楽園は迷宮の向こう
楽園は迷宮の向こう 01
かなしい気持ちで目を覚ました。
耳の奥では未だ、夢に聞いた柔らかな声が響いている。それを失いたくなくて両耳に手をそえ、ぎゅぅと体を丸くして息を止める。しあわせになってね。しあわせになってね、ウィッシュ。
大好きだよ、私の、たったひとりの、『花婿』さん。
「ふぃあ……」
シフィア、という少女の名を。己の『傍付き』の名を、ウィッシュはいつからかそう呼んでいた。呼ぶたび、シフィアはひどく誇らしげで幸せそうな笑みを浮かべて、なに、とウィッシュに手を伸ばしてくれる。
やさしい手は頬に触れ、肌を撫で、髪を指先で梳いて行く。首筋を温めるようにてのひらが押し当てられた後、また頬に触れ、額が重ねられて目の距離が近くなる。何度も、何度もそうされたことを覚えている。
その手の熱を、優しさを、喜びを、安堵を、愛おしさを。恋を覚えている。ウィッシュは息を吸いこんで、弱々しく瞼を持ち上げた。そこに誰もいない。誰も、いなかった。
分かり切った結果に悲しくなりながら息を吸い込み、ようやくウィッシュは身を起した。天井から降り注ぐ金色の光は優しく、一面が硝子張りになった壁のような窓からは、中庭の様子を見ることができる。
外はまだ明るい。朝か、さもなければ昼前くらいの時間であるらしい。
眠る前に見た世界が朝だったか夕方だったか、夜中であったのかを思いだそうとして眉を寄せ、しばらくしてウィッシュは首を振った。たくさん寝た気はするので、すこし動いても体調を崩すことはないだろう、と思う。
それが分かれば十分だった。それ以上は、特に必要がないように思われた。ウィッシュは寝台からはがして運び込んだ柔らかな敷布を苦労して二つ折りにし、体にかけていた毛布をひどく時間をかけてたたみ、その上に置いた。
ふかふかのぶ厚い敷布は大理石の床の上にしいて眠っても、ウィッシュの体を痛くしない質の良いものだった。寝具をとりあえず片付けて、それだけでも疲れてしまって、ウィッシュはふぁ、とあくびをしながら床にぺたりと座りこんだ。
部屋は、ほぼ円柱型の作りをしていた。見上げれば首が痛くなるほど高い位置にある円天井は、白色と黄色のモザイクで装飾され、数ある部屋の中でも一番のお気に入りだった。
本来、ここはサンルームとして使用される筈だったのだろう。まっすぐにのびた円柱が八角形を描く一室は、今ではウィッシュの寝室として利用されている。ちゃんとした寝室は他にもあるのだが、そこをウィッシュが積極的に利用したことはなかった。
寝室には窓がない。外が見えるのはこの部屋だけだった。ウィッシュはぼんやりと光を浴びてもう一度あくびをしたあと、床に手をつき、ふるふると震えながら立ち上がる。『花婿』はあまり、自力で歩けるように作られない。『花嫁』がそうであるように。
特にこのところ、ずっとひとりでいるウィッシュの脚は、さらに弱く脆くなっていて、自分の体重を支えることさえひどく難しかった。何度も転びながら、それでもそのうち、ふらふら、立ち上がって。
ウィッシュは慎重に足を踏み出し、ひとまず部屋の隅へと向かった。
部屋の隅には、ウィッシュの持ちやすい高さで手すりが付けられている。どの部屋も、どの部屋も。廊下にもそれはある。この屋敷の主がどんなつもりでそれを用意したのか、ウィッシュは考えないようにしていたし、聞くこともしなかった。
聞こうという気があったとしても、それはひどく難しかっただろう。ウィッシュがこの部屋に連れて来られてから、時間や季節の感覚を失ってしまうまで、誰かに会ったという記憶はない。
食事はいつの間にか扉の近くや、あるいはどこかの部屋の机の上に温かい状態で置かれている。誰が用意しているのかは知らない。見たことがなかったからだ。
ぜい、と肩で息をしながらサンルームから続く部屋に辿りつき、ウィッシュは中をぐるりと見回した。壁には等間隔に絵画が飾られ、焼き物や彫刻が専用の棚の上に置かれている。
一回寝て起きる前までは薔薇の彫刻が置かれていた筈のちいさな棚の上に、水の入ったグラスが置かれていた。つかれた気持ちでそこまで歩み寄り、ウィッシュは両手でそっと、グラスを包み込むようにしてもった。
くちびるをつけてひとくち飲み、心から安堵して残りもゆっくりと喉へ通して行く。室温にぬるまった水の味しかしなかった。体が上手く動かなくなって、頭がぼぅっとする、あの嫌な味はしない。
夜会がないということだ。夜会がある時には水や食事にはなにか混ぜものがされる。体を上手く動かなくさせる、頭の動きを鈍くさせる、夢うつつの間を彷徨いながらも決して眠りに落ちることが出来ない。
起きている間中、夢を見ているようなものだ。夜会は、ここ以外のどこかで行われる。移動中は別の薬で眠らされるから、ウィッシュには別の部屋に行った、くらいの記憶しか残らない。
それでも夜会に行くのは嫌だった。あんな場所はだいきらいだ。水を飲み終えてグラスを棚の上におき、ウィッシュはまた時間をかけてサンルームへと戻っていく。
日によっては他の部屋で夥しい程の美術品、宝石や絵画や彫刻や装飾品。中には服や書籍などもあり、それにつもる埃を掃除したり、観賞したりするのだが、そんな気にもなれなかった。
敷布の隣に座りこみ、目を閉じて体を伏せる。砂漠の砂の色をした光が、ウィッシュの肌をやわらかに撫でた。
目を覚ますと、そこは寝台の上だった。息を吸い、二度、三度まばたきをして目を細める。サンルームではない。どこだろう、と悩んでいると、すぐ傍から声がかかった。
「……起きたか」
視線だけを動かして声のした方向を見ると、寝台に腰を下ろし、ひとりの男が本を読んでいた。もう、時間は夜なのだろう。暗闇が降りる部屋の中で、手元だけが赤々と、灯篭の火に照らし出されている。
男は本にしおりを挟んで閉じ、それを太股の上に置いてからウィッシュに向き直った。桜花を宿した珊瑚色の瞳が、こら、と優しい笑みに細められる。
「寝ぼけてんな? ……夢でも見てたか」
起してやればよかったな、と囁く男は、その内容を知っているような口ぶりだった。ウィッシュは熱でだるい頭をぼんやりとさせながら、己に向かって伸ばされる指先を、目を閉じて受け入れる。
頬をひと撫でしたあたたかな手は髪を梳くことなく、額に押し当てられて熱を測られる。不満いっぱいの気持ちで瞼を持ち上げ、男を睨みつけて。ウィッシュは、あ、と言って目の前の男の名を呼んだ。
「シル、寮長……」
「……ウィッシュ。本当に寝ぼけてたな? お前……」
呆れながら手を引き、寮長は全く下がっていない熱に舌打ちを響かせた。眠っている間に薬は飲ませた筈なのだが、うまく効いていないらしい。ウィッシュはのたのたとまばたきを繰り返したのち、ふぁ、と幼くあくびをする。
「あれ……俺なんで寝てんの……? というか、寮長、ここ、どこ……?」
「俺の部屋。なんで寝てるかって聞かれてもな。俺が見つけた時にはもうお前の意識なかったし」
「いしきなかった……?」
その言葉がいまひとつ、どんな状態を指し示すのか理解していない発音と顔つきで、ウィッシュはたどたどしく繰り返した。
ウィッシュはひどく眠そうに、そしてまた疲れ切っている様子で何度も何度もあくびを繰り返し、のたくたとまばたきをする。その仕草はとてもよく、ソキに似ていた。いや、と否定に寮長は眼差しを伏せて苦笑する。
ソキが似ているのだろう、この兄に。あるいは『花嫁』、『花婿』と呼ばれる者は皆そうであるのかも知れない。どこもかしこもやわらかなつくりで、甘い印象の、ひどく脆い、欲を駆り立ててならない存在。
庇護欲と、保護欲と。独占欲。ウィッシュ、と呼びかけてやれば、焦点を結びにくい様子でゆらゆらと揺れる、赤い瞳が寮長を見つめてくる。熱に潤んでとけきった、とろとろの、無警戒な無垢な瞳。
紅水晶と呼ぶよりそれは、あまりに熟れた苺めいていた。目の毒だな、と思いながら指先を伸ばす。
目の下と、瞼。形をなぞるように触れてやれば、きゅぅ、と嬉しげに細められた瞳と共に、くすくす、笑い声が忍んで響く。
「なに、りょうちょ……」
「ん? ……起きてて辛くないか?」
触れる肌は温かいとするより嫌な熱さで、それなのに恐ろしい程滑らかに、しっとりとしている。顔だけではなく全身そうなのだろう。指先を握るようにしながら手を離せば、ウィッシュの目が名残惜しそうにそれを追いかけた。
もっと触って。離れて行かないで、と目が告げている。意志を言葉にすることなく、ウィッシュは不満げに眉間にしわを寄せ、ふすん、と鼻を鳴らした。ソキが時々そうする、不満げな、拗ねた仕草。
喉を震わせて笑えば、開かれた瞼の奥、泣き濡れた柘榴の瞳が寮長を眺める。
「りょうちょ、ねない……? ここにいて、じゃまじゃない? はしに、よる?」
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