ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 06
ストルさん、と蜜のような声が男の名を呼ぶ。さらりと水に溶ける甘露のような。きよらかで、透き通っていて、ほんのりと甘さを漂わせる。そんな、やわらかな、声だった。
「ストルさんは……もう、新入生さんに、会った?」
それが、拗ねた風に、つまらなさそうに空気を震わせるものだから、ストルはすぐ、少女の不満に辿りつくことができた。なるほど、と笑いながら膝立ちを止めさせ、脚の上に座り直させながら、ストルは楽しげにリトリアの目を覗き込む。
「会いたいのか?」
「……ストルさんは、会った?」
ずるい、と言いたげに服を引っ張られて、ストルは僅かばかり考え、否定の形に首を振った。
「会ってはいない。遠目に見ただけだ。……彼女は、確かリトリアと同じ階だった筈だが」
「えっ」
寮は、魔術師の適性によって部屋を与えられる階が違っている。白魔術師と占星術師は二階。黒魔術師と、錬金術師は三階。四階はそれらに該当しない者。
予知魔術師、時空魔術師、召喚術師、言葉魔術師。大戦争時代、相手方に存在すればただの一人で戦況をひっくり返し、脅威とされた適性を持つ者たちが、まとめて四階に放りこまれることになっている。
その数は、脅威とされる恐れに反比例するかのように、ごくごく少ない。稀な、希少種とも呼ばれる魔術師たちの住処が寮の四階である。そこへ、新入生は入ったという。
寮長が確かそんなことを言っていた気がするんだが、と呟くストルに、リトリアはえっえっと混乱しながら頭を巡らせた。
そういえば数日前に隣の空室がお掃除されていたようなされていなかったような。そしてやっぱり数日前から、そこで誰か生活しているようなしていないような、気がするのだが。するのだが。
じわわわっと浮かんでくる涙をストルの服に吸い込ませながら、リトリアはすん、とちいさく鼻をすすりあげた。
「どうしよう、ストルさん……私、ちがうの……ちがうの、気がつかなかっただけなの……!」
リトリアが与えられた部屋に戻っているのは、ほぼ夜に眠る時だけのことである。私物を取りに立ち寄ることはあるのだが、その他の時間は全て、部屋の外で過ごしていた。図書館か、中庭の隅か、談話室か、食堂。
この四つがリトリアの生活、および移動範囲であり、部屋はあまりそこに含まれていないのだった。夜も談話室の、ストルの傍で眠ってしまうことが多く、夜も更けてから部屋まで送ってもらう為、本当に分からなかったのである。
今日は、とリトリアは、ストルにぺったり体をくっつけたままで言った。
「夕ご飯を食べたら、お部屋に戻ります。それで、ご挨拶するの……!」
「そうするといい。……俺は談話室にいるから、寂しくなったら、おいで」
夜に顔を見ないでいるのは久しぶりのことかも知れないな、と微笑するストルに、リトリアはそわそわと視線を彷徨わせて。のち、そぅっと、おやすみなさいは言いに来ますね、と告げた。
少女の髪を、指先でしっとりと撫でつけて。待っている、とストルは、腕の中の少女へ囁き落とした。
図書館の傍にある巨木の根元が、リトリアのお気に入りの読書場だった。そこにはリトリア用の椅子まで置かれている。
木の根に腰かけて本を読んでいることを知ったストルが、体のどこかを痛めるかも知れないだろう、と心配してなないろ小路で買ってきたそのちいさな椅子は、腰かけも背もたれも木で出来ているというのにクッションのいらない柔らかさで体を受け止め、夏にはひんやり、冬にはぬくもりを宿す魔術具の一種だった。
錬金術師の一点ものであるという。読書をするたびに運んでくるのは骨が折れるので、主に雨ざらしになっているのだが、不思議と汚れもつかないし、砂まみれになることもない。
ただ、淡い光だけを受け止めて、古木の葉のざわめきと共に、常にやさしくリトリアを迎えてくれた。
そこへ腰かけ、リトリアは黙々と本を読んでいた。物語の類ではない。これから学ぶ魔術師としての授業を受ける為に必要な、大戦争から今日に至るまでの歴史書だった。
難しい一文は何回も繰り返して読み、時には文節を遡り、理解できるまで考えるものだから、読み進める速度はひどく遅くなる。木漏れ日の角度が変わる頃、ようやく一枚紙をめくり、リトリアは目をすがめ、ぱしぱしと瞬きをした。
頭上を風が通って行く。嵐の前のように揺れ動く、騒がしくも心地良い葉の擦れる音を聞いて、リトリアはのんびりとあくびをした。自然の中の空間。
ひとの気配と声のない場所は、なぜだかひどく懐かしく、心地よく、安心することができた。図書館の中は、リトリアにはすこし窮屈で、不安に思える。
幼い時分から文字を読むことが得意だった。ろくに教えてもいないのにどうして、と不安がる声。手の届かない高さの書棚。床に落ちる影を揺り籠のようにして眠った。しんしんと降り積もる不審と不安。
今日はこれを読んだの、これを読めるようになったの。褒めて、お願い、一度だけでいいの。いいこにしているから。ひとりでもちゃんといいこにしているから。差し出した本ごと振り払う手。
後悔と懺悔に満ちた目が向けられる。書棚の海でまどろむように目を閉じる。古い紙とインクと埃の匂い。暖められた、それでいてひんやりとした空気。広すぎてどこにも体を落ち着かせることができない。
夜は怖くて眠れなかった。だから昼に。誰もいない場所を探して、誰にも見つからない場所を求めて。ひとがいる場所はこわい。これは誰の感情。これは誰の記憶、思い出。
浮かびあがっては泡のように消えて行く、それすら、白く白く塗りつぶされて行く。再び。白く。
世界が息を吸い込むように風が吹いた。緑のままの木の葉が一枚、開かれたままの本の上に落ちる。ぼんやりと瞬きを繰り返して、リトリアは眠たげな仕草で首を振った。今日は、どうも調子が悪いらしい。
気持ち悪いくらいに魔力がざわりと揺れていた。不調になる程の影響はまだ出ていないが、落ち着かない気持ちになる。思い出せない筈のなにかを、蘇らせてしまう気がする。
体の芯がすぅと冷えた気がして、リトリアはくちびるの動きで、ストルの名を呼んだ。あの温かな腕の中でまどろんでしまいたい。ゆるゆると体を温めてくれる熱。安心して身を寄せられる場所。
そこにリトリアが、いても良いと思える、おそらくは初めての。
風の吹く音が聞こえる。花散らす風の音。ひやりと水を抱く空気が雨の前兆を教える。見上げた先の曇り空。やがて叩きつけるような雨が降るだろう。土穿つ雨は緑の葉を千切り、それは窓に叩きつけられて叫び声をあげる。
リトリアはそっと目を閉じた。降り積もる確信をストルに告げたことはない。こわかった。もし拒絶されたらと思うと、息を止めてしまいたい気持ちになる。こわい。怖くて悲しくて仕方がない。
けれど、傍にあるたび、抱きしめられるたび、名を囁かれるたびに。漆黒の、ただ恐ろしいばかりであった夜に似た瞳に、見つめられるたびに想いが降り積もって行く。このひとだ、と確信的に本能が告げる。
このひとだ、このひとが。このひと以外には誰もいない。世界でたったひとり、このひとが。
風に流れてきたざわめきに、リトリアは視線を図書館の出入り口へ投げかけた。そこで行われていた座学が終わったらしい。幾人かが親しげに肩を並べて寮の方角へ歩き去って行くのを眺め、うんと伸びをしてから、リトリアは読書へ戻ることにした。
この本も、あともうすこしで読み終わる。そうしたら、図書館へ返して、また新しく一冊を借りて、ストルさんの所へ行って。読み終わりました、次はこれです、と言うたびに髪を撫でてくれる手が、今はどうしても欲しかった。
また褒めてくれるだろうか、と思いながら数行を読んで、リトリアはある記述に目を止める。指先でその一行をなぞりながら、声に出して読んだ。
「その武器は、彼の恋人の為に作られた。たったひとつ。……命を失わせる為だけに。痛みはなく。ただの一瞬で」
魔術師を『選ぶ』武器についての章。文字はただ淡々と、書き連ねられていた。
『選ばれる者は男であり、女であり、ありとあらゆる適性の魔術師であった。残された書物は少なく、選ばれた者たちに共通項はない。ただ、一点、共通していることがあるとするならば、それはこの武器が命を奪った者は全て』
続きは、読まなくても分かっていた。リトリアは目を伏せ、数行を飛ばして読み進め、本を閉じた。さあ、本を返しに行かなければ。ふあ、とあくびをしてリトリアが椅子から立ち上がろうとした。
その時だった。
強風がリトリアの真正面から吹きつけ、少女はぎゅぅと目を閉じた。しばらく、身動きができないくらいの風。収まるまで待って、リトリアはそろそろと目を見開き、息を飲んだ。
いつの間に、歩み寄ったのか。目の前に少女が立っていた。濃い褐色の肌に、散らばる髪は星の眠る夜の漆黒。手折れそうな華奢で、ほっそりとした体を、真新しい服とローブが覆っていた。
火の、ような。赤い瞳が、リトリアをまっすぐに見ていた。
「……っ!」
告げる言葉もなく。リトリアは少女に向かって手を伸ばしていた。嬉しかった。嬉しくてたまらなかった。それは花揺らす風。それは花満たす雨。そして、花咲かす光。降り注ぐ祝福とそれに折りこまれた音楽。
世界を満たす旋律と、同じものがリトリアの中で告げる。会えた。巡り会えた。この世界で、たったひとり。私を、まもってくれる、ひと。
「……あなたが」
言葉は続かなかった。伸ばした手が動きを止め、凍りついたように立ちつくす少女の服の端を掴む。リトリアは椅子から立ち上がり、少女の前に立った。
下から顔を覗き込むようにすると、少女はそれを拒絶するかのごとく、つよく瞼を閉ざしてしまう。声もなく。
リトリアから顔をそむけて、少女は、泣いた。
少女の名がツフィアといい、今年入学してきた新入生であること。
そして、言葉魔術師であることを。リトリアはツフィアに手を振り払われ、走り去られた後、迎えに来てくれたフィオーレに教えられて、ようやく知った。涙の理由も分からないまま。
払われた手の痛みに、動けないままで。
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