希望が鎖す、夜の別称:28



 ソキの名を呼んで走り出そうとするロゼアを、寮長が足払いをかけて倒れさせようとする。死角から低く素早く繰り出された一撃は、脛を狙ったごく正確なものだったが、ロゼアはそれを見もせずに避けた。そのまま先へ行こうとする足が、とと、と力を失ってふらついた。支えを失ったように。まさしく、その通りに。力なく転んだロゼアは、そのことにも愕然とした表情で顔をあげた。

 ロゼアに、落ち着け、と言う無駄を知った態度でそうとは告げず、寮長は動揺が広がる医務室に、有無を言わさぬ声音を響かせた。

「総員! 第一級戦闘態勢を整えろ! 今すぐだ! これは明確なる魔術師への攻撃、あるいは『学園』への攻撃であると心得ろ! 談話室に集合! 急げ!」

「な……にを、すれ、ば」

 乾いてひび割れた声でナリアンが問う。今にも倒れそうに青ざめるナリアンを、慰めず、手の甲で頬を軽く叩いて。寮長はまっすぐに未熟な魔術師の卵を見つめ、態勢を整える、と言った。

「三年目からの授業には、こうした有事の際の行動訓練がある。お前たちはまだやってなかったから、実地での説明になるが、分からなければ誰の発言を止めてでも聞け。……ナリアン、お前はロゼアを起こして一緒に来い」

「……はい」

「そんな顔をするな。お前のせいじゃない。……いや、言い直してやろう、ナリアン。これはお前の不注意が招いた事故で、事件だ」

 寮長っ、といくつもあがる非難の声を微風がごとく聞き流して、男はふらつくナリアンの背を強く叩いた。何者へかの怒りにギラつく、珊瑚色の瞳が風の魔法使いを射抜いて告げた。

「心して聞け。お前のせいだ。……そして、油断した俺達のせいだ。そうであるからこそ、責任を取って単独行動は慎め。冷静さを持て。ロゼア、お前もだ。誰が悪いのかと言われれば、お前も悪い。ソキを信じすぎて、対策を講じ切らなかった俺達全員の過ちだ。以後はそう肝に命じて動け」

 はい、とロゼアが色を失った声で言う。分かっています。寮長はロゼアとナリアンを無言で見つめたあと、案内妖精たちに頼んだぞ、と言って歩き出した。ニーアが震えながら、シディが冷静であろうとする強張った顔で、ルノンは言葉を失ったようにかたく手を握りしめて。妖精は、現実味のない、どこかぼんやりとした気持ちで、それにこくりと頷いた。

 理解ができない。なにが起きたのかは分かっている。ソキがいなくなった。連れ去られたのだ。すぐ傍にいたのに。誰の手も触れないでいる一瞬の隙をつかれたのだ。リボンさん、と声をかけてくるシディに、なにを考えたでもなく首を横に振る。これが誰かのせいだとしたら、そこには妖精も含まれた。

 どうして信じてしまったのだろう。迂闊で粗忽で先の見通しが苦手な、ソキの言葉なんかを。いくら予知魔術師の本能によるものだとしても、それを受け取って言葉にして差し出してくるのはソキである。妖精の、いとしい、弱くて脆くてふわふわ笑う、甘い声できゃらきゃらと笑う、ソキという魔術師である。信じすぎてはいけなかった。

 もっと、疑って、考えて、守っていなければいけなかったのに。ぎりっ、と歯を食いしばって、拳を握って、妖精は燃え盛る怒りを宿した瞳で顔をあげた。すっ、と危機を察知した顔で、シディが妖精から距離を取る。あ、大丈夫ですね、と虚ろに呟く声になにがよと鼻を鳴らし、妖精は直刃のような髪を手でかきあげて、苛立ちと共に吐き捨てた。

『ぶち殺してくれるわ砂漠の虜囚めがっ! よくもやってくれたわねっ! 首を洗って待ってなさいよっ!』

 ソキは罠に引っかかったようなものである。非が全くないとは思わないが、悪いのは仕掛けた方だった。無事でいることを強く願う。ソキが自分の身を守って、守り切って、助けを待ってくれることを願う。けれども愕然とした、泣き出しそうな気持ちで、妖精はそれが叶わないことも知っていた。もしも、ロゼアを守るためなら。ソキがなにを差し出すか知っている。己の身すら躊躇わず、刃の上に乗せることを知っている。

 だいじょうぶだもん、と言いながら。守ってみせるとその決意をひとつ、胸に宿して。どれだけのことを成し遂げてしまうのか。その胆力があることを、数日かけて、ソキは証明しきってしまった。なにをされるか分からないことに加えて、ソキもなにをするか分からないとくれば、もう不安しかないのは道理である。

 ちょっとっ、死んでないで考え得る最悪の想定をアタシと共有しなさいよっ、と怒鳴りつける妖精に、ナリアンに助け起こされ、ロゼアは呆然としながら口を開く。

「ソキが……ソキが、相手の手に、落ちることです……」

『今、もう、そうなってるでしょうが! ……なに? なにが言いたいの? 手に落ちるって』

 息を、吸って。妖精は、はた、とその言葉に気がついた。ソキは穢れなき、と育てられた『花嫁』だ。知識と、多少の実技教育を受けているという点で無垢ではないが、純潔ではある。アンタ、と妖精は息をするのが苦しい気持ちで囁いた。まさか。

『そうなの? ……あのど腐れの不埒者は、まさかそういう意味でもソキを狙ってるって言うのっ?』

「分かりません……。分からない、でも、あの男は一度、ソキを、殺しかけた……壊したんです……! なら!」

 次にまた、今度こそ壊しきるとしたら、最悪の想定を出せと言われたら。それしかない、とロゼアは悲鳴そのものの声で言った。ソキはもう既に、その胸に隠した、魔術師としての一番大切なものを壊されている。その上でなお、抵抗するのなら。ぞわっ、と羽根を震わせて、妖精はソキが男に組み伏せられる光景を、頭から振り払った。

 泣き叫んで死にものぐるいで抵抗しても、ソキなら押さえつけられて終わりだろう。助けの手が触れるまで、抵抗し続ける体力もない。一刻もはやく、助けに行かなくては。狂気すら滲ませる焦りを、無理矢理押さえつけているのが誰にも分かる瞳で。ロゼアは声をなくすナリアンも、妖精たちも見ずに、甘やかな微笑みを虚空に投げかけた。

「……ソキ、ソキ、約束だろ。……呼んで、俺を」

 必ず。助けに行くって。約束しただろ、とロゼアは言う。まだ、『花嫁』と『傍付き』だけだった昔日に。ふたりきりで約束をした。その時も、『傍付き』としての繋がりが、必ずソキの声を手繰り寄せると信じて。今はもう、確信的に思っている。二人がともに、魔術師である今ならば。その声は届き、その声が招き寄せ、その声がロゼアを引き寄せる。

 大丈夫、必ず俺が助けに行くよ、と囁くロゼアの腕を、繋ぎ止めるように掴む者がいた。ふたり。ひとりは、傍らにいたナリアン。そしてもうひとりは、事態を把握して走り、飛び込んできたメーシャだった。どこか、夢の中にいるような素振りで。ゆったりと瞬きをするロゼアに、息を切らしながら、メーシャが行くよ、と鋭く叫んだ。

「ロゼア、談話室に行くよ。それで、ソキを助けに行こう! みんなで!」

「……うん。そうだな、メーシャ」

「そうだよ。一人でなんて行かさない。……行かさないからな、ロゼア!」

 ほらっ、といつになく乱暴で強引な仕草でロゼアの腕を引き、メーシャがずんずんと歩き出す。と、とっ、と引っ張られて歩くロゼアの背を力いっぱい押して、ナリアンがそうだよ、と大声で言った。

「ソキちゃんが待ってる。だから、みんなで、助けに行こう! ロゼア!」

「わ……分かった。分かってるよ、ナリアン」

「俺思うんだけど! ロゼアに紐付けて、それを俺たちで持っておくのってどうかなメーシャくん!」

 ロゼアの分かっているを全く信頼していない、かつ無視したナリアンに、ロゼアがむっとした顔になる。前を歩くメーシャはきらびやかな笑顔で振り返り、不機嫌なロゼアにふふっと笑いを深めて言い放った。

「それがいいね。そうしようか、ナリアン」

「ちょっと……メーシャ、ナリアン。なんなんだよ」

「俺たちを置いてひとりで行くならね、それは助けなんかじゃないよ、ロゼア」

 ぴしゃりと叩き落とす、冷たい声だった。声を詰まらせるロゼアに、メーシャは口元をやんわりと和ませて笑う。その瞳に占星術師の叡智、魔力のひかりをうっすらと滲ませながら。やさしく、柔らかく、メーシャは今度は穏やかに、言葉を繰り返した。

「駄目だよ、ロゼア。一人でなんて。俺たち、みんなで、助けに行くんだ」

 みんなで行くんだよ。この先へ、行くんだ、とメーシャは囁いた。祈りの先、願いの先へ。何も取りこぼしてしまわないように、大切なものをぎゅっと抱きしめて。手を繋いで。離さないで。にっこり笑って、メーシャはロゼアの腕をひいた。

「ソキを助ける、ロゼアを助けるよ。……いいね?」

「ひとりでなんて、行かせないからね、ロゼア。……ひとりで、急いで行かないでいいんだよ。俺たちだって急いで行くから、ソキちゃんの所に、ロゼアが辿り着けるように」

「いいぞ、その調子だ。もっと言え」

 いつの間にか、談話室の扉に背を預けて腕組みをした、寮長が半ば睨むようにして三人のことを待ち構えていた。寮長、とメーシャはほっとしたように、ロゼアは呆然としたまま、ナリアンは反抗期真っ只中の嫌さ全開の顔で呼ばれるのに、男はゆっくりとした動きで立ち直した。

「そいつを独断先行させないように手をつくせ。なにをしても構わん」

「寮長、言い方に気をつけてくださいます? ……ロゼアさまにもっと気をつかってください。ソキさまがいなくなっただなんて、心痛はいかほどのものか……! ああ、ロゼアさま! ご安心くださいね! このレディが全力で焼け野原なり焦土なり! 御命令くだされば、なんなりと! ほんとなんなりと! 焼くので!」

「お前故郷の城を燃やす気かよ……落ち着け、火の魔法使い」

 どん引きしながら声をかけてくる寮長に、火の魔法使いは開き直りきった顔をした。故郷を焦土にしたもので、今更城のひとつやふたつ、と言い放ち、それからすこし気を取り直したように、口に手をあててこほん、とわざとらしい咳をする。

「……というのは、すこし冗談として。それくらいの覚悟でおりますので」

「……これもしかして、消火器役の魔術師が必要か……? 砂漠の筆頭は確か水属性の黒魔術だったか……全焼は防げるな……」

「うふふそんなまさか本当にはやりませんようふふふふ城を燃やすだなんてふふふふふふ燃えるのはあの男一人で十分よ……!」

 コイツから先に鎮火すべきか具体的には頭からバケツで冷水かけるとかそういう方法で、と呟き真剣に検討しながら、寮長がナリアンを手招いた。うわ、と顔にも声にも出しながら、止めてください呼ばないでくださいなんですか、と素直に歩み寄ったナリアンに、お前ほんとに可愛くなくてかわいいな、としみじみ呟き。寮長はどこに持っていたものか、ぽん、とナリアンに縄のようなものを手渡した。

 縄、ではない。太く丈夫そうな糸が、ぐるぐると渦を巻く。廃品のような印象を受けた。なんですかこれ、と問うナリアンに、縄の代わりにロゼアにこれつけてお前ら持ってろ離すなよ、と告げ。寮長はふっと苦笑いをし、受け渡した廃品めいた糸を指さした。

「元、投網だな。ソキが捕まったとかいう、あれの現品だ。多少なりとも縁があり、ほんのかすかにソキの魔力が残っている。辿って行くにせよ、なににせよ……まあ、なにかの足しにはなるだろう」

「……そんなものが、なぜここに?」

 怒りを堪えて呻くロゼアを、じっと見つめて。寮長は今しがた召喚した、とこともなげに告げた。稀有な魔術師。ソキと同じ、寮の四階の住人。彼らがかつて相手としたのは、人ではなく、軍ですらなく。対国家。国をひとつ消し去る為の、兵器として使われていた適正の持ち主。召喚術師は、なにが糸口になるか分からない、と言った。

「恐らく、リトリアはすぐにでも『学園』に戻ろうとするだろう。それを待って、当初の予定の通り、救出部隊を砂漠へ向かわせる。ただし、当初より危険が増しているものと思え。……最悪の想定として、予知魔術師が敵として現れた時に」

 続きを。寮長が告げられなかったのは、メーシャを振り払いナリアンの手をすり抜け、ロゼアが男を壁に押し付けたからだ。胸ぐらを掴む手が震えている。声をあげようとする誰もを制して、寮長はロゼアの肩に手を置いた。掴みかかった、だけで。ロゼアはそれ以上は動かず、うなだれている。ぽん、ぽん、と強く、男の手がロゼアの肩を叩く。

「万一、そうなった時に。それをソキに向かって投げろ。上手くすれば動きを封じられるし、最低でも注意は引き付けられる。それは、予知魔術師を捕らえたという縁と、実績を持つ、もはや魔術具だ。そう思え。いいな」

 すぐにリトリアとツフィアが戻ってくる、と確信に満ちた、決定事項を告げる声で寮長は言った。

「そうしたら、お前らも一緒に、救出部隊として動け。……不安しかないが、他にレディを御しきれるのがいないから、レディの元で班として動くこと。質問と不安があれば、出発までに全て解消しておけ。以上」

 俺は出発までにレディを落ち着かせておく、と息を吐く寮長に、火の魔法使いは高らかに告げる。

「残念ながら! 冷静です!」

「うるせぇよ。水かけてやるから大人しくこっちこい。後輩に迷惑かけるんじゃない。……お前が冷静でないと、俺の女神救出にも差し障りがでるだろうが……!」

 最後の最後に私情を交えた冷静でない言葉を吐き捨て、寮長はレディの腕を掴んで洗い場方面へ引っ張っていく。はぁっ、残念でしたけど私の火は普通の水なんかで消火できないんですけどっ、安心しろ水を被るのはお前の頭だ、と怒鳴り合い言い争う声が、勢いよく離れていく。途中でなぜか走り出したらしい。仲悪いですよね、としみじみとメーシャが呟いた。

 あれは恐らく、双方同じ意志で走り出したのだ。一刻も早く互いを納得させ、用件を済ませて別れたいが為に。待つこと、数秒の後に。とても派手な水音、蒸発音、高笑いと怒号、なぜか足元にまで響く、滝のような水音が連続して響いてきて。ナリアンはうつろな目で、そんなばかな、と言った。

「いやでもあのひと、自分のこと冷静だとは言わなかった……確かに、言わなかった、けど……馬鹿じゃないのかあのひと! 病み上がりで! なにしてっ……ああぁああもう! メーシャくん! ちょっとごめん! 俺殴って止めてくる!」

 いってらっしゃい、ほどほどにするんだよー、とメーシャは微笑んでナリアンに手を振った。その頃には廊下の彼方へ消えている背を追いかけて、うふふ、ナリちゃんったら、と笑うニーアも飛んでいく。アイツらの馬鹿を見て気持ちを落ち着かせるわ行くわよ、とシディを掴んだ妖精も飛んでいくのを見守って、メーシャはくすくす、肩を震わせて問いかけた。

「ルノンはいいの? 行かなくて」

『俺はメーシャの傍にいるよ。メーシャと、ロゼアの。……なぁ、出発の前に、なにか飲みに行こう? お腹をすかせたまま、誰かを怒りにいくもんじゃないよ、ロゼア?』

 うなだれて。廊下に座り込むロゼアに、ルノンがそっと囁き落とす。俺もルノンに賛成だな、と笑って、メーシャはロゼアに手を差し出した。さあ、行こうよ、ロゼア。声に。言葉に、頷いて。ロゼアは、メーシャの手を取り、立ち上がった。


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