楽園は迷宮の向こう 03

 なにせ全力で嫌がるのである。気位の高い猫が、触るんじゃないと全力で威嚇するさますら思わせる反応だった。定期的にじゃれて魔力を確かめ、安定させてやらなければ体調をおかしくしかねないので見守っている、のも本当なのだが。

 半分くらいで、もう半分は純粋に趣味である。それが分かって、気に入らないのだろう。やだやだやだ、と駄々をこねる顔つきで、ウィッシュが寝具に頬を擦りつけた。

「ロリエスさんは?」

「麗しい俺の妖精は、今日はもう花舞に帰った」

「だんわしつ、いかなくていいの」

 そういえばいまなんじ、と気にするウィッシュに、寮長はちらりと机の上にある置時計に視線を走らせ、時間を告げてやった。夜の十時半。遅い時間だが、まだだいたいの寮生は起きている。

 いいの、と視線で問うウィッシュに、寮長はたまにはな、と笑ってやった。

「いいんだよ。なにかあった時の対応はガレンと……ユーニャに任せてある」

「ゆにゃ。……ゆにゃ、げんき? さいきん、あんま、はなしてない」

「話してやれ。今日も心配してたぞ。……夕方には顔も見に来てた」

 わかった、とふにゃふにゃ頷いて、ウィッシュはとろとろと目を閉じた。ふぁ、とあくびがもれていく。眠ってしまいそうな仕草に、寮長は片手でウィッシュを撫でながら、膝の上に放置していた本を指先で開いた。

 しばらくすると、声がかかる。

「なに、よんでんの……?」

「砂漠の歴史」

「……なんで?」

 心底怪訝そうな声に視線を文面から移動させれば、ウィッシュがじっと寮長のことを眺めている。寝ろ、とは言わず、目を閉じてろいいこだから、と囁いてやれば、『花婿』はほやほやした笑顔で頷いた。

 体調が多少良くなったとしても、保健室に移動させる気にはならなかった。誰でも訪れる場所で、この存在を眠らせる気にはならない。ずっと傍にいるにも、自分の部屋が一番都合がよかった。

 ウィッシュの手がそーっと、そーっと伸ばされ、座る寮長の服の端を摘み、握りこむ。その手をぽんぽん、と撫でて触れる仕草を許してやれば、ウィッシュはふにゃぁ、とうれしそうにうれしそうに笑って。

 ひとつ前の疑問を忘れてしまった様子で、ふわり、瞼を下ろしてまどろみはじめる。もう一度、眠ってしまうことが出来ればいいんだが。起き続けているのは体調に負荷がかかり、ただでさえ弱い回復力をゼロにすら近くしてしまう。

「きいて、くれれば、いいのに」

「……うん?」

「さばくの、れきし。くわしいよ」

 ウィッシュは瞼を下ろしていた。さらにやわやわと響く声は聞き取りにくいが、シルはほっと胸を撫で下ろす。この様子ではまた眠りにつくことが可能だろう。そうか、と頷きながら手を伸ばし、頬の熱を覚ますように手を押し当ててやる。

 ウィッシュは大きく息を吸い込み、ぐたりと寝台に身を沈めて行く。手を伸ばしてずり落ちていたかけ布を肩までかけ直し、ぽん、と体を叩いてやる。

「……ふぃあが、おしえて、くれたから。ちゃんと、ぜんぶ、おぼえて……」

「そうか。偉いな、ウィッシュ」

 じゃあ教えてもらいたい所があれば聞くことにする、と告げてやれば、ウィッシュはうっすら目を開いて微笑んだ。うん、とくちびるが音もなく綴る。うれしい、と瞳が告げていた。ゆらめく赤い瞳。

 薄紫の夜明けに差す一瞬の、花弁のように鮮やかな赤だった。それでいて、瓶に詰められたジャムにも似ている。芳しく、あまく。香りが漂うようないろ。一心に好きだと告げてくる輝き。ふわふわした声でウィッシュは囁く。

「……シル」

 握られたままの服が、くい、と弱く引っ張られた。

「さわって」

 体調の悪い時のそれが、おやすみなさいって言ってキスして、というのと同じ意味だと、もうすでに知っている。苦笑しながら寝台に手をつき、身を屈めて、シルはそっとウィッシュの顔を上向かせた。

 口唇を片方の頬に一度だけ触れさせ、額に押し当てて離れようとすると、ウィッシュがぐっと身を寄せてくる。なにをするかはすぐに分かった。避けようと思えば十分に避けられたのだが。

 仕方ないな、と苦く笑んで、シルは口唇を啄み離れて行くウィッシュのくちびるを、受け入れ許してやった。はふ、と満足したらしいウィッシュが、枕にぽすりと頭を乗せる。

「ゆめ、みたく、ないな……」

 過去の記憶は体調を悪くすると、必ず、ウィッシュのことを捕まえに来る。うんざりしたように告げるウィッシュの頭を、寮長はぽんぽん、とやさしい仕草で撫でてやった。

「……あんまりうなされてたら起してやる。傍にいるから」

「じゃま、だったら、て、はずして」

 うとうととまぶたを閉ざし、ウィッシュはようやく深く息を吸い込み、吐きだした。おやすみ、と告げながら寮長は服を掴んだままのてのひらを見下ろす。いつもなら本当に眠ろうとする時は自分から外して行くので、これは本当に夢見が悪かったのだろう。

 どんな夢を見ているのか、知っている。可能なら夢のない眠りを送ってやりたいのだが、占星術師ですら可能なのは『夢を見せる』ことであり、『夢を見ない眠り』というものを与えるのはどの適性を持つ魔術師にも不可能なことだった。

 あるいは言葉魔術師、予知魔術師なら可能なのかも知れないが、前者は頼める相手でもなければ距離にもおらず、後者はそうさせられる体調ではない。

 あっけなく夢へと戻っていたウィッシュを眺め、シルは読んでいた本に指先を乗せてしおり代わりにし、目を閉じて深く息を吐く。

 ウィッシュは確かに『花婿』だ。これを得る為に多額の金銭を支払い、さらに存命の間中、砂漠に対して『援助』は続けられる。知らなければ理解ができないことだが、知ってしまえば、その価値は十分すぎる程だった。

 ひと部屋に閉じ込めて、誰にも会わさないで、自分だけのものにしてしまいたい。その気持ちが分かってしまえる程、彼らの囁く声は甘く、好意は蜜のように、体の芯まで染み込んで行く。それを得る為なら、なんでもする者もいるだろう。

 寮長は頭を抱え込むように髪を手で乱し、真顔で目を細めてロゼア意味わからん、と心から呻いた。ソキがロゼアに対して囁く名も、好きも、向ける瞳もウィッシュと同種か、あるいはもっと甘くふわふわしているものである。

 ひとりでは上手く歩けもしない存在が、自分の腕の中にだけ望んで抱きあげられるのだ。やわらかな体が全てを預け、首に腕を回して抱きついてくるのはさぞ可愛いだろう。

 ちいさな体いっぱいの愛で、好意で、好き、と告げられ名が呼ばれる。それにロゼアは涼しく、うん俺もだよ、と答えるだけだ。

 部屋に閉じ込めたいとか自分一人のものにしたいだとか、誰にも見せたくないとか、あるいは見せつけておきたいとか、そういう独占欲は微塵も感じられない。『傍付き』はそういうものだという。ソキは言っていたし、ウィッシュも苦笑していた。

 彼らは『花嫁』に、『花婿』に愛を抱かない。恋だけは決してしない。独占欲を持つことはない。それでも愛おしくて恋をして今でもずっと好きなのだと。ウィッシュはいつか、囁いていた。

 ロゼアまじ意味分からん、ともう一度呻いて、寮長は眠るウィッシュを見る。健やかに眠っているように見えた。呼吸も安定している。けれど、服を握っていた指先が、白く震えるほど、力を込めていた。

 ぽん、と手に触れてやる。ぽんぽん、ぽん、と触っていれば、ゆるくゆるく力は抜けていき。

 やがて、爪先に血の色が戻った。

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