あなたが赤い糸:38



 『花嫁』を乗せた馬車が、とろとろと『お屋敷』から離れていく。見送る世話役たちの顔には、一様にほっとした安堵が広がっていた。『旅行』に赴く『花嫁』が、そのまま嫁がされてしまう、ということはまずありえない。それは先方でなにか重大な事故が起きたという証であり、『お屋敷』の不手際をも意味しているからだ。

 目的地へ向かう行程でも、滞在する屋敷の中でも、『花嫁』は常に監視と護衛に守られる。惑わされて手を伸ばす者はあれど、その熱が肌に触れることはなく、穢されてしまうこともない。可能性が全くない、ということではないのだが。『花嫁』は不慮の事故が発生した際にも、己の身を守る方法を、言葉を、教わっている。

 その為に教育は成されるのだから。砂粒のような可能性は、いつでも心に暗い影を落として消えなかったが、常に見つめて息を苦しくするものに、してはいけなかった。大丈夫、まだ帰ってくる。この『旅行』は、まだ。永遠の別れではない。

 そう言い聞かせるように部屋へ戻る世話役たちの間をすり抜けて、ジェイドは馬車が去った方角をいつまでも見つめている、『花嫁』の『傍付き』へ声をかけた。まだ霧の晴れぬ、早朝のことだった。ねぼけまなこの『花嫁』が、いやいや、と首を振って『傍付き』にすがるのを、ジェイドは言葉にならない想いで見つめていた。

 別れの日はもう、すぐ傍まで迫っている。夏が終わり、空気には秋の匂いが混じっていた。

「ラーヴェ。おはよう」

「……ああ、ジェイド」

 瞬きをして、振り返るまでには、いくばくかの時間があった。離れていく馬車に寄せていた気持ちを、手元まで無理に引き戻したように、かすかな痛みすら感じさせる。きゅ、と口唇を噛んで歩み寄り、ジェイドはラーヴェの肩を叩いた。戻ってくるよ、と言いかけて、やめる。

 今回はそう慰められても、もう次に同じ言葉を告げられるかどうかは、分からなかった。

「随分早いように思うけど、なにかあった? まさかとは思うけど、呼び出しとか?」

「いつもより少し早いだけだよ。今日、ミードさまが『旅行』に行かれると聞いたから……顔が見られるかと思って」

 ミードが先の『旅行』から戻って、今日の出発へ至るまでは三ヵ月程の間があった。その期間をミードは殆ど『花嫁』の区画から出ず、また頑としてラーヴェを傍から離さずに過ごしたのだった。シュニーの布に施す花の刺繍だけは、人の手を介してジェイドの元へ戻って来た。残りは八つ。今年中には終わらないだろう。

 ミードがその空白をどんな想いで見つめていたのかは、ラーヴェしか知らない。いざ嫁ぐことが決められても、その知らせが『花嫁』本人にもたらされるのは半月前と定められている。『旅行』が決められるまで、一日を削れる思いで過ごしただろう。今日ではない、けれど、明日かも知れない。明日ではなくとも、明後日かも知れない。

 その知らせが近いことを、『お屋敷』の誰もが感じ取る。『花嫁』が嫁ぐには準備が必要だ。婚礼の衣装を含めて、祝福の為の準備が。『花嫁』は誰より敏感に変化を感じ取る。『傍付き』を離さなくなるのは、その為だった。ジェイドがなにか言葉を続ける前に、それを遮るように、ラーヴェは大丈夫だよ、と言った。

「まだ、帰ってくる。それに……ほんとうは、それは、祝福されることだ、ジェイド。幸せに、なられるのだから」

 君はその証明だろう、と言葉にはされず。柔らかな笑みに作られた瞳が物語っている。ジェイドは視線をそらさずに息を吸い込んで、そうだな、と言った。嫁いだ先で、宝石は幸せになれる。恋をして、ひとを愛して、血を繋ぐこともできる。

 ジェイドはまさしく、その証明だ。『花嫁』は、『花婿』は、幸せになれる。

「……なにがあってもすぐ来るから。呼んで」

 いざ嫁いでいくその日にしか、他の者には知らされない。国中に鳴り響く祝福の鐘の音と、送り出した者だけに許される衣装を『傍付き』が纏うことで周知と成すからだ。朝と夜しか来られないジェイドには、祝う、という点でも、慰める、という点でも不利である。

 なにが、とは言葉にすることができずに。求めたジェイドに、ラーヴェは照れくさそうに笑って、一度だけ頷いた。




 当然のことではあるのだが、誰がいつ、どこへ嫁ぐのかを当主は知っている。その選定をし、決定を下し、様々な準備をはじめるように、と命令をするのも当主の仕事であるからだ。そうであるから、最近の、見習い当主は物憂げだ。前当主たる少女に、そんなに悩まないのよ、と窘められても、表情が晴れることはなかった。

 数ヵ月ぶりに書庫室へ引きこもってしまったのだと聞いて、ジェイドは遠い目をしながらその場所へ向かった。シュニーの『旅行』中のジェイドにわざわざその知らせがもたらされるということは、行って様子を見てきて、という前当主からの業務命令に他ならない。

 門番よろしく、扉の前でジェイドによろしくお願い致しますと微笑んだ『傍付き』は、表情をそのままに素振りをしていた。その剣でなにを仕留めるつもりなのか。ジェイドはじりじりと距離を伺って書庫室に駆け込みながら、そんなに気に入らないなら前当主さまと見習い当主さまにも仰ればいいじゃないですかっ、と呻いた。

 他の誰かが『花婿』にちょっかいを出すのが気に入らない気持ちは分かる。本当に心底分かる。ジェイドも自主的にやっているわけではない。業務命令で呼び出されたのである。拒否権はあってないようなものだ。前当主の生き残った『傍付き』は柔和な微笑みで死角を狙いながら、あなたに対する準備ではないのでお気になさらず、と微笑んだ。

 気にしなくなった瞬間、死角に回り込んで殴打する準備を整えながらなにを言っているのだろうか。説得力って言葉の意味を知っていますか、もちろんですそれがなにか、と言葉を叩きつけあい、うふふあははと微笑みを交わして、ジェイドは疲れきった気持ちで書庫室の扉を閉めた。

 扉を閉めれば、そこから先に女はやってこない。来なくていい、と少年が告げたのだという。ひとりにしてほしい、と。それが強がりだと分かっていても、拒絶を告げられたのなら、『傍付き』はそれを乗り越えては手を伸ばせない。そういう風になってしまった。ジェイドはただの代理だった。

 薄闇の中を進んで、灯篭と水差し、菓子の置かれた机の下を覗き込む。毛布を敷き詰めた巣めいた場所で、少年はくちびるを尖らせ、膝を抱えて座り込んでいた。どうしてジェイドがやってきたのか、少年には察しがついたのだろう。浮かんだ微笑みは諦めと、息苦しさを漂わせていた。

「……俺にはね、ジェイド。まだ、ミードの気持ちの方が……よく、分かるんだよ」

 離れたくない。傍にいたい。傍にいて、欲しい。その望みを叶える為に、『傍付き』として選びとる。その気持ちこそが恋だ。それを、そう呼ばなければ他になんの言葉も当てはめられないくらい。純粋で、ひたむきな、恋。目を伏せて、ジェイドは静かに頷いた。

 たったひとり、わたしだけのものでいて、と望んだひとに。しあわせになれるよ、と告げられて、花開く恋は蕾を閉じていく。そうして誰もが嫁いでいく。ぎゅ、と閉じた少年の目から、涙がいくつか零れ落ちた。

「分かるのに……どんなにか、傍にいてほしくて、恋しいか、分かるのに、知ってるのに……。ミードの嫁ぎ先を決めて、そこに送り出す指示を出すのが、俺なんだよ。……ごめん。ごめんな、ジェイド。ジェイドを否定してるんじゃ、ないんだ。幸せになれるって、教えてくれる。教えてくれた。ジェイドは、だから……」

 ごめん、とほたほた泣きながらうずくまる少年に、ジェイドはいいえ、と首を振った。

「ですがどうか、不安に思いすぎないでください。祖父は幸せであったと聞きます。……ラーヴェのミードさまも、きっと、幸せになります。ラーヴェがそう育てたのですから」

「うん……。うん、分かってる。分かってる……! ごめんな……ごめん、分かってるんだよ。ごめん……」

 自己嫌悪で眩暈がした。どんな言葉を重ねても、ジェイドはそれを経験することがない。幸せになれる、と囁いて。シュニーを手放す日はこないし、そんなことはできない、と思う。ミードはきっとしあわせになれる、と。乾いた声で少年が囁く。

「それに、それで……すこし余裕ができるから。あとのことは、ゆっくり、考えればいいって」

「……前当主さまが、そう?」

「うん。……わかってる。全部、わかってるよ。嫁がせなきゃいけないことも、幸せになれることも……わかってる」

 わかっているよ、と囁いて、少年は微笑した。なにかひとつのことを決めてしまって、それに殉ずることを決めてしまって。ひたすらに、そこへ歩いていこうとする。落ち着いた、穏やかな、当主らしい微笑みだった。ごめんな、ジェイド、と少年は言った。ほんとうにごめん、と寂しげに。

 幾度も、幾度も、許しを求めず繰り返した。



 長期休暇の初日に『お屋敷』に戻って以来、ラーヴェの姿を見なかった。その日も別に会った訳ではない。偶然、シュニーの部屋に行く途中、遠目にすれ違っただけだった。会話はなかった。片手をひらりと挙げて挨拶に代え、ラーヴェは数人の世話役たちと連れ立って、ミードの区画へと消えていった。その背を見送ったのが最後だった。

 年末年始に向ける準備と、どこか落ち着きのないざわめきが『お屋敷』を満たしていく。期待と不安。恐れのようなもの。足元まで降りてくる冬のつめたい空気とあいまって、それはどこか気持ちを静かに冷やして行った。年明けを待たず、今度こそミードは嫁ぐのだろう。誰もが口には出さず。誰もがそれを予感していた。

 ジェイドが、シュニーと一緒に前当主に呼び出されたのは、年明けを数日に控えたある日のことだった。今日か、明日か、と誰もが祝福の鐘が鳴る時を待ちわび、落ち着かない空気で『お屋敷』がざわめくさなかのことだった。少女は執務室から引っ越した、ちいさな私室で二人を出迎えた。

 物のない部屋だった。応接用の机と、向かい合わせのソファ。壁には本棚があり、棚には茶葉や菓子が飾り付けるように置かれている。執務室から移設してきたのか、見覚えのあるソファに恐る恐る座れば、少女は目を和ませていらっしゃいませ、と言った。その背後には常と変わらず、口数の少ない女が、ひっそりと立っている。

「お呼び立てして、ごめんね、シュニー。ジェイドくん。どうしても、今日のうちに済ませてしまいたかったものだから」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る