も得ぬうちに行動を起こすとは、あまりに性急過ぎる。
「聖なる泉は水の精霊達の祝福を受けた泉。今まで数多くの病を癒してきた泉ではありませんか。ましてこれは、城で使う水の全てをまかなっている泉。埋めてしまえば飲み水を得るのがどれほど困難なことか。それを埋めるなど……」
いらいらした調子のため息が、ガスパールの言葉を遮る。
「昨夜、一晩で三人の召使が溺れ死んだ。わしのこの城の、ベッドの中でだ。再び我らの領土を侵すとなれば、水の一族はもはや我らの敵。放置しては置けぬ」
肺の中に、氷の塊が落ち込んできたかのような衝撃だった。
「……溺れ……死んだ……?」
不意に、全身を包む水の、冷たい感触が甦る。悪寒に体が震え、呼吸が乱れる。目覚めた直後には感じられなかった恐怖がこみあげてきた。それは、今まで感じたことの無い、言い知れないほどの恐怖だった。
「水の一族は祝福に見返りを求める。我らが水の一族に服従することを奴らは求めておるのだ。だが我らは水界の王に仕えるものではない。なれば、祝福は捨て去り、水の一族と戦うしか道はない!」
父親の声が、酷く遠く聞こえた。
「なぜ埋めてしまわぬが良いと思うのだ? そなたの領民に害為す泉なのだろう?」
話を聞いた妖はそう言って、微かな苦笑を浮かべた。
ガスパールは飛沫が届かない程度に滝から離れた川べりに腰掛け、少し離れた川上に立つ妖を見やる。
「……あれは聖なる泉だ。昨夜の事件があの泉の引き起こしたことかどうかもわからぬうちに……埋めるなど……」
ガスパールは妖から視線を逸らし、再び現れては消える
「あの泉についてはそなたよりそなたの父の方がよく知っておられよう。聖なる泉はそなたの城と水界を結ぶ門だ。水の一族はあの泉を通してそなたの居城に力を振るうことができる。二年前の事件の顛末を見届けた者なれば、埋めてしまおうという考えはわからぬでもないが」
妖はため息をつき、こちらへ歩み寄った。
「三人、死んだのだな」
「ああ」
妖はガスパールの隣に腰を下ろす。清涼な空気が右の頬を撫でる。
「結局、助けられたのはそなただけか……」
「二年前の事件も、今回のような工事が原因だったのか?」
視線を上げて尋ねると、妖は水面を見つめたまま迷うように口を開き、また閉じた。
「今度のことも……水源から水を引き、川の流れを変える大規模な工事だ。川は荒れる。水の一族が怒ったとて、不思議はない」
「だが、それでそなたの領民は良い水を多く得ることが出来る」
妖は微かに苛立った調子で反論する。
「今そなたの荘園を流れる川では、農地を充分に潤すことはできておらぬのだろう。それに、今回の工事の主目的は川の氾濫を抑えることだ。川の流れを耕作地へ流れるように変え、堤防を作る。たとえ川があふれても、そこならば耕作地に肥沃な土をもたらし、人家を流すことはない。領民達の飲み水は水源から良い水を引いて賄う。そうなれば疫病も減るだろう。そのために水の一族と対立する道を選ぶなら、水の一族の呪いから民を守るも領主の役目。そなたの父の取った態度は、領主としては正しいものではないのか?」
早口でまくしたてる妖に、ガスパールは小さく目を見開いた。
「……随分と詳しいな」
口をついて出たのはごく素直な感想だった。だが、妖は突然言葉を切り、微かに瞳を細める。その表情は、何かを深く悔いているかのようだ。
「計画を立てた者に話を聞いた」
表情を曇らせたまま、妖は答えた。計画を立てた者が誰であるのかは、聞く気になれなかった。
「自分が何をなすべきなのか、そなたは私に言われずともわかっているのだろう」
「ああ。だが、私は」
視線をせせらぎへと落とす。穏やかな川音は滝の音に掻き消され、耳へは届かない。
「……思わずには、いられぬのだ。水の一族と共存できる道はないのだろうか。今まではそうして来られたのだから……」
「何故、水の一族にそこまで肩入れをする?」
声と共に、妖が身じろぎする気配を感じた。
「……お前こそ、何故そのようなことを訊く。私を試しているのか?」
顔を上げると、こちらを見据えている妖と視線がぶつかる。緑玉の瞳は、強くガスパールを捉える。たしなめるような表情とは裏腹に、どこか思いつめたような色の瞳だった。
「そなたは人を治める者。そして人に仕えるもの。水の一族を治める者ではなく、我らの王に仕える者でも、ない」
妖はため息をついて、さっきとは違った調子で微笑んだ。
「いずれ、そなたと争う日が来るのだろうかと思った。……それだけだ」
疲れたような笑みだった。ガスパールは、目の前にある微笑に、ふとその手を伸ばす。
「……昨夜、私を助けたのは何故だ?」
「そなたの生を望むが故に」
妖は静かな微笑を浮かべて答えた。
「溺れても良いと……思っていた」
ガスパールはささやくように言う。滝の音が、ガスパールの声をも掻き消さぬほど酷く遠く、けれど確かな存在感を持って響いていた。
「何故?」
緑色の瞳に引き込まれるように身を乗り出す。
「私はお前を愛している」
唇を重ねた。冷たいくちづけだった。
窓枠を伝って流れる雨は、たぎり落ちる滝を見慣れた目には貧弱に映る。
それでも雨の激しさは決して軽視できるものではなかった。雨は、王都から招かれた技師たちが到着した頃から降り続けている。
この調子では、明け方までに堤防が決壊するだろう。川の近くに住居を構えている領民は既に城内に避難しているが、家や畑が流されるのはどうしようもない。堤防の補修、住居の建て直し、流された畑をどうするのか。そのために必要な人材と資金。免除する税の額。
窓辺にたたずんだまま、ガスパールは考えた。
聖なる泉を埋めてしまったのだから、飲み水のことも考えなければならない。しばらくは川の水は濁って使い物にならないだろう。
「お兄様」
背後から呼びかけられて、ガスパールは窓辺から身を離した。
「何を考えていらっしゃったのですか?」
イサベルは明るい調子で尋ねかけてくる。
「川のことを」
答えて、ガスパールは振り向いた。
「この分では洪水になりますね。被害が少ないと良いのですけれど」
イサベルは窓ガラスに手をかけて目を細める。
「今度の工事が終われば、洪水による被害もずっと軽減されるようになりますわ」
イサベルは微笑して、ガスパールへと振り向いた。
「お兄様、もうすぐ、王都からいらっしゃった技師の方々、魔術師の方々を歓迎する宴が始まります。お父様がそろそろ広間へ来るようにと」
「そうか」
ガスパールは頷き、イサベルと並んで歩き始めた。
「今日は一日中、準備で大変だったのですよ。お客様を待つばかりの男の方々がうらやましくて……」
広間へと向かう道すがら、イサベルは際限なく他愛の無い事柄を話し続けた。これから始まる宴を思ってなのか、随分と落ち着きを失っている様子だ。常ならば華やかな行事にはあまり興味を示さない妹のその様子に、ガスパールは微かな違和感を感じた。
広間には既にいくらかの料理と酒が運び込まれ、人々は思い思いに談笑していた。
宵からの急な雨で、にわかに中庭が使えなくなったため、広間の混雑は予想以上だった。広間は半ばから豪奢な幕で仕切られ、その向こう側では近習や兵士たちがさざめき、幕のこちら側には、今回の工事に参加する近隣の領主と、その一族に連なるのだろう着飾った貴婦人たちが行き来している。色とりどりの豪華な衣装は、人いきれや湿気ともあいまって、毒のある花々が咲き乱れているようだ。
入り口に程近い一角では、水の一族と一戦交えようと王都からやってきた陽気な騎士たちが、談笑しながらも警備を固めていた。探せば知った顔もあるかもしれない。
一通りの挨拶を終えたガスパールは、しかし知り合いを探す気分にもなれず、人目を忍ぶようにバルコニーへと出た。
バルコニーからは中庭を見下ろすことができる。よく手入れされた植物や芝草も今は雨に降りこめられ、薄闇の中におぼろな輪郭を浮かび上がらせているのみだ。聖なる泉の周囲だけは、つい先ごろかぶせられた土がむき出しになっていて、どことなく痛々しい。その風景を眺めやり、ガスパールは深くため息をついた。
荘園の人口は増え続け、そこを潤す川の水質は悪化し続けている。聖なる泉が埋められなかったとしても、いつかどこかで手を打たねばならないのだ。――それでも。
それでも、水の一族と争いたくはなかった。
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