今はまだ、同じ速度で 07

 おはなしがあるです、とソキがくちびるを開いたのは、星降城下から馬車が滑り出すように道をかけ出してすぐのことだった。

 それがまだソキやロゼアに声をかけてくる顔見知りや、先輩たちのいる『学園』や、星降の城下町に立っている時には、どうしても、どうしても告げることのできない言葉だった。

 はなしをしよう、と思うだけでも泣きだしそうに気持ちが震える。ひどくいけないことをしているような、そんな気持ちになった。それはきっと、ふつうのおんなのこ、ならしないことで。求めないことで。がまんしきってしまえることで。

 でもソキにはもう、どうしても、どうしても我慢ができないことだったのだ。

 窓を開け振り返れば、まだ乗り合い所が遠目に見えるだろう場所で、まだ市街地を出てもいない距離で、そう切り出さずにはいられないほど。ソキはもう限界だったのだ。

 自分ではじめたことなのだけれど。最高級の、恐ろしい程にふわりと体を支える座面に腰を落ち着けるよりはやく囁かれた言葉に、ロゼアはうん、と頷きを返してくれた。

 そのまま、ロゼアは正面に腰を下ろしたソキに微笑みかけ、頷いて言葉を待ってくれる。常にある通りの、記憶にある通りの、決して変わらないやわらかな眼差し、仕草、態度、声の色に、ソキはじわじわと泣きそうになり、緊張で指先の体温を失っていく。

 こんなにいっしょなのに。こんなに変わらないのに。皆も、ロゼアも、もう『傍付き』ではないというのだ。ソキのロゼアではないのだと。だからふつうにならなければいけないよ、と言葉で、あるいは声にされずとも、まわりがソキに求めていることをもう知っている。

 ふつうに。ふつうの、おんなのこに。あるいは、ふつうの、ひとみたいに。ロゼアに頼り切りではなく、ひとりで立って歩いて考えて。自立、しなければいけないよ、と誰もがソキに求めている。

 元『花婿』たる兄、ソキの担当教員たるウィッシュだけは、そんな周囲にごく僅か眉を寄せ、反発するようにそっと囁いたことがある。どうしてもって言うなら、俺たちはそれをした方がいいんだけど。

 ソキ、ソキ、俺のいもうと、『砂漠の花嫁』。その中でも最優のと囁かれ呼び謳われた『花嫁』。そう整えられつくり終えられてしまった俺たちは、もうどうしたってそういう風にはなれない。だから。でも。真似することはできるよ。

 まわりをよく見て。皆がしてるように。皆がしてることを。真似することなら俺たちにもできる。

 考えや言葉や仕草や、日常の、ほんの些細なこと。ひとつひとつ。見て、覚えて、あてはめて、真似をする。ソキ、俺にはもうフィアがいなかったから、誰も俺の『傍付き』を咎めなかったけど。

 ソキがもし、じぶんのことで、ロゼアになにか言われるのがもうほんとのほんとにヤなんだったら。ロゼアの為にそう育てばいいよ。俺たちはそれならできるよ。だってずっとずっとそうしてきただろ。

 『傍付き』の求めるまま、導かれるままに成長してきた結果がいまだよ。だから、そうするだけ。ほんのすこし、違うだけ。ロゼアの為だ、と思って。ふつうのまねをして。ふつうのふりをして。

 そうする為の努力をすごく、すごくして。がんばろうな。だいじょうぶ。俺にはできたよ。ソキにもできるよ。だいじょうぶ。

 それができるからこそ。ウィッシュは『花婿』と呼ばれ、ソキは『最優の花嫁』とされたのだ。だから、ソキにだって、ふつう、はできるのだ。

 そうする為にすごくすごく努力しなければいけなくて、今もまだ、なにもかもがたどたどしく、拙いのはどうしようもないことなのだけれど。ソキにだってふつうはできる。

 だからソキがもう、ひとりだちできないことについて。ロゼアが誰かからなにか言われたり、怒られたりする必要なんて、ないのだ。ぎゅう、と手を握って、もじもじとそれをしきりに組み換え、ソキは胸の中の言葉を拾い上げることができないでいた。

 だって、それはきっと、ふつうじゃない。『学園』で見知ったふつうは、ふつうのおんなのこは、きっとたぶん、ロゼアに、そういうことをお願いしたりしないのだ。

 けれども。『学園』はおやすみで。そこで出会ったひとたちも、今は傍にいなくて。ソキは、これからロゼアと『お屋敷』に帰るのだ。その休みが、その不在が。その、二人では決して戻ることのできなかった楽園、花園への帰りみちが。

 ソキから言葉を、響かせていく。

「あのね……」

 すきなの。すきです。ロゼアちゃんがすき。すきすき。すき。だいすき、だいすき。あなただけ。ひとりだけ。ロゼアちゃんが、ソキはずっと、ずっと、好き。大好き。恋をしている。恋しい。

「あの、ね……」

 けれども。それを。言うことは。できない。好き、なら言える。言っている。何度でも何回でも繰り返し告げている。でもそのすきは、『花嫁』のすきで。『花嫁』には、ソキには、それを言ってしまうことがどうしてもできないのだ。

 恋告げるのは裏切りだ。『傍付き』に対する、『花嫁』の裏切り。しあわせになってと遠くへ、とおくへおくりだしてくれる、その為に育ててくれる彼らに対する。なによりの、どんなことよりひどい、決してしてはならない、裏切り。

 『花嫁』として完成された心に、授けられた教育が囁く。それは裏切り、それは罪悪。その言葉を決して告げてはならない。すきも、だいすきも、だいじょうぶ。でもそれが恋だと言ってはいけない。決して、決して、絶対に。

 でも。もし。そう告げたとして。

「……あのね」

 ロゼアは、『傍付き』は、『花嫁』に恋をしないので。ロゼアをしあわせにできるおんなのこに、ソキはなれないのだけれど。この恋が、どこへいけないことも。報われないことも、ソキはちゃんと知っている。分かっている。

 その恋をした瞬間から。ふつうになりたかった。ふつうになればロゼアはもう怒られない。ふつうの、おんなのこに、なりたかった。そうすれば。そうなれれば。きっと。

「んと……」

 この恋が受け止めて微笑んでもらえる日が来るのかもしれない、と思って。そのたびに否定して。ソキは、また、その言葉を飲み込んだ。息を吸う。ふるえるほどの恋を胸の奥に沈めて。ふつうにならなければいけない、という焦りと。

 ふつうになればもしかしたら、という期待を。深く深く、心の奥に沈めてしまって。何度も、何度も迷いながら、またくちびるをひらいた。どれもこれも、本当に、真剣に、思っていることなのだけれど。

 それでも『花嫁』として、ソキは、もうほんとうのほんとうに、限界だったのだ。ろぜあちゃん、と呼びかけるソキに、ロゼアはうん、と頷いて言葉を待ってくれている。常にそうであったように。ロゼアはずっとソキを待ってくれている。

 なにも変わらない。『お屋敷』にいたあの日々と、同じ。

 なにも変わらないようであったから。ソキはようやく、震える意思をなだめすかし、ようやく、吐き出す息に、言葉を乗せた。

「ろぜあちゃん、あのね……。あのね、あのね。おねがいが、あるですよ……」

「うん、いいよ。なに?」

 体温を失った指先に、ロゼアはそっと息を吹きかけ、暖めようとしてくれた。緊張ですぐにつめたくなってしまうソキの指を、ロゼアは大事に繋いで、触れてくれている。

 馬車の中はどうしているものか、暖炉の前の空気を巡らせているような、やや熱い空気がやわやわと巡り循環していたが、十二月の底冷えのする寒さだ。熱が指先に戻るには、もうすこし時間がかかるだろう。

 ロゼアの手指は暖かい。じわじわとした熱を指先に感じながら、ソキはうるむ瞳でロゼアのことを見つめた。いつもいつも、こうして、たくさんのものを、ソキはロゼアから奪ってしまうのに。

 それはきっと、ふつうなら、ないことなのに。ロゼアはソキから離れようとはしない。

 そのことが、ふるえるほど、しあわせだとおもう。ソキの為にたくさんのものを奪われて、それでも、傍にいてくれようとした。それでも、傍にいてくれたロゼアという存在そのものを。しあわせだと思う。

 ロゼアは、ソキの、しあわせだ。しあわせをそこへ残して。『花嫁』は嫁いで行く。ソキはあわく微笑み、くちびるをひらいた。

「ソキね。ソキね……流星の、夜からね。ずっと、がんばってたです」

 ひとりでなんでも、たくさん、できるようになったですよ。告げた言葉に、ロゼアは苦笑しながらも、そうだな、と頷いてくれた。それに、んと、と呟いて。ソキはいっぱいに満ちた気持ちをどうすることもできず、声に詰まって言葉を彷徨わせた。

 もしも。ひとりでできること、がふつうで。それをロゼアがとても喜んでいたとしたなら。ソキの望みは叶えられない。せつなく胸が痛んだ。その望みが叶えられないことがあるとしたら、ソキはいきていけない。

 いきてなんていけない。いまはまだ。どうしても。そうすることができない。

「……えっとね」

 ロゼアは、ソキの言葉を待ってくれていた。やさしい眼差しで、微笑みで、手を繋いだままで。ソキの冷えた指先では、てのひらがつめたくなってしまうのに。

「ロゼアちゃん……」

 そのねつが、どうしても。

「ロゼアちゃん、あのね……あのね、あのね」

 ほしい。

「あのね……」

 そのなかへかえりたい。どうしてもどうしても。

「……ロゼアちゃん。おやすみなんですよ」

「うん。そうだな」

「だからね、ソキね、ソキね……ソキもね、ちょっとだけね、おやすみなんですよ。だから……だから、えっと、あのね……あのね」

 かえらせて。

「だっこして……?」

 その腕の中にかえりたい。

「ぎゅってして、ロゼアちゃん。だっこして? ソキ、ひとりでがんばるの、おやすみするですよ……」

 いいよ、という声が聞こえた気はしなかった。それより早く伸びてきた腕がソキを座面からさらい、あたたかな熱の中へ抱き寄せてくれる。はぁ、と深く、満ちた吐息が耳元に触れた。

「……ろぜあちゃん?」

 それはきっと、ふつうなら。ふつうの、おんなのこ、なら、のぞまないことなのだけれど。それでも叶えてくれるのは、どうしてなんだろう。ぱちぱち、目を瞬かせて考えかけて、けれども胸一杯に満ちる幸福に、なにもかも分からなくなる。

 しあわせだった。うれしかった。ロゼアがソキを抱き上げてくれた、『花嫁』と呼んでくれた日から、その瞬間から、ずっと。ソキのしあわせはロゼアの腕の中にある。体の力をぜんぶ抜いて、ソキはすりすりすり、とロゼアに甘えて、くっついた。

「――……ソキ」

 ロゼアのてのひらが、ソキの頬をそっと撫でてくる。眩暈がしそうなくらい、しあわせなのに。泣きそうになって、ソキはすん、と鼻をすすりあげた。声を震えさせながら、ちいさく首を傾げて問いかける。

「あまえてもいい、です?」

「いいよ」

 きゃあ、と思わず歓声をあげて、ソキはロゼアの首筋にしがみつくように、ぎゅぅ、と腕に力を込めて抱きついた。すりすりすり、肩口に頬を擦りつけてあまえて、ろぜあちゃんろぜあちゃん、と呼ぶ。

「あのね、あのね。ソキがんばったんですよ。でもね、あのね、ちょっとだけね……」

「うん」

「……ちょっとだけ、さびしかったの……ろぜあちゃん、ろぜあちゃんっ。ソキうれしい、うれしいです……!」

 だっこしていっぱいだっこして、ぎゅぅってしてなでて、いっぱいなでてねえねえろぜあちゃんろぜあちゃんっ、すきすきだいすきだぁいすき。ふあふあふあふあ響く上機嫌な声で囁くソキに、ロゼアの手がそっと、背を撫で下ろしていく。

 はぁ、と息を吐き出して、ソキはロゼアの腕の中で目を閉じた。この腕の中へ、このねつのなかへ。『花嫁』は、ソキは、どうしても、どうしても。かえりたかった。

 ずっとずっと、かえりたかったのだ。

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