第23話 カイルの涙
カイルが目を覚ますと、青い双眸が彼を見下ろしていた。その表情を読み取り、彼は言った。
「心配してくれたのか?」
「……ばか」
カイルは笑って見せようとしたが、痺れのため微妙に引きつってしまった。「痛む?」とすかさずマヤが言った。
「いや、ちょっと痺れているだけだから……」
頭を枕に預け、あらためてカイルは自分の寝かされている部屋の様子を確認した。間取りは彼の部屋と同じだが、手鏡やドライヤー、枕元に積まれた小説等、私物は全てマヤのものだった。枕やシーツにも洗髪剤と汗の入り混じった芳香が染みついている。カイルは腕の痺れを押し殺して、少しだけ毛布を引き上げた。
「ここ、マヤの部屋か」
「わたしの鍵しか出してもらえなかったから」
「そっか」
「ねえ」
「何だよ」
「…………」
椅子に腰かけているマヤは、左手で右腕の肘をささえ、頬に手を添えながら彼の顔をじっと見下ろしていた。
「ばかね」
「お前な……」
「だってそうじゃない。昨日の今日であれだもの。絶対に騒ぐなって言われていたのに、よりにもよって総督に噛みつくなんて、ばかとしか言いようがないわ」
「そういや、そんなことしたんだっけな」
カイルは自分が気絶させられる直前までの記憶を復元させた。サヴァス・ダウラント総督の秘密の談話室、動物の剥製に混じって掲げられた人体剥製、総督との会話……ドミナとセルヴィが別の属に類する生物という認識に立って説かれたそれは、カイルにとって到底容認出来るものではなかった。
別の生き物であるならば、意思や感情を無視しても構わない……そんな言説を認めるわけにはいかない。たとえスペルの有無という差異があれど、身体的な差異があれど、それが一体何になるというのか。
人は人だろうに。
肥大化したエゴイズムは人間を傲慢にする。傲慢さは対話と協調を捨てさせ、無理解と不和を連れてくる。だからこそ、過剰なエゴというものは人生のどこかで切り取られなければならないのだ。親が、友人が、社会がそれをしなければならない。ましてやEHSという国家が個人のエゴを煽っているようでは言語道断と言うほかない。
だが、サヴァス・ダウラントはそれが正しいと思っている。西部宇宙、すなわち既知銀河の四分の一を治める男がそのような認識を持っているのだ。カイルは、まるで自分の夢までもが一蹴されたかのように感じた。そして自分は迫害されても拳を振り上げようとしない臆病者であると断ぜられた。それはそれで、悔しい。
だが何よりも悲しいのは、あまりに多くの人間が踏みつけにされて潰されていっているという事実だ。踏みつけられる頭が、踏みつけようとする踵よりも悪いということは無い。強者は何をしても許されるというのは、卑劣な自己正当化に過ぎないとカイルは思う。しかし、その歪みを明確に非難する言葉がカイルには無かった。頭の中で概念は構築出来ても、怒りと困惑とに惑わされて、或は彼自身の語彙の貧困さ故に、口で言い表すことが出来ない。
だからカイルは、マヤと反対の方向に寝返りを打ってから、目を閉じてそっと涙を流した。
「カイル」
「また馬鹿って言うつもりか?」
「ありがとう」
「…………」
彼女の言葉は単純だが、優しい響きを伴っていた。深い悲しみを負っている分、カイルに対する親しみと感謝の念は厚い。カイルは、最早彼女の中に自分に対する不信が存在しないことを悟ったが、あえて感情を表に出さず、もう一度寝返りを打って彼女の顔を直視した。
「俺が何かした?」
「わたしたちのために怒ってくれたわ」
「そんなことくらいで、感謝される謂れはないよ」
「いいえ。わたしたちには……わたしには、それが嬉しかったの」
マヤの胸中は透き通っていた。カイルの率直なまでの怒りを目の当たりにして、彼女もまた、感情を素直に表す方法を思い出していた。
「あなたがああ言ってくれて、本当に嬉しかった。わたしたちは、誰にも知られずに生まれて死んでいくことが運命だったから……誰も同情なんてしてくれない、ましてやドミナに対して怒ったりしないもの」
微笑む彼女を見つめ、カイルはふと沸き起こった疑問を口にした。
「マヤ、お前もその……クローンなのか?」
マヤは首を横に振った。
「わたしの場合は少し違うの。狩りの獲物役というのは変わらないけど……わたしは南部宇宙で、神事としての狩りのために作られた特別製。所謂デザインチャイルド、ね」
少女の青い瞳をじっと見つめながら、この目の色も作り物なのか、とカイルは思った。左手を伸ばして彼女の手に触れる。一瞬、びくりと手が跳ね上がったが、彼の掌の下でゆっくりと力が抜けていくのが分かった。彼女の手は流れる血潮さえ感じられそうなほど華奢で、肌は絹のようにしっとりとしている。
「わたしの目も、手も、唇も……不自然でしょう?」
彼女にどこか浮世離れした美しさが備わっていることは、出会った瞬間から感じ続けていたことだった。だから、彼女がデザインチャイルドであるという事実自体は簡単に受け入れられる。
だが、そんなことは全くどうでも良い。カイルにとっては、手と手を伝わる温もりだけが全てだった。作り物、それが一体何だと言うのか。
「俺は好きだよ」
「……ふふっ」
マヤははにかみながら声を漏らし、かすかに頭を垂れた。彼女にはカイルの言葉が冗談のように思えたが、冗談として処理するにはいささか気恥かしく、かつ、心をくすぐるものがあった。
「わたしにも、おだてられて喜ぶくらいの俗っぽさはあったのね」
「嘘じゃない」
「騙されないわ。カイルってふざけてるもの。そう言ってからかっているんでしょう?」
「からかってなんかいないさ。本当に……綺麗な目や手をしてるじゃないか。胸を張って自慢してもいいのに、わざわざ謙遜するなんて、勿体ないのを通り越して嫌味っぽいよ」
「……そうなの?」
「そうだよ!」
多少語気を強めて肯定すると、またも彼女はうなだれた。髪の間からのぞいている耳は先端まで真っ赤に染まっていた。本当に、喋らなくても感情が出てしまう女の子だな、とカイルは思った。
身体が痺れていて良かった。でなければ、状況を言い訳にして彼女を抱き締めていたかもしれない。その後、さらに自制を利かせられるだけの自信は、カイルには無かった。
マヤは立ち上がり、冷蔵庫から冷えたポッドを取り出して二人分の紅茶を注いだ。なんとか身体を起き上がらせたカイルに一つ手渡し、彼女も一口飲んだ。それでも顔の火照りは収まらず、俯いたままコップの表面に浮かんだ水滴を何度も指で拭った。
「……困らせないでよ」
「そういうつもりはないんだけどな。ただ、困り顔を見るのも楽しいよ」
「それが本音でしょ!」
マヤは寝台の脚を何度も蹴りつけた。揺れが来るたびにカイルは笑い、マヤはますます顔を赤くする。
「恥かしがったり怒ったり、忙しいな」
「誰のせいだと思ってるの」
「それでいいだろ? 作り物が、マヤみたいな顔をするのか?」
「…………」
「もっと素直になっても良いんじゃないのか。恥かしがったり、怒ったり……それが、マヤ自身のあかしになるんだ。それは、全然悪いことじゃないよ」
「……そう」
マヤは微笑を浮かべ、だがやはり困惑したままもじもじと指先を動かしていた。カイルはそんな彼女の表情を見つめたまま、しばらくこの愛らしい困り顔を鑑賞することにした。
一時間後にリュカに呼び出されるまで、その空気は続いた。
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