その手を離せば迷子になる:後
やぁんやぁんと言いながらひとりで勝手に歩き出そうとするのをゆるく引き留め、歩き出しながら、レディがうつくしい微笑みでエノーラを振り返る。
親友を脅すように笑いかけ、レディは唇の動きだけで、無体をするなと言っているでしょうエノーラ、と囁きかけた。
エノーラは苦笑しながら聞いてみただけじゃないのと手を振って見送り、ソキをレディに任せて場に留まった。
在学期間の長い少女たちは爆発音にも振動にも特に動じた様子は見られなかったが、中には不安な顔を隠せないでいる少女たちもいる。ソキにはロゼアがいるが、落ち着く腕を持たない者が圧倒的に多いのだ。
少女たちを落ち着かせ、宥める者としてエノーラがそこにいたのは、少女たちの安心という点においては幸いなことだった。身の危険があることは考えないことにして。
廊下を歩いて談話室へ向かうと、ちょうどロゼアが眉を寄せながら出てきた所だった。待っている間に情報は収集したのか、ひとまず危険はないと分かっている表情で、それでもソキを見つけた視線がやわらかな安堵に緩む。
ソキ、とロゼアが呼ぶのと、『花嫁』がレディから手を離し、聞く者の耳をあまくしびれさせるほどの声をあげるのは、ほぼ同時のことだった。
「ろぜあちゃん、ろぜあちゃんっ!」
「ソキ。……こんばんは、レディさん」
「こんばんは、ロゼアくん。聞いたかも知れないけど、特別危ないことも警戒しなきゃいけないこともないから、大丈夫よ。ただ、言うまでもないと思うけれど、ソキさまの傍にいてさしあげてね。私はユーニャの所へ行かないと」
まあ一回爆発させると落ち着くし大丈夫だとは思うんだけど一応現場検証と原因の追及はしないといけないし、とうんざりした顔つきで息を吐くレディの背後に、寝起きなのにどうしてこんなことしなきゃいけないのかしらめんどくさい、と書かれていた。
ロゼアの腕に抱きあげられ、心底うれしそうにぎゅうぅーっと抱きつきすりすり甘えながら、ソキがややはしゃいだ声でレディさん、と呼ぶ。
「ソキもいくです!」
「……え?」
「ソキねえ、ユーニャ先輩に馬車のお礼を言うのがまだだったんですよ?」
だからソキもいく、ソキもいくですよロゼアちゃんねえねえいいでしょうソキもユーニャ先輩に会いたいんですよねえねえおねがいロゼアちゃん、と腕の中できゃっきゃはしゃがれながらおねだりされて、ロゼアの首が右に傾く。
そうしながらも手で首筋、頬、額と触れて行っているので、体調の確認をしているのだろう。ふうと息を吐いたロゼアは、ソキを腕の中から降ろすことなく、レディに向き直ってお願いしてもいいですか、と控えめに訪ねてきた。
レディは天井を仰ぎ、しばらく考え、大丈夫だとは思うけど、と溜息をついた。一応、私の指示する距離だけは保ってくださいね、と告げたレディに、ロゼアの腕の中でソキがきゃあぁあっ、とはしゃぎきった声をあげて喜ぶ。
レディさんありがとうございます、のあと、ごく自然に繋げられたロゼアちゃんだぁいすきっ、の声は、レディが一瞬息をつめるほど、恋のきらめきを宿していた。
レディは一瞬振り返って、ロゼアを見る。ロゼアはおだやかな幸福を抱いている顔つきで、ソキに、うん、と頷いているところだった。レディは、砂漠の民は知っている。『傍付き』は『花嫁』に欲を抱かない。
性的な欲望を抱かないからこそ、彼らは『傍付き』と呼ばれ、『花嫁』を腕に抱くことを許されるのだ。全てを預けられる、からこそ。その肌に触れて、常に体調を把握しながらも、惑わされることないよう。教育されて、彼らは『傍付き』になる。
砂漠の民なら誰でもそれを知っていた。御伽話や夢物語のように。砂漠に幸福と安寧をもたらす『花嫁』と『花婿』、彼らを育てる『傍付き』のことを、聞きながら育つからだ。
彼らは砂漠の祝福である。レディは、それを知っていた。
けれど誰よりも、ソキはそれを知っている筈なのだ。恋を、されない、ことを。レディは一瞬胸によぎった感情を押し殺し、それではこちらに、と囁いて身をひるがえした。
いまは後輩となった『花嫁』の、その恋心を。悲しみ、哀れむような気持ちなど、持ちたくはなかった。
ソキちゃん、ロゼア、と呼びとめる声に、ソキはうとうとと眠たかった瞼をぱちっと持ち上げた。柔らかく響く低めの声は、深くくゆる花の芳香のような響きで耳に触れて行く。
その声をソキはまだ聞き慣れないのだが、それでも、誰のものか間違えることは決してない。ロゼアの腕の中、大慌てでんしょんしょと体を伸ばし、ソキははしゃいだ笑顔で廊下の先へ腕を伸ばした。
「ナリアンくん! ナリアンくん、おかえりなさいなんですよ! ソキ、ナリアンくんにおかえりなさい言うのたのしみに待ってたですー!」
「ナリアン」
「やぁんやぁ! ロゼアちゃん振り返っちゃだめですぅー! ソキ、ナリアンくんがみえなくなっちゃうですー!」
ロゼアの腕の中でもちゃもちゃと方向転換しながら文句を言うソキに、ナリアンはこころゆくまで和んだ眼差しを送り、ゆるく息を吐き出した。俺の妹ちょうかわいいほんとかわいい癒される、とその紫の瞳が語っていた。
ふふ、と笑みがこぼれ、ナリアンは空気を震わす言葉で告げる。
「ただいま、ソキちゃん。ロゼア」
まっすぐに背を伸ばし、微笑んで、ナリアンはそこに立っていた。腕には大きめのダンボール箱を抱えている。それを足元にどさりと置いて、ナリアンはふぅ、と息を吐き出した。
みれば階段の踊り場付近に、通行の邪魔にならないようにダンボール箱が山と積まれていた。入学してすぐ、『お屋敷』から送られてきたソキの荷物よりはまだ少ないが、それでもかなりの量があった。
ロゼアは腕の中でもぞもぞと収まりが悪そうに身動きをするソキを抱きなおしたのち、ぷぷぷ、とむくれる頬を指先で撫で下ろしながらナリアンに歩み寄った。大股で距離をつめ、ロゼアはことん、と山のような箱に首を傾げる。
「おかえり、ナリアン。すごい量だけど……これ、どうしたんだ?」
「服とか本。写本の道具とか、修繕の道具をもって来たんだ。……入学の時に、ほとんどなにも持たずに来たから。道具は手入れもしないと悪くするから、あまり使う機会はないだろうけど……どうしても手元に置きたくて。おみやげもたくさんあるよ。お菓子も。あとで渡すね。……ソキちゃんの体調はどう?」
ロゼアが、腕の中からソキを離そうとしないことに気がついたのだろう。やや気遣わしげに声をひそめて問いかけられるのに、ロゼアは柔らかく苦笑いを浮かべ、ソキの背をゆるゆるとてのひらで撫でた。
すこし前までの不機嫌をあっけなく崩れさせて溶かし、ソキはロゼアにぴとぉっとくっついて、ナリアンくんすごい荷物ですぅー、と興味深そうに箱の山を見つめている。
「あんまり。明日からの授業は……どうかな、ってトコ。明日の朝の体調で考えようと思ってる」
「ぷぷ。ロゼアちゃん、過保護さんです。ソキはぁ、今日もぉ、げーんーきーでーすー」
「そうだね。今日はお熱出てる感じしないもんね」
くすくす、笑いながら伸ばされたナリアンの手が、ソキの前髪と額をそっと撫でて行く。ふわん、と優しい風が一緒に肌を掠めて、ソキは満たされたような気持ちで息を吐き出した。ナリアンの風は、あたたかくて、とても気持ちいい。
ロゼアの腕の中で大人しくなったソキに、ナリアンは微笑みを深めて指先を引いた。
「ソキちゃんはもう眠たいね? おやすみなさい、かな。ロゼアも、もう寝る?」
「いや。まだ起きてるよ。……ナリアン」
「うん?」
うとうとしながらふぁ、とあくびをするソキを抱きなおし、背をゆるゆると撫でてやりながら、ロゼアはナリアンとその足元に積まれたダンボール箱を、ちらちらと気になる様子で見比べた。
「運ぶの、手伝うけど」
「いいの……?」
「うん。ナリアンが、嫌じゃなければ」
はにかんで笑うロゼアに、ナリアンは嫌なんてことないよ、絶対、と嬉しげに頷いた。ありがとう、じゃあ頼もうかな、と告げるナリアンに、ロゼアの腕の中でソキがねむたげに、目をくしくしと手でこする。
「そきもおてつだい、するですぅ……」
「……ロゼア」
どうしよう。俺のかわいい妹の希望を聞いてあげたいんだけどでも眠らせてあげた方がいいのかなだってすごく眠そうだし、と助けを求めるナリアンの視線に、ロゼアはううん、と笑いながらソキの顔を覗き込んだ。
ふああぁ、とあくびをして、ソキはやや眠気のはれた目でぱちぱちと瞬きをしている。ろぜあちゃん、と気合いを入れた様子で、ソキが楽しげに宣言した。
「ソキ、ナリアンくんのお手伝い、するですよ」
「うん……。ソキ、眠たいだろ? 寝てていいよ」
「やぁんやぁん! ソキ、ナリアンくんのお手伝いするんですよぉー!」
一応寝かしつけを試みたロゼアに、ソキは腕の中でむずがって抵抗した。うん、とロゼアが苦笑しながら頷いた時だった。ぽん、とロゼアの肩に手が置かれる。
あ、と思いだして慌てた声をあげるロゼアに、レディはくすくすと笑いながら手伝ってあげなさいな、と言った。
「そのあと、ソキさまがまだ起きられているようなら顔を出せばいいんじゃないかしら」
「……あ! ソキ、ユーニャ先輩にお礼を言うんでした」
「お礼は……まあ、今夜じゃなくてもいいと思うけど」
やぁんどっちをしたらいいんですか、お手伝いですかお礼ですか、と悩むソキにそう言いながら、ロゼアはレディを不思議そうに眺めやった。
談話室の前から寮の三階までの短い距離でアクロバティックな方向音痴を発揮して、瞬きの間に迷子になっていた火の魔法使いは、涼しげな顔でそこに佇んでいる。
確かにさっきまで、ロゼアはレディを見失っていたが故に、とりあえずユーニャの部屋を目指して歩いていた筈なのだが。
前にも、後ろにも、姿はなかった筈である。どこへ行っていたというのか。そしてどこから現れたというのか。
なにをどう問えば疑問が解決するか分からず、ロゼアは息を吐き出して首を振った。そういうものだ、と諦めて受け入れなければいけない気がしたのである。
のちほどお伺いすると思います、と告げるロゼアに笑顔で頷いて、レディはひらりと身をひるがえした。そしてロゼアが見守る先、扉の半分外れかかったユーニャの部屋に、今度こそ無事に辿りついて姿を消していく。
暖かな腕の中から廊下に滑りおり、ソキはふああぁ、とあくびをして、心底不思議そうにぱちぱちと目を瞬かせた。
「レディさんは……すごく器用な迷子さんになるです」
「うん。そうだな……」
「ソキちゃんも、迷子にならないようにしようね」
ちゃんとロゼアと手を繋いでるんだよ、と言い聞かせるナリアンに、ソキはんっとぉ、とすこしばかり困ったように眉を寄せて。言葉には、せず。こくん、と一度だけ、おさない仕草で頷いた。
ためらいながら、迷いながら。離すことを嫌がるような、思い悩むような、仕草だった。
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