第39話 リュカの問い

 狩場から抜け出したリュカとカーリーは、内火艇でスターゲートを越えてヴェローナの浮かぶ宙域までたどり着き、そこで船を捨てた。今はもう使われていない宇宙港の一区画までガランサスと共に入り込んだものの、警備隊に見つかるのは時間の問題である。

 ヴェローナは未曽有の混乱に陥っていたが、官僚機構だけはマニュアル通りの運用を続け、ともかくも総督不在の状態をカバーしている。戒厳令や緘口令を敷き、回収されたカタフラクトのレコーダーを頼りに犯人であるエドガー・ドートリッシュを血眼になって探していた。

 そうした情報は全てガランサスのセンサーによって把握出来ている。しかし、肝心のガランサスはオーバーヒートによってスラスターの半数を停止させており、関節部や各部のマニピュレーターにも様々な異常が発生していた。武装に至っては、携帯式のものはすべて失っているという有様だ。オーバーホールでもしなければならない状態であるが、設備も時間も体力も、今のリュカには残されていなかった。

 それ以上に、最早生き延びようという意志がリュカからは欠落していた。カーリーもそれを咎めない。彼が死ぬというのなら、自分も未練は無いので一緒に逝くつもりでいる。

 ガランサスから転がり落ちるようにして出てきた二人は、何をするでもなく無重力に身を任せて、無気力に空間を漂っていた。周囲には昇降機やクレーンといった装置が配されているが、ほとんどが錆びていて動きそうにない。ハッチの一部は強化ガラスで作られていて、巡視艇やクルスタが何度も通り過ぎて行った。

両目を抉られたガランサスの顔を見上げながら、リュカはグラディスの言葉を思い出した。

 戻れる場所がある奴は幸せだ、とグラディスは言った。だが、リュカには自分に戻るべき場所があるなどとは到底思えなかった。彼に故郷は無いのである。生まれた時から世界とのつながりを無視された存在、リュカという名前だけしか持たない男。ルーツから自由である反面、孤独でもあった。それはカーリーも同じである。

 まるで世界の淵に立っているかのような気分だった。まだ地球が平だと思われていた時代、海の果ては巨大な滝になっていると思われていた。船乗りはそこから先へは一歩も進めない。無理に足を踏み入れたなら、海水と共に無限の奈落へと落ち込んでしまう。リュカは今、精神の小岩の上に立って、深淵を覗きこんでいるのだ。

 これまで自分を突き動かしてきたもの、様々な言葉が流れ落ちていくが、それらに手を伸ばして引き留めようとは思わなかった。消えるなら消えれば良い、どうせ本当に大切なものではなかったのだから。仲間を無惨に殺され、岩と氷の牢獄の中で飢餓と渇水に苦しめられたことは確かに恨めしい。しかし、それだけが全てではなかった。

 リュカは世界の淵に立っている。復讐という一つの物語を駆け抜けた末に至った場所であり、目の前には無窮の、星の瞬かない夜が広がっている。夜という、一つの怪物が待ち構えているのだ。問いかけても答えず、掴もうにも触れられない。いかなる体臭も纏わず、目を開いていても閉じていても同様にあり続ける。夜という無言の怪物が呼び覚ますのは、まさにそれと相対しているリュカ本人である。何も無い場所に置かれることで、その何もないということを自覚している自分と否応なく対面させられるのだ。

「カーリー」

「何?」

「我思う、故に我ありと言ったのは、誰だったかな」

「デカルトだね」

「今、まさにそんな気分だな……いや、違う! 多分解釈を間違えてるな。糞っ、言葉にすると何もかも思い通りにならない。自分の言うことが全部嘘みたいだ」

「……そういうもどかしさってあるよね。分かるよ。だから私は小説なんかを書いて、退屈を埋めることが出来なかった。どうせ、自分の本当に思っていることを表現出来る文章なんて書けるわけがないからね。言葉を使っている限り、どこかで絶対頭打ちさ。それで、一体何で迷っているの?」

「それが言葉に出来ない。だから困っている。大体、俺の頭は文章を作ったり、言葉を捻りだしたりという方向に出来ちゃいないんだ。図面でも引いているほうがよっぽど性に合っている……まあ、言っても仕方が無いな。無理やり言葉にするとしたら、俺は本当に復讐なんてしたかったのか。もしそうでないとすれば、本当は何がしたかったのか。そんなところだな」

 リュカがそういうと、カーリーはくすくすと笑い声を上げた。何が可笑しいと若干苛立ちながら尋ねると、即座にカーリーは答えた。

「私さ、そういう命題の絵を持ってたんだけど、観なかったの?」

「何のことだ?」

「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか。ゴーギャンの絵だよ。その様子だと、本当に観なかったか、素通りしたんだね。勿体ない」

「生憎、絵画とか音楽とかには興味が無くてな」

「完璧な紳士、エドガー・ドートリッシュだった男の台詞とは思えないね。知識に潤いの無い男は退屈だよ」

「なるほど、それが俺の正体の一特徴というわけだ」

 カーリーの皮肉を受け流したのではなく、一つの事実としてリュカは受け止めていた。自分が本質的には退屈な人間であるという自覚はある。能動的に何かをしようという意志を失えば、外界に対して手を伸ばさなくなってしまう。引っ込められた手を一体誰が握ってくれるというのか。

「カーリー」

「何?」

「お前は一体何者だ? 何故この世界に存在している?」

 その問いかけは、実際にはリュカ自身に向けての問いであり、カーリーも気付いていたため簡単に返された。

「それを私が答えられたとして、その回答をそのまま君に当てはめることは出来ないよ。これは個人々々の問題なんだ。答えは自分で探すしかない」

「……それは、お前が貴種だからこそ言えることじゃないのか?」

「何だって?」

「お前たち貴種には生きる理由が最初から担保されている。そのための宗教だってあるしな。自分が何のために生きているかという答えが用意されているじゃないか」

 カーリーはリュカを蹴りつけた。だが、足は空を切り、慣性に振り回されてくるくるとその場を回転する。リュカが彼女の手を掴んで引き寄せるが、カーリーはリュカの顔に向かって唾を吐いた。

「馬鹿にするな! 私が、そんなお気楽な生き方の出来る人間に見えるのか!? 私が五百年間、どんな想いで過ごしてきたか知りもしないくせに!」

「知るわけがないだろ。そう言ったのはお前だ」

 リュカに対してかつてないほどの激情を向けるカーリーと、虚脱し切った表情で挑発するリュカ。だが、二人の間で舌戦が起きることは無かった。間に割って入る者が現れたからだ。

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