今はまだ、同じ速度で 33
さわさわさわ。空気を揺らす言葉たちが意識にそっと触れて行く。悲鳴泣き声怒鳴り声怒号。慌ただしい足音は部屋の前に来るとしんと音を消す。音のない仕草で何人かが歩きまわっている。
部屋の中。守るように。さわさわさわ。言葉が揺れている。怒り焦り狼狽疲労困惑。強く弱く凛とした掠れて苦しげにはきと響く。声、声、いくつもの声。さわさわさわ。空気が揺れる。
そのうちひとつもかたちにはならない。うまくきこえない。うまくわからない。だれがなにをいっているのか。だれがなにをはなしているのか。だれ、だれ。そこにいるのはだれ。
ひえていくゆびさきをあたためるぬくもりは、なく。だれかが手をつないでくれていても。それは火の熱のような陽のひかりのようなそれではないから。つなぎとめられない。かたちがわからない。
なんだっけこれはなんだっけ。これは。わたしは。だれ。わたし。の。なまえ。は。
けふ、けひゅっ、のどが力なく咳を繰り返す。痛い。全身が痛いどこもかしこも痛い、痛い、いたい。指先も喉も瞼も動かせない。砕け散ったそれがざらざらと砂のような音をたてて揺れ動いている。
ざらざらざら、砂の音。ひゅ、げほっ、限界を超えた喉が血を滲ませて吐きだす。ソキさまソキさま。泣く寸前の、冷静さをなんとか形だけ残したやわらかなやさしい声が幾度も幾度も呼びかける。
呼びかけられているのは分かるのに、その響きがなんなのか分からない。そのひとが誰なのかわからない。ソキさま。繋ぐ手に力が込められた。ソキさま。頬に押し当てられる。そのひとは泣いていた。
ソキさま、ソキさま。何度も何度も呼びながら、泣いて、苛立ちに舌打ちをする。
王宮魔術師。白魔法使い。どこへ。はやく。なんで。なにをしに。城下で魔術師が。暴走しかけて。そちらへ向かっていた。
もうすぐ戻ってきます。ごめんなさい。わたしたちでは。こんなにも荒れ狂う魔力を抑えきれない。なにが。どうして。ああ。ごめんね。そうだよね。いたいよねいたいよねごめんねごめんね。
その痛みをどうかわたしに。おいでおいでこちらへおいで。眠りについて和らいで。消えて溶けて淡雪のように。水に流され。風が運ぶ。大地が抱くように。火が燃やして。痛みが。痛み。ああだめ気休めにしか。
気休めでも、ほんのすこしでもっ。怪我なの病気なのそれとも。違いますこれは。まりょく。うつわがくだけてしまっている。くだけて、いえ。砕かれてしまっている。誰かに。誰がそんなこと。
そんなひどいことをどうして。できるはずがないそんなこと。
そうねできるはずがないわ。わたしたちはしっているわかっている。自我の崩壊すら招くその激痛を、拷問よりひどいそんなことを、誰が同朋にできるというの。誰が。誰が。でも誰かが。
いいえわたしたちはしっている。しっているはずだわ。だってこのこは。あのひこのこが。ろぜあくんといっしょに。たおれていたのをみつけたほごしたわたしたちはしっている。
しっているじゃないああどうしてどうしてきがついてあげられなかったんだろうどうして。なにもされていないはずなんてなかったのに。ごめんねごめんねいたいよね。いたいよねそきちゃんごめんねいたいよね。
ふぃおーれ、ふぃおーれおねがいはやくきて。らてぃ。おねがいはやくはやく。癒してあげて眠らせてあげて。はやく。はやくはやくはやく。
「ごめん! ごめんごめんただいまきゃああああああ! ソキちゃんええええなにこれぇ!」
「ラティ! はやくはやくフィオーレはっ?」
「ええええどうしようフィオーレこっちに来られないの! 城下にツフィアとロゼアくんがいて、フィオーレいまツフィアと、ロゼアくんみててそれで……! 白魔術師誰か一人フィオーレのトコに走って! 状況伝えて交代の段取り組んできて! えええぇっとメグミカさん? でしたよね? えっとえっとソキちゃんの片手貸してください眠らせるから……!」
えええええちょっとなにそれ城下でなにがあったの。わかんないツフィアに今聞いてるトコだからそっち行くのが一番はやいと思う。いいからフィオーレのトコ。はやくはやく。
慌ただしく走り去っていく足音と入れ違いに、軽やかな足音が近づいてくる。魔術師のそれというよりは護衛や、騎士たちの気配に近い。祈りのように手が繋がれる。ソキさま、ソキちゃん。声が呼ぶ。
ロゼアは、ロゼア。どうして。なにが。さわさわさわ。空気が揺れる。けひゅっ、と咳をして。めを、ひらいた。
「……ちゃ……ろぜ……あ、ちゃ……? どこ……?」
「ああ、ソキさま……! ソキさま、ロゼアは……ロゼアは、ああ……いえ、すぐ。すぐに参りますよ。メグミカがすぐ連れてまいります。ね? 大丈夫。大丈夫です、ソキさま……」
「……ろぜあちゃんは……いないです……?」
く、と悲鳴を殺すようにラティの喉がなる。メグミカの手から奪うようにソキの手を取り、握り、魔力が流しこまれる。痛みを堪え、己の正しさを信じた瞳が、泣きじゃくるソキの目をしっかりと見つめて、告げた。
「眠って。寝て、起きたら、ロゼアくんはいるわ」
「……いま、なんで、いないです……? ろぜあちゃ……ろぜあ、ちゃん……」
どこへいったの。どうしてそばにきてくれないの。いないの。おこってるの。あきれてしまったの。そきがまもれなかったから。そきがにげられなかったから。そきがこわされてしまったから。ろぜあちゃんの『 』を。そきが。
「うつ、くしい……『うつくしいものを紡ぎ、きよらかなもので包み、わたしは夢を織る。あなたは眠る。やさしい夢につつまれて眠る。痛みも、恐怖も、おいかけてこない。祝福の夢を、贈る。祝福で夢は満ちる』」
泣きながら、すぅ、と眠りに落ちたソキの手を、ラティが強く握り締める。てのひらが冷え切っていた。かなしいくらいに、それはつめたく。いくら包み込み、暖めようとしても、ぬくもりを宿してくれることはなかった。
投げ出されたままの砂が、おおきなてのひらに包まれるようすくわれる。さらさらさら、と砂の音。てのひらから零れ落ちて行く先は、透明な硝子でつくられた砂時計だった。さらさらさら。封じ込められて、ようやく、安心する。
さらさらさら。砂が落ちて行く。片側の砂が落ち切れば、ことん、軽い音を立てて逆さまにされる。また零れて行く、滑り落ちて行く。さらさらさら、さら。さら。ことん。さらさらさら。ことん。
飽きることなく、繰り返して。だいじょうぶだよ、と囁かれる。砕けていても大丈夫。砂粒になってしまっても大丈夫。だいじょうぶ。ちゃんと見つけて、包み込んで、愛して、守ってあげる。
だから怖がらなくていいよ。ソキ、ソキ、大丈夫だよ。痛くない。大丈夫。愛してる。あいしているよ。
赤褐色の瞳が、揺れる火の光を照らし返しながらゆるりと細まる。飽きることなく砂時計に触れ、さらさらと砂を流している男に、写本の修復をしている者から苦笑いが向けられた。
「――は、ほんとに、お姫ちゃんが好きだね……」
「はい、もちろん」
即答である。しかも、にっこり微笑まれた。数年前なら誰だお前はと寮長あたりからぬるい笑みを向けられそうな反応に、修復師は、己の魔術師としての属性と適性を投げうってまでその力を手に入れた男は、くすくすくす、と肩を震わせて笑った。
「それで、今日はどしたの? ごめんな、まだ修復は終わりそうにないんだ……」
「いいえ、謝らないでください、先輩。今日は……接続が強くなる日だと、メーシャが」
「希望の占星術師が……?」
接続、ねぇ、と首を傾げて修復師は言った。そういえば先日、お姫ちゃんが来たよ。指輪して本持ってたから、あれがきっとそうだね。目を細めて至福を抱き、微笑み、修復師は赤褐色の瞳の男に、告げる。
「あれが、俺たちの……消えゆくことを受け入れた未来の、繰り返し、巻き戻し、やり直し、積み重ね続けた可能性と、希望の至る過去で、未来だ。あのお姫ちゃんに、なにかあるってこと……だろうな。ええと、今日何月何日だっけ……?」
「……『学園』の生徒であれば、ちょうど」
す、と赤褐色の瞳の男が伸び、卓上に置かれていた暦を指差した。砂漠の民特有の、煮詰めた飴色の肌に包まれた指先が、とある日付けをとんとんと叩く。
「長期休暇の最中ですから、恐らく、このあたり。……ソキの器がもう一度砕けた日だ」
「ああ、そうか……そっか」
それでさっきから延々砂時計いじってるの、と視線で問われ、男はうつくしく笑みを深めてみせた。思わずにっこり笑い返した修復師に、太陽の黒魔術師は微笑みのままに告げる。
「きらきらしていて、かわいいので」
「う、うん……うん、そっか……?」
「はい」
やぁん。やぁ。はずかしいこといっちゃやです。そんなふうに、あわくあまい声で抗議するように。砂時計の中の砂に、ふわり、輝きが灯る。それに目を細めてさらにうっとりと、かわいい、と呟き、男の指がことん、と砂時計をひっくりかえした。
だから、と目を伏せて男は囁く。
「無理しないでいいんだ、ソキ。……待ってる。俺は、ずっと、ずっと、待てるよ。だから……」
そんなに急いで、痛くして。俺を助けようとしないでいいよ、と苦しげに、泣くように、囁いて。さらさらさら。落ちる砂粒を見つめながら。告げた。いまはもうすこしだけ、すなのまま、ねむっていような。
夢の中。誰かがそう、言ったので。ソキは形を思い出すことをやめて、さらさらさら、砂の音を。受け入れて、眠った。
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