君はスピカ 06(終わり)
その熱にいつまでも触れていたいのに、これ以上はもうどうすることもできない。がまんができない。ひどいわがままを言ってしまいそうになる。制御を忘れた喉が悲鳴そのものの響きで声を奏で、咳き込み、歪ませる。
ふるふると首をふって、ソキはロゼアからくるしく、視線を外した。
「でも、ソキは、ロゼアちゃんを……こまらせますよ」
「どんなふうに?」
すこしだけ、笑みを滲ませる声が。ソキ、と呼んでいるのが分かった。こっちを見て、と求められている。その意志にどうしても、ソキは逆らうことが出来ない。怖々と視線を戻した先、赤褐色の瞳はいとおしげな色に揺れていた。
ソキ、とロゼアが名前を囁く。繋いだ手がやわやわと、ソキの指先を温めていた。
「体調悪いのに動きたがることとか?」
「……ろぜあちゃん、困ってたですか?」
ソキはてっきり、ロゼアが『傍付き』としての過保護をこじらせているだけ、だと思っていたのだが。きゅぅ、と眉を寄せて問うソキにあまく笑みを零し、ロゼアは跪いていた姿勢から、ゆっくりと立ち上がった。
そのまま、ソキの隣に腰を下ろす。てのひらを包んでいた手が片方だけ離れて、ソキの頭に触れた。そっと、そっと、撫でられる。
「困ったうちに入らないよ。……ソキと一緒にいて、困ることなんてなにもない」
指先が地肌に触れ、髪の毛に触って撫で下ろして行く。何度も、何度も、ロゼアはソキの髪を梳いて行く。やさしい眼差しを瞳に絡ませたまま、何度も、何度も。髪を指先に絡め、梳き下ろし、頭を撫でて、頬に触れる。じわじわと熱が広がっていく。
その熱からどうしても、離れられない。
「ろぜあちゃん……」
あまく、ゆるみ。じわじわ、ひろがって、ほどけて、とけていく。
「ろぜあちゃん、ろぜあちゃん……」
「……ソキ」
「さわって……」
もっと、たくさん。なでて。無意識に、だろう。やわやわと動いたくちびるが囁きを落とす。泣き濡れた宝石のようにあまく、とろとろにほどけて揺れる瞳は、ロゼアだけを見ていた。
ソキの腕がもちあがり、ロゼアの服を摘んで、体が寄せられる。するりと首筋へ腕が回された。つよく、つよく、すがりつく。
「好きです。すき……すき、ロゼアちゃん。ろぜあちゃん……」
泣く、ように。
「だいすき……」
ソキは、そう告げた。ロゼアはソキを抱き寄せ、変わらぬやさしさで髪を撫でながら、どこか安堵したように息を吐く。
「俺も好きだよ」
「はい……知っていますよ」
好き、と告げれば。好きだと、返してくれることを、知っていた。
「しって、た、ですよ……」
ロゼアの手がソキの頬を撫で、首筋に押し当てられ、指先が地肌に触れ、そのまま髪を撫で下ろした。慣れ切った仕草で髪を撫でた手が、ふたたび、頬を包み込む。目を閉じたソキの額に、ロゼアの額が重ねられた。
くちびるがすこしだけ、震えた。
「ソキ」
「……はい」
瞳を開く。赤褐色の瞳は、いつもと変わらず。ただソキのことを、見つめていた。
「もう寝よう。話は、また明日」
「はい。ロゼアちゃん。……ソキ、ここでねても、いい?」
「もちろん」
ロゼアの手が、ソキが眠りやすいように体を抱きなおす。その手に、熱に、全身が痛いくらいにあまくしびれた。きゅぅ、と眉を寄せるソキに、ロゼアはおやすみ、と囁く。おやすみなさい。呟いて、ソキは目を閉じた。
火のような熱に包まれている。溶けて解けて消えてしまいそうな熱に。
ずっと、ずっと、抱かれていた。
意識は嵐に翻弄される木の葉のように押し流され、ソキは真夜中に目を覚ます。くちびるが乾き切っていた。息を吸いこむ喉が渇いた咳をする。
頭と、体中が、びりびりして、いたい。熱が出てしまったのだ。ロゼアはそれを知るようにソキの全身に毛布をまき、包み込むようにして抱き寄せていた。
また、しんぱいさせて、しまう。あつい指先でロゼアの頬に手を伸ばしかけ、触れる前に、ソキはそれを弱々しく握りこんだ。ロゼアはよく眠っている。起きる気配など感じ取れないくらいに。くちびるに力を込めた。
ごめんなさい。何度でも何度でも、囁く。目を伏せた。それが発動するまで、一瞬しか、なかった。不安定な魔力が揺れ動く。抱き寄せるロゼアの腕はソキを守るように回されている。その熱が、魔術の起動を正しく助け、導いた。
ゆるく、ゆるく、恒常魔術が巡りはじめる。ほっとしてソキは、全身から力を抜いた。これは、もうだめ、と言われていたけれど。明日の朝に終わりにしてしまえば、きっと誰にも、分からない筈だった。
眠っている間に体は回復を終えるだろう。これでまた動けるようになる。これからはそうしよう、と思った。眠っている間だけ、巡らせておけばいい。誰にも分からないように。そうしなければ、体がきっと、ついていかない。
さらさらさら。体の中で音がする。砂の音だった。砕けたそれが、一生懸命、魔力を導き動く音だった。くらやみの中で眠る為に目を閉じる。さらさらさら。音がする。体が奇妙に冷えて行く。抱く腕だけが熱い。
火のように。太陽のひかりのように。熱を灯し暖めてくれる。ソキの体はどこも動かないのに。冷えた指先は自由にならないのに。
だめだ。だめ、だめ。はやくはやくうごけるようにならなくちゃ。はやく。そうじゃないと、またろぜあちゃんが。ろぜあちゃんが、あの、男、に。
「……ソキ」
ためいきが、ひとつ。瞼の裏側で囁くような声がする。首筋に手が押し当てられた。それを怖いとは思わない。だいじょうぶですよ、とソキは思う。安心していてね、ロゼアちゃん。
ソキはちゃんと動けるようになります。それで、今度こそ。ロゼアちゃんを、守るから。
「ソキ……ソキ、ソキ」
てのひらが、頬を撫で、髪を梳き、また首筋に押し当てられる。額が重ねられた。吐息が肌を、撫でる。
「……駄目だって、言っただろう」
だいじょうぶですよ、と眠りの中でソキは囁く。大丈夫です、ロゼアちゃん。これは、これだけは、ソキが砕かれていても使えるの。だって、これは、この魔術は。あの男が、ソキの、器と『 』を壊した時に。その時に。
「ソキ」
咎める声に、ふっと発動が途切れてしまうのを感じ取る。ふわふわの意識が火の熱に抱きとめられ、ゆるくゆるく、暖められていくのを感じた。思考が形を成さずに消えて行く。
ソキは、今度こそ、朝まで目を覚まさなかった。
けふん、と乾いた咳の止まらないソキの為に、ロゼアはレモン水を温めに席を立っていた。蜂蜜をいれて暖めたのち、ぬるくなったものがソキには与えられる。熱くても喉を痛くしてしまうし、冷たければひえた体温が熱を呼び起こすだろう。
けふん、ともう一度乾いた咳をしてくちびるに両手を押し当てたソキに、隣に座っていたメーシャから、心配そうなまなざしが向けられた。
「風邪……じゃ、ないんだよな。ごめんな、ソキ。もしかして昨夜、よく眠れなかったりした……?」
図書館の様子を見に行きたいのだと、朝食をかきこんだナリアンはすでに席を立っていたから、広めのテーブルにはメーシャとソキしかいなかった。だからこそ、声をひそめながらも、メーシャはソキに尋ねたのだろう。
ロゼアはもうすこし、戻らない。ソキはくちびるに指先を添えて、咳を我慢したまま、ふるふるふる、と首をふった。
「そき、ちゃんと、ねた、です、よ」
「そっか。それなら、よかった。……今日は、ソキ、授業はどうするの? 休み?」
「……おやすみするです」
不満いっぱいの顔で告げるソキに、メーシャはおや、と目を見張った。いつもなら休みたくないと、もうすこしだだをこねるのだが。今日に限ってやけに素直である。どうしたのかな、と思うメーシャに、ソキは弱々しく息を吐きだした。
「そきね……ろぜあちゃんにね……だめっていわれてたの、しちゃったの、ばれちゃったんですよ……」
「……怒られたの?」
「メーシャくんはなにを言ってるです? ロゼアちゃんは、ソキを怒りませんよ」
それをなぜか椅子の上でふんぞりかえってこころゆくまで自慢げに言い放ったのち、ソキはふにゃぁ、と落ち込んだ様子で視線を彷徨わせた。
「ただ……朝、起きたら、ですね」
「うん」
「駄目だって言っただろ? ソキがそうするなら、今日は俺も、ソキのだめ、聞かないよ、って……」
それでもう本当にごはんに起きるのだけはいいよって言ってくれたですが、授業出るのも本読むのもお勉強するのも、ぜんぶぜんぶ、うん、俺は今日は聞かないよって言ったろって聞いてくれないです、とソキはしょんぼりして、机の端を意味もなく指先でつっついている。
うーん、と遠い目をして、メーシャは苦笑した。ソキが言うほど、ロゼアは普段から言うことを全部聞きいれてくれている、という訳では、じつはまったくそんなことがないのだが。
やぁん今日ロゼアちゃんいじわるさんですぅ、と涙ぐんで拗ねるソキには、いまひとつ、そのあたりが分かっていないらしい。メーシャは手を伸ばして、ぽんぽん、とソキの頭を撫でた。丹念に櫛梳られたのだろう。
今日も、ソキの髪はふわんふわんで柔らかかった。
撫でられて、きょとん、としたのち、ソキは嬉しそうに笑う。
「メーシャくん」
「うん」
「明日、メーシャくんが、今日はなにしていたのか、教えてくださいね」
おはなしするですよ、とはにかむソキに、メーシャは柔らかく目を細め。そうだな、と言って視線を持ち上げた。ちょうど、ロゼアが早足に、こちらの方へ戻ってくるのが見える。
「……うん。そうだな、ソキ」
「メーシャくん?」
「話をしよう。これから、たくさん。……ゆっくり、ともだちに、なろうな」
ともだち。その言葉をどこか不思議そうに口の中で呟き、けれどもソキは昨日よりずっと嬉しそうに、メーシャに対して頷いた。おともだちになりましょうね、メーシャくん、と、ソキがはじめてその言葉を返す。
そうだね、とメーシャは笑い、戻ってきたロゼアに譲る為、座っていた椅子から立ち上がった。
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