第2話 鋼鉄の突っ張り

 この巡業観戦以後、彼の中では相撲ブームが巻き起こった。


 とは言え、無邪気な少年のことなので、彼の相撲への熱意は技術的な探求や知識的な模索という形は取らなかった。表立って現れたのは、例えばパンツを尻に食い込ませて家の中を歩き回る、また割りで苦痛に顔をゆがませる、神棚を買ってくれと親にせがむといった、可愛げのある行動である。


 中でも彼の行いで一番目立っていたのは、りであろう。


――相手の喉元のどもと、あの喉仏のどぼとけの少し上くらいに、より速く、より正確に、おのれの右手を差し入れる。そして手の平の付け根、一番硬い掌底しょうていで、相手のおとがいをぶち上げる・・・


 彼はこの動作を脳内でシュミレートしながら、日々鍛錬たんれんに明け暮れていたのである。


 鍛錬とは言え、初めは自宅とこの柱を目掛けて、蹲踞そんきょの状態から張りをかますといった程度のものだった。しかし熱中するあまり、次第に彼はこの行動を他の場所でもとるようになっていく。学校の友達相手はもちろん、路上の電柱や、ショッピングモールの柱など、手頃な棒状の物体を見つければ、彼はところ構わず、半ば無意識に突っ張りをぶちかました。


 まことに迷惑極まりない話である。もっとも相撲熱にほてる彼には、他人の迷惑を考えるような余地はなかった。


 さすがの彼も、人体相手の時は手加減を加えていた。これとて相手の迷惑を考慮してと言うより、自分の磨き上げられた張りをかましてしまうと相手の体を破壊してしまうとの誇大妄想こだいもうそうによる自制だった。


 このような狂った日常が許される道理など、たとえそれが少年の場合であれ、ないのである。


 たまたま妹相手に練習していた時、彼は誤って彼女のほほに手を当てて泣かせてしまうことがあった。予々かねがね彼の突っ張りによる家の振動に、また場所を問わない無作法に手を焼いていた母親は、この出来事をキッカケに突っ張り禁止を言いつけた。


「静かにやるから」

「家が壊れる。やるんなら外でやりなさい。でも他の人がいるとこでやるのはダメだからね」

「何で」

「邪魔になるでしょうが。それに当たったらどうする。警察に連れてかれるよ」

「じゃあ、もうする場所ないが」

「やりたかったら、そこの門の柱相手にでもやれば」


 素直な彼は、母に言われた通り、門柱もんちゅう相手に突っ張りをかまそうとした。が、かませなかった。と言うのも、門柱はその表面がサザエの貝殻のようにジャリジャリに加工されていたからである。手の平を軽く押し付けるだけで、そのジャリジャリは少年の柔肌やわはだに深く食い込んだ。


 彼は怖気づき、初めはゆっくり、そっと、右の手のひらをぺちっと門柱に打ちつけた。そして手の平を確認した。特に血が出たりしていないのを見て安心すると、今度はもう少し強く手を張った。


 そうこうするうちに段々加減も分かり始め、それからと言うもの、彼は黙々と独り門柱相手に鍛錬を積むようになっていった。決してやりやすい相手ではなかった。が、無言で受け止めてくれる門柱は、彼にとって頼もしい存在だった。かけがえのない友達のような気持ちすら、彼は抱いていたのである。


 とは言え、このような奇行を、近隣住民が見逃してくれるはずはなかった。近所の人は母親に「息子さんあそこで何かやってるね」と、暗に彼の奇行のことをほのめかした。母親も自分からあそこでやれと言った手前、やめろとは言い得ず、そのうち飽きるだろうと期待しつつ、近所の人には「あの子アホだから」などと笑って誤魔化していたのである。


 彼からすればそんなことは知るよしもなかった。彼はゲームに飽きた時など、ふと思い立つや「稽古してこよ」と言って玄関から飛び出し、変わらず鍛錬を続けていた。いや、この門柱相手の練習によって、彼の中には新たな野望すら生じていた。


――このジャリジャリ相手にかまし続けていれば、そのうち俺の皮膚は分厚く、そして固くなるに違いない、そうなればもう俺は歩く凶器である。もしかするとまともな生活は送れなくなるかもしれない。しかし何を躊躇ためらう必要があろうか。是非とも鋼鉄の突っ張りを、手に入れてやろうじゃないか・・・


 このように苦難にもめげず、彼は勇んで門柱に突っ張りをかましていた。が、ひょんなことでこの振る舞いは途切れることになる。


 同じように突っ張りの練習をしていた時のことである。そこに近所のばばあが近づいてきて、「相撲頑張ってるらしいね」と彼にお菓子を手渡した。挙動を止め、うやうやしく受け取った彼ではあったが、近所のばばあに知られていたとの認識は、彼の意識にただならぬ影響を及ぼし始める。


 それまで彼は決して他人から見られることを意識していなかった。何よりそれをき消すくらいの情熱があった。情熱は今もないわけではなかった。が、あのようにはっきりと見られていたことを告げられたのは初めてだった。いくら少年とは言え、彼とて自意識がないわけではなかった。ババアのひと言で、この自意識のスイッチが入り、彼は自らの行動を何となく気恥ずかしく感じ始めた。


 この出来事できごと以後も、しばらく鍛錬は継続していた。もっとも誰も居なさそうな時を確認してなど、彼の行動には明らかな変化が生じていた。またこうした変化とあいまって、門柱に向かう頻度は減り続けた。そして到頭とうとう、突っ張りの鍛錬は途絶えた。

 

 さらにほとんど時を同じくして、相撲への関心自体も一緒にしぼんでいった。彼の中からは相撲ブームも過ぎ去ったのである。


 しかし相撲が彼の中に何も残さなかったわけではない。この経験は彼の心の中で相撲最強説として結晶していた。

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