希望が鎖す、夜の別称:42




 談話室の机には、二冊の本が並べて置かれている。ひとつは勿忘草のインクをぶち撒けたような、元白い本。もう一冊が、紅玉を溶かし込んだような、深く落ち着いた色合いの帆布に包まれた、赤褐色の本。どちらも上製本で、どちらも、魔術師の『武器』である。片方は、『武器』であった、とするのが正しいのかも知れない。

 それというのも、元白い本は見るも無惨な染まり具合であることを除いても、魔術師の『武器』であると感じ取れなかったからである。それは、ただの本である。紙が綴じられた、本だ。その証拠に、元白い本はソキが紙面に文字を書き入れてもその言葉が消えてしまうことはなかったし、すこし前にそうしたように、魔術師たちが魔力を込めようとしても、ぱらぱらと雨のように床にこぼれてしまうばかりであった。

 出張してきた錬金術師は、首を傾げながら本だね、と断言する。これは魔術具ですらない、ほんとうに、ただの本である。誰もがそう感じ、ソキもそのように訴えた。ソキの『武器』であったのは終わり、今はこちらがそうなのだと差し出された赤褐色の本に、なりゆきを見守っていた寮長は改めて頭を抱え、諸国の魔術師たちの知恵を希った。その変更が可能であるのか、また、前例はあるのか。

 分からないし、知る限りはないと思う、とういのが共通した意見だった。魔術師たちが顔を突き合わせて相談するのを眺めるのにも飽きたのか、当事者であるソキはロゼアにこしょこしょ内緒話をしたり、手に擦り寄ってきゃっきゃとはしゃぐのに忙しかったが、特に咎められるようなことはなかった。ソキがなにか言う方が、事態の理解が遅くなる、と大体把握されてきたからである。

 時折、はいかいいえで答えられるように調整された質問が向けられるだけで、ソキは中心にいながらも放置され続けている。ソキの座椅子と化したロゼアの顔には、部屋への帰りたさが溢れていた。あと十分して終わらなかったら戻りましょう、と珍しくロゼアの退屈に同意する妖精の目に、あの、と不思議そうに手をあげるリトリアの姿が映った。

 予知魔術師の少女は、たぶんあまり例のないことではあるのだけれど、と前置きした後に、己の記憶を疑うような眼差しで、こてん、と首を傾げてみせた。

「ストルさん、は……? あの、ストルさんの『武器』もね、変わったでしょう……?」

 数秒の、空白としか言えない沈黙。察してソキの耳を手で塞ぐロゼアを、『花嫁』がきゃっきゃと真似をした。お互いに耳を塞ぎ合って、なぁになぁに、とはしゃぐソキに届くことなく、轟音のような魔術師たちの悲鳴が、談話室を飛び越えて寮を揺らした。極めてうるさい。思い切り顔を歪める妖精に、前例あったーっ、とひとりがさらに絶叫する。

「そうだ、ストルの『武器』……! 在学中は、確か、メーシャの銃だった筈……! えっ? あの『武器』って在学中限定のものだっけ? 違うよな……?」

「予知魔術師が現出すると、同時代の誰かの手に選ばれて現れるっていう『特殊武器』でしょ? あれ。……ストルはなんて言ってたっけ?」

「えっ、あれってリトリアちゃんに振られたから、その傷心で変更になっちゃったんじゃなかったっけ?」

 しぃん、と談話室が再び静まり返る。集まった魔術師たちの視線を一身にあびながら、リトリアが顔を赤くして、えっえっとうろたえる。ちがうの、と息の根が止まる寸前のような声で、リトリアは弱々しく訴える。振ってないし、そういうのじゃなかったし、そういう理由じゃないと思うし、とにかくちがうの、ちがうの、とぷるぷる震えながら訴えているのを見下ろして、妖精は腕組みをしてため息をついた。

『部屋に帰りましょうか? ソキ』

「やっ、やめて! 見捨てないで……! もうすこし居て……!」

『あのね、リトリア。アタシ、痴話喧嘩に巻き込まれたくないのよ。分かるわね?』

 気持ちは分かるけどそういうんじゃないの、ちがうの、と半泣きの顔でリトリアが首を振る。確かに、ストルの武器が変わったのはその頃である。リトリアが、とうとうストルとツフィアを予知魔術師の守り手と殺し手に撰ばない、と決めて。王の承認を取ったあとのことである。ストルは星降の王宮魔術師として、ツフィアは半ば虜囚のような扱いを決定づけられ。

 その混乱も落ち着いた頃の噂であった、とリトリアは記憶している。ストルの手から『武器』が消えた、というのは。持ち歩いていない、という訳ではなく。そのものがない。ストルは目立たない指輪を、己の『武器』だと告げている。銃ではなく。そうなった理由を、語ることはなく。今も、リトリアはそれを知らないままだった。

 視線を集めながらもじもじと指を擦り合わせ、リトリアはうぅう、と弱りきった声を出す。

「あの、あの、とにかく……振った、とかじゃ……振ってないの……。そ、それとも、ストルさん、そう思ってるの……?」

「……ソキがメーシャを振って、『武器』が移動したらそういうことなんじ、ごめんなさい! 冗談ですっ!」

「え? ハリアスに実験の協力を要請する? でも今そんなことしたらメーシャ可哀想すぎない? 人間不信とかにならない? なるよね?」

 なにせメーシャは、養い親がいつ覚めるとも分からぬ昏睡の最中である。普段の明るい微笑みを浮かべたままであるからこそ痛々しく、その状態は実際に見ずとも殆どの魔術師が知る所だった。いやそんな人の心を失った実験とかできるわけないし、とざわめく王宮魔術師たちに、リトリアが、だから振ったんじゃないの、と力なく抗議する。

 そうだよねぇ、とあまり信用していない態度で、リトリアは頷かれる。

「じゃ、逆に考えてみる? リトリアちゃんが告白して、ストルのトコに『武器』が戻ったらそういうことなのでは? その場合、メーシャの『武器』がどうなるかにも、とっても興味あるっていうか、どきわくする所……! よし、ストル呼ぶ?」

「錬金術師って、良心はあるけど、いまひとつ人の心に欠けるよな……」

『アンタたち、いい加減になさい! なんなの? リトリアとストルで遊びに来たの? ソキに用事がないなら帰りなさいよ!』

 なんだってこう、魔術師というのは目先の欲望で目的を見失いがちなのか。あっ、そうだったそうだった、と誰もがやや正気に返ったまなざしで、改めてソキの『武器』を見る。集められたのは、その異変の調査の為であり、ソキの主張の精査の為である。ストルの件はいったん置いておくことにされて、リトリアは胸を撫で下ろす。

 恨みがましく、振ってないもの、と文句を言いながら、予知魔術師はむくれた顔で同胞たちを睨みつけた。

「とにかく! ……とにかく、前例がある以上、取り立て特異なことでもないと思うの。ソキちゃんも落ち着いているし、魔術師は固有の特質性を持っていることもあるし……騒がなくてもいいと思います。必要なら経過観察、定期検診! これでどうっ?」

「リトリア……。大きくなって……!」

「もおおぉおお、やめて! 感激しないで! 涙ぐまないでちょっと! やめて! やあぁあもぉーっ!」

 難しいことを言わないでほしい、という顔で魔術師のひとりが首を振った。俯き、おどおどとして、なにを告げるのにもすこし怯えたようで。なによりはやく、ごめんなさい、と告げられる時期があまりに長かったのだ。それは思えば数年のことではあったのだけれど。覚めないでいる、長い、悪夢のような時だった。こんなに前を向いて明るく、強気にものが言える日が来るだなんて思わなかった。

 よかったね、ほんとに良かったね、と口々に告げられて、リトリアは怒り続けることも難しい顔つきで、恥ずかし紛れにくちびるを尖らせた。しばらくは我慢なさい、と妖精は言い聞かせる。それくらい、アンタは誰にだって心配かけてたのよ、と告げられて、リトリアはこくん、と頷いた。それは分かっている。分かっているのだが。

 でも振ったりしてないの、ほんとうなの、と両手で顔を覆ってなおも主張するリトリアに、ソキはすっかり飽きた顔で、ねえねえ、と声をかけた。

「リトリアちゃんは、本はツフィアさんのお名前なの? ふんにゃっ! っとなってるの? ねえねえ?」

『ソキ。予知魔術師語やめなさい。さすがに分からない……分からないわよね……?』

 妖精からの疑惑の眼差しに、リトリアは視線を反らして俯いた。なにを聞きたいのか、分かってしまったことは隠しておきたい。しかし、きらきら輝く目で見つめてくるソキに負けて、今度見せてあげるからね、と囁いたので、リトリアは盛大な溜息を送られる。

『アンタたち、なんなの……? ロゼアよりソキの解読が出来るって人として相当アレよ……?』

「ふふん? ソキは? なんだか? 貶されているような? リボンちゃんたらぁ、いくないです!」

『ソキ。説明能力に限っては普段から本気を出しなさい。やればできるんだから』

 ふんにゃふんにゃと鳴いてロゼアにぴとっとくっつき直すソキの顔は、都合が悪いことを誤魔化したがる時のそれである。そして、それが分かっていながら甘やかすのがロゼアである。砂糖菓子に煮詰めた蜂蜜と練乳をかけて砕いた黒砂糖をぶち撒けたような声で、どうしたんだソキ、と囁くロゼアに、場にいる魔術師が、なぜか全員胃のあたりを手で押さえた。消化不良を起こしかねない甘さである。

 リトリアも口元を手で押さえて暫し沈黙したのち、気合を入れ直した顔で寮長っ、と手をあげる。

「とりあえず解決したとみなして、退室してよろしいでしょうか! 報告書とか、あの、あとで、あの……!」

「……いいぞ、お前ら全員、急いで帰れ。悪かったな、忙しい所を無理に呼んで。ありがとう。助かった」

「いいえ……! じゃあ、またね、ソキちゃん! あと皆の為に申し訳ないんだけどお部屋に! 引きこもってあげて! ください!」

 言うが早いが、談話室の出口に走り出したリトリア、以下魔術師たちを見送り、妖精はさもありなん、としんだ目で頷いた。なんで発声ひとつで、ありもしない砂糖を臓腑の底まで叩き込まれなければいけないのか。もはや精神攻撃にさえ近いというのに、ソキはけろっとした顔でロゼアの腕に、すっぽりとはまり、いつものように機嫌よく、ふんにゃふんにゃちたちた、としている。

 一連の事件が終わってから、平和で元気なのはソキだけである。ロゼアはこの調子だし、ナリアンは疲労困憊で帰ってくるだろうし、メーシャは空元気が目に見え過ぎている。被害にあった各国の王宮魔術師たちは回復しきっておらず、王達はこれから、本格的な対応に追われる所だろう。生徒たちもぐったりしていて、寮長も平常とは言い難い。つまり、やはりソキだけである。

 能天気でどんくさくてとろくさい、ソキだけである。喜べばいいのか頭痛を感じればいいのかよく分からなくなって、妖精は深く息を吐き出した。

『とりあえず……リトリアの言う通り、部屋に戻りましょうか。いいわよね?』

「ああ、頼んだ。……助かる」

『いいのよ。アタシ、ソキの妖精だもの』

 名実ともに、である。告げれば寮長は一瞬だけ、いやこれ問題が増えただけじゃねぇの、と疑問視する顔をしかけ。ふっ、と諦めた笑みで首を横に振った。考えるのをやめよう、という仕草だった。失礼しちゃうわ、と目を細めながら、妖精はロゼアの肩に乗り上げるようにしながら、ちたんちたんと手招くソキに向かって飛んだ。

 リボンちゃん、と満面の笑みでソキが呼ぶ。なによ、と囁き、妖精はその指先に触れた。その甘いぬくもりのことを、しあわせだと、思った。

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