第20話 歪み
リュカが帰った後、サヴァスは緑の応接室に残り、一人酒杯を傾けていた。
エルピスが入って来た。
「グラディスはどうしたんだ? 来るように言っておいたはずだが」
「具合が悪くなった、と言っておりましたわ」
奴め、と言いサヴァスは笑った。
「あの男が病床に伏すようなことがあれば、ヴェローナ中の病院が満員になっているだろうさ。まあ、いい」
濃いウィスキーの入ったグラスがテーブルに置かれると、氷の転がる涼やかな音が聞こえた。エルピスはその音を頼りにサヴァスのすぐそばへと歩み寄った。
「どこかお具合でも? まだ夕方なのにお酒を飲まれるなんて」
「いや、楽しかったさ。彼の話に嘘はないだろう。特に、東部宇宙の巡礼者団の話は面白かったな。お前も聞いていただろう?」
「ええ。祈りと航路開発に一生涯をかける人々がいる、というお話でしたね」
「そういう尋常離れした人々がこの世に存在すると思うと、かえって自分自身のことを省みてしまうんだ。私は、こんな風に生きてきて良かったのか、これが正しい生き方だったのか、とね」
「サヴァス様……」
彼は立ち上がり、エルピスの腰を抱き寄せた。バニラの香りが立ち上ってくる。壁に掲げられた剥製を見ながらサヴァスは呟いた。
「五十を越えるまで、自分の生き方が正しいと思い続けてきた。地位を極めることこそ男の本懐、一切の欲望をはばからないことが強者の証であるとね。そんな生き方を俗物的と呼ぶ連中は、吠えるしかない負け犬と切り捨てた。実際、楽しかったことは確かだし、私を俗物と罵った連中は皆敗者だった。闘争の場で存分に力を振るい、敵を打ち倒し、己の優位性を見せるつけることは大いなる快楽を与えてくれた」
だがね、とサヴァスは続ける。抱き寄せたエルピスの瞳は相変わらず閉じられているが、視線は感じるようだった。
「それが唯一絶対の快楽ではない、とも思い始めたのだ。お前に出会ってからは……」
老い故に覇気を失ってしまったと言われれば、否定しきれないかもしれない。まだまだ働くだけの体力は残っているが、人より苛烈な半生を送ってきた分、精神の摩耗も著しかった。エルピスと出会うまではそのことにすら気付かず、言葉なり腕力なりで暴力を振るうこともあった。その矛先がセルヴィだけでなくドミナに及ぶこともあったし、今では仕事でやっている狩りを彼自身楽しんでやっていた。
だが、力を振るうことで得られる対価には限度があったのだ。それで完全に満たされることなどありえない。若いころの自分に言ったら、笑うどころか激怒するだろうが、結局いつもサヴァスが求めていたのは自分と他者との正常な関係性の構築だったのだ。家庭と言い換えても良いだろう。
無論、地位を求める生き方を否定するつもりはない。生まれたからには己が志した高みを目指す。たとえスペルを使うことがなくとも、それがドミナらしい生き方であるとサヴァスは考えていた。そして、その苛烈な生き方が許されるのは若者だけだ。
「エドガー・ドートリッシュは間違っていない。野心に身を任せるのは若者の特権だ。ただね、これは完全に私の身勝手なのだが……一人くらい、俗世のことから離れて、真にドミナらしい生き方をする若者がいてくれても良かったのではないか、という期待があったのさ。彼ならその期待に応えてくれるかもしれないとね」
「でも、優れた能力を持った方ほど、俗世で力を振るいたいと思われますわ」
「その通りだ……エルピス、それは私のことかね?」
「おだてるつもりはありません」
「はは、お前からそう言ってもらえると嬉しいな」
朗らかに笑うサヴァスの胸に、エルピスは頭を押し付けた。その顔が微かに憂いを覗かせていることなど、彼には知る由も無かった。
「静かな生活がお望みなら、なぜ次の選挙に立候補なさるのです?」
「この三年間で、私の周りにずいぶん余計な連中を引っ付けてしまった。今私が引退すれば、好機とばかりに連中がヴェローナを牛耳ってしまうだろう。それでは私がこれまでやってきた政策のみならず、後進の者たちにも手間をかけさせることになる。老人の力を利用してここまで登り詰めた私としては、その後始末を次の任期の内に済ませなければならない。エルピス、すまないがもうしばらく情婦の呼び名に甘んじてくれ」
「それは覚悟しております。事実ですもの」
「違う、お前は私の妻だ。お前が情婦と呼ばれる時、私が胸の内でどれほど……」
いや、いい。ため込んだ息と一緒に、サヴァスは言葉を吐き出した。エルピスもそれ以上何も言えなかった。
この三年間で、ヴェローナの貴族社会はわずかに、だが確実に変化していた。ドゥクスへの年金が削減され、入港税のレートが引き上げられた。そうして発生した財源を病院や学校に充てることで、ルジェ階級やベラートル階級の生活向上が図られている。特にスターストリームの管理状態は特筆すべきものがあり、商船の事故が減る一方で海賊の検挙率は大幅に向上していた。そのせいで不正規航路の警備が疎かになっていると言われるほどだ。
サヴァス・ダウラントは政治家として優れた手腕と理想を持っていた。いや、持つようになったと言うべきだと、彼自身自覚している。自分の傍らにいるこの女性がベラートルでなければ、ドゥクスであれば、すぐにでも妻として迎えていたことだろう。だが、政界の中で戦い続ける以上、動きすぎるわけにはいかなかった。彼女を情婦の立場に置き続けることは心苦しかったが、様々な拘束のなかにあっては耐えるほかなかった。
エルピスは彼の心や考えが見えていた。本質的には善人でありながら、様々な理由で歪んでしまった人なのだということも分かる。彼の政策は、ドミナに対しては先進的であったが、セルヴィに対するそれは従来のものと全く変わらない。つまり、そういうことなのだ。どこまでも格差の図式に囚われ続けているこの男が、エルピスには不憫で堪らなかった。
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