神様は働きたくない。だから私が働かせます!
ちゐ
プロローグ
第1話 思い出は輝いて(1)
小学校二年生の頃、私は神様に出会った。
夕日に照らされ、歩く人々の影が細く長く地に伸びる頃。
住宅街を下校途中だった千代は、背後から駆けてきた二人の男子生徒に思い切りランドセルを殴られた。
「ぐず! のろま!」
そう叫ぶと、彼らはさっさと逃げていってしまう。
かろうじて、つんのめっただけで済んだ千代は、ランドセルを背負い直すと、俯いて再び歩き出した。長い前髪が垂れて、目元を隠す。
千代は怒っていた。
怒っていたけれど追わない。正確には追えない。追いつかない。
彼女のあだ名は『とろ子』と言った。
とにかくかけ足が遅いのだ。
小学校に入学して二年目になるが、秋の運動会は半年も前から憂鬱な行事だった。
代表リレー選手になんてもちろん選ばれないし、足を引っ張ると言う理由でチームメイトからも邪険にされる。先ほどのように馬鹿にされるのも日常茶飯事。
ーーーだから願ったのだ。
一度で良い。運動会のかけっこで一番になりたい、と。
「まずは縄跳び百回からだね」
前方から声がして、千代はハッと顔を上げた。
魔法のように忽然と、その人は千代の前に現れた。
ざんばらの黒髪に、幼さの残る二重の目。目の下には少しクマができていた。
背は一七〇センチくらいはあるだろうか、少々不健康そうな中肉中背の青年だ。
服装はこれから銭湯にでも行くおじいちゃんのような着流しで、足には雪駄を履いている。
びっくりして動けない千代に、彼はぽりぽり頭をかいた。
「君、神社でお参りしたでしょう。僕は蘇芳(すおう)です。君の願いを叶えにきました」
スオウ、と千代は呟いて、みるみる目を見開いた。
蘇芳。
ここカミナシ市の氏神様だ。
「それでねぇ、僕なりに調べてみたんだけど……速く走るのには、跳ねることと、前へ踏み出すことと、地面を強く蹴ることが大切みたい」
「みたいって……神様なのに、しらないの」
思わず口を開いた千代に、蘇芳は顔の前で手を振った。
「僕は全知全能の神じゃありません。しがないカミナシ市の神様です。だから本で調べたの。本は偉大でしょう、千代ちゃん」
千代は目をぱちくりさせた。
神様と言えば、指先一つで願いを叶えてくれるものだと思っていたのだ。
……彼は千代の予想を遙かに裏切って、アナログだった。
放課後の決まった時間に現れては、縄跳びだとか、走り込みだとか、食事にまで指示を出す。初めこそ千代の母親は蘇芳に恐縮していたが、口出しされる回数が増えると段々対応がおざなりになる始末だった。
千代は指示されるまま、夕日が地平線に沈むまで、土手沿いの道でスクワットやうさぎ跳びなどの訓練を続けた。
「あら、神様。ご苦労さまです。運動会の練習? がんばってね」
通りすがりの人に応援されながら特訓は続き、あっと言う間に半年の月日が流れた。
運動会当日は、切ってまといたくなるような青空だった。
まだ、夏の暑さの残る気温で、運動場の外周にはカラフルなパラソルが並び、大人たちが手にウチワを持って、始まりを待っている。
教員の指示に従って日陰に自分の椅子を運び終わった千代を、蘇芳がこっそり呼んだ。
「よし、じゃぁ、頑張った君にまじないをかけてあげよう」
千代と視線を合わせるように中腰になった蘇芳は、そう言った。千代は目を輝かせた。
「一番になれるおまじない?」
「いいや。全力を出し切れるおまじない」
「そんなのいらないよ。どうして『一番になれるおまじない』をしてくれないの?」
「そんな高等なまじないはできません。僕はしがないカミナシ市の神様だから」
千代はがっかりした。
特訓が始まってしばらくして、確かに千代は自分はかけっこが速くなったと思った。でもそれは気のせいだった。
体育で、かけっこや鬼ごっこをした時、速さは以前と変わらなかったのだ。ビリだったし、すぐ鬼になって、鬼のままゲームが終わる。
胸が苦しくて、足がもつれて、うまく走れない。
だから全力を出し切ったって、一番になんてなれるはずがない。
目に涙が滲んだ。
どうしても一番になりたい。そうでなければ来年も再来年も馬鹿にされる。
「君は十分やってきた。自信を持って」
そんなの絶対に無理だ。
やっぱりとろ子はとろ子のまま……どんなに練習したって、一等賞なんてとれないのだ。
どうして、神様は最後の最後でいじわるをするんだろう。
一緒に頑張ってきたと思ったのは、千代の勘違いだったのだろうか。
千代はがっかりしたまま、本番を迎えた。
目の前が暗い。
全身から力が抜ける。諦めの気持ちがすでに芽生えていた。
スターターの教員が耳に手を当て、ピストルを天へ突き上げる。
「位置について。用意――」
ゴールが遠い。笑い声が聞こえる気がした。がっかりする声も。
パンッ
ーーースタートの合図が鳴ると、不思議なことが起こった。
胸が苦しくない。
いつものように足がもつれたりしない。息が苦しくない。身体が軽い。
背中に羽がついたように、身体が前へ前へぐんぐん進む。
千代は腕を振って、地を思い切り蹴った。
楽しい。
それは初めての感覚だった。
一切の音が消える。
走れる。走れる。走れる――
突如、ワッと割れるような歓声が上がった。
気がつくと、千代は白いテープを切っていた。
「白組、ぶっちぎりの一等賞です!」
放送委員の生徒が声をあげる。と、紅組からはブーイング、自チームからは歓声が沸いた。
競争を終えて整列していた子たちが、千代に集まってくる。
ある人は驚いて、ある人は笑って、ある人は悔しそうに。
千代は、初めて向けられる同級生たちの眼差しに、顔を真っ赤にして頷くばかりだった。
勝負が終わって観客席に戻った時、蘇芳の姿はどこにもなかった。
だから、会が終わるとすぐに千代は体操着のまま町外れの神社へ向かった。
二百段ほどの階段を駆け上がると、鳥居が見えてくる。カミナシ市の全貌を背に、千代は一礼して鳥居を潜ると、社殿へ向かってダッシュした。
「ありがとう、神様」
社の前で、カランカランと鈴を鳴らして手を合わせる。
神社全体を覆う森の梢が、千代に応えるようにざわめいた。千代は目を硬く瞑り、長い間、頭を下げていた。
呼んでも、蘇芳が現れることは無かった。神様とはそういうものなのだろう。
暫くはとろ子の名前も返上だ。いや、永遠に。
千代は誓った。
もう、俯いて歩いたりしない。
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