幸いであれ、風の君
乾いた風が唸りながら、天空まで花びらを撒きあげて行く。少女の恋のような薄桃の、篝火を宿した橙の、夕暮れを溶かした赤の、歌う小鳥の羽根のような黄の、宝石を砕いた顔料の青の、己の瞳と同じ色をした紫の、真新しい紙のような白の。
色とりどりの花びらを、風が高く巻き上げて行く。祝福だ、とそう思った。強い、強い風は一時も立ち止まることなく、地を駆け抜けて空へと還って行く。道連れに花びらを手繰り寄せながら、天へ昇ってゆく。
祝福だ。風の祝福。天へ向かってそれが成されている。空へ還ってしまった魂が、決して寂しくないように。それでいて、地上に残された愛しい子の心を、慰める為の。それは幸福な祈りと、愛の形だった。ナリアン、と誰かが名を囁く。
ナリアン、ナリアン。安心して、大丈夫。大丈夫、ねえ、分かるでしょう。見えるでしょう。これが愛。これが祈り。これが私たちの、あなたへ捧げる想いの形。そのひとつ。ねえ見えるでしょう、分かるでしょう。
遠く天へ昇って行った彼女からも、きっとこれは見えている筈。寂しくないわ、だからたくさん泣いていいの。悲しくないわ、だからどうか辛いと、寂しいと吐きだして。
感情を封じ込めないで、想いを潰してしまわないで。ナリアン、ねえ、ナリアン。お願い、お願い。どうか分かって。これが愛。私たちの、そして、あなたへの。ナリアン、ナリアン。花びらと踊りながら、風が告げる。風が囁く。これが想い、これが祈り。
ナリアン、ねえナリアン。
あなたには分かっている筈。
「……ナリアン?」
ふ、と光景が途切れて、それが夢であったことに気がつく。重たく鈍い頭痛が鼓動と一緒に押し寄せてくるのに、ナリアンは目を閉じたままで身をよじった。冷たくはない、どこかひんやりとした指先がナリアンの目尻を撫でたあと、額にくっと押し当てられる。
「ナリアン。気持ちを楽にして。……大丈夫、大丈夫。もう大丈夫だからな」
トントン、トン。言うことを聞かせたがるように。ナリアンの額を撫でるように叩いた指先が滑り、そのままてのひらが押しつけられる。そこから、すっと水のように染み込んで来たなにかが喉の奥へ広がって行く。
呼吸が楽になり、頭痛も眩暈も消え去り、体中の熱と痛み、疲労が落ち着いて行った。数秒、あるいは数十秒の時がナリアンの身を蝕むそれを押し流し、きれいなものと入れ替えて行く。
うーん、と僅かに困ったような声が、疲労するナリアンの耳に忍び込んだ。
「分かるけど。気持ちは、分かるけど……ナリアン、それはお前のものじゃないよ。お前の、その、抱え込んだ痛みは……それは、お前の愛じゃないよ。それを手放してしまっても、お前を愛してくれた人は……お前を愛したのは、それじゃ、ないよ」
言葉を選んで、慎重に拾い上げて、詰めた息が声をころころと落として行く。きよらかな、ただ透き通る水が器に満ちて行く感覚を得ながら、ナリアンは無意識に『それ』が押し流されないように抱き締めた。
お願い、とらないで。お願い、お願い、消さないで。今はまだ、失っては生きていけない。それでも、これが愛。これも、愛なのだ。愛してくれた、そのひとの。欠片。
ぐっと体中に力を入れて強張るナリアンの、頬を撫でる手はやさしい。
「分かんないか。……うん、そうだよな、分かんないよな。亡くしたばっかりだもんな」
するする、乾いた指先が、眠るナリアンの頬を撫でて慈しんでいく。
「……じゃあ、いいよ。幸い、お前は魔力の量がうんと多い。だから、抱えても生きることはできるだろうね。俺は……俺には、消しちゃうことはできるけど、しないでおいてあげる。いいよ、ナリアン。納得するまで、それを抱えていていいよ。この腕で、抱えきれなくなるまで。抱き締めるものが、痛みから愛に……きらきら輝く、もっと暖かいもの。もっと優しいもの。もっともっと、素敵なものでいっぱいになって、お前が持っていたものを離してしまっても、それは本当は、失うなんてことにはならなくて。目に見えない、形に残らない、大事なものがあるって気がつける時まで」
眠らせておこうね。俺はその手助けだけをしてあげる。仕方がないなあ、とくすくす笑いながら、てのひらが目覚めようとするナリアンの瞼を、上からそぅっと撫でて行く。
まだすこし、もうすこし。この時が終わってしまうまで、くらやみの中でまどろんでおいで。そこはひとりかもしれない。そこは寒いかもしれない。そこは寂しいかもしれない。
けれども、そこは、そこも、ナリアン、君が抱え込んだ愛の形。
君には分かっている筈。
「……さあ、ナリアン。起きられる?」
額から離された手が、穏やかな仕草でナリアンの肩を叩く。そこではじめて許されたように、ナリアンは瞼を持ち上げ、何度か瞬きをした。夢から覚めてしばらくぼんやりと、なにか声を聞いていた気がするのに、全く内容が思い出せない。
あわく息を吸い込んで、ナリアンは枕に頭を懐かせるよう、にぶい動きで顎を僅かに上向かせた。そうすると、己を覗きこむ青年とちょうど視線が合う。ん、と嬉しそうに笑う青年の名を、ナリアンは昨日知ったばかりだった。
砂漠の国の王宮魔術師。癒しをもたらす白魔術師にして、その最高位の男。思い出しながら、言葉にせず、視線に意思を乗せて問いかける。
『フィオーレ、さん? ……ここは?』
「んー? 学園の保健室。ナリアンは、城から学園に移動して、談話室行く途中でやっぱり体調悪そうだからって案内役にこっちに連れて来られたんだよ。帰るトコだったんだけど、ナリアンがどうしても駄目そうだからって、もっかい俺が呼ばれたんだよね」
どこまで覚えてる、と首を傾げながら問いかけられて、ナリアンはええと、と途切れがちな記憶を引っ張り出して考えた。ナリアンが星降の国、学園への入り口へ辿りついたのは昨日のことだった。
到着したはいいものの、精神的、肉体的な疲労に加えて魔力が枯渇しているという状況に、砂漠の国から白魔法使いが呼び出されたのだった。ナリアンの回復をしている途中に、辿りついた他の入学予定者や案内妖精にも回復が必要と分かり、フィオーレが一日忙しく走り回っていたのが、昨日のこと。
夏至の日、入学式が執り行われる今日、とりあえず自力で移動できるようならばと、ナリアンは寝かされていた寝台から立ち上がり、よろよろ、なんとか学園へ徒歩でやってきた筈だったのだが。
フィオーレが告げた、保健室へ連れて来られて、のくだりがよく思い出せなかった。言われてみればそんな気がするような、しないような。すみません、と言いたげに、申し訳なく目を伏せたナリアンを、フィオーレは慰めるように指先で撫でた。
「もうすこし、寝てな。入学式には、幸い、時間があるし……」
言いながら、なにか面白いことを思い出したらしい。ナリアンから顔をそむけて口元に手をあて、フィオーレはぷるぷると体を震わせ、笑いを堪えている。
「にゅ、入学、予定者も、ついさっき全員、そろった、トコ、だし……? ぶふっ……だめやっぱりだめ俺には無理たえられないふぶっは」
そのまま本当に楽しそうに笑いだすフィオーレの人生は、恐らく薔薇色で楽しい筈である。ぷるぷる震えながら咳き込んでまで笑ったフィオーレは、二分程してようやく落ち着いたのか、肩を大きく上下させて呼吸を整えていた。
浮かんだ涙を指先で拭い、白魔法使いの視線がナリアンを向く。
「それで、入学予定者……もう新入生って言った方がいいのかな? そのコたちなんだけど。さっき、ナリアンの様子見に来たメーシャに、他の二人がいたら連れて来てって頼んでおいたから。もうそろそろ、くると思うよ」
『ほか、の?』
「うん、そう。ナリアンの、同期。おんなじ新入生が、ここへ来るよ」
副寮長が最後の一人案内してきましたって教えに来てくれたし、さっき。メーシャにも頼んであるから。だからたぶん、あとほんのもう少し。フィオーレの言葉が終わるなり、ナリアンは慌てて体を起こそうとした。
そんな、横になったまま出迎えるだなんてとんでもない、と言わんばかりの顔つきで身を起こそうとしたナリアンの肩を両手で掴み、フィオーレははいはいよしよし大人しくしようなー、と言って寝台へ押さえ付ける。
「いいから、寝てな。完全回復はさせてないから、入学式にちゃんと出られるように、いまは体力だけでも回復させないと。……ああ、それとも、そういう趣味?」
言葉の途中で訝しみ、まるで無垢にあどけなく、フィオーレはきょとんと問いかけてくる。
「縛られんの、好き? それなら、俺、ちょっと頑張ってみるけど……」
縄あったかな、それとも布とかの方がいいんだっけ、俺あんまり詳しくなくって、と視線を彷徨わせてそれを探すフィオーレはごく真面目だった。ナリアンはそろそろと体から力を抜き、声もなく首を横に振って否定の意思を示した。
大人しく、しています。そう告げるようにシーツを肩まで引き上げるナリアンに、こころもちほっとした様子で、フィオーレが肩から手をどけてくれる。
「よしよし、良いコにしておいで。……もうすこし顔色良くなったら、なんか食べられそうなものもらってきてあげるから」
ああ、でもそれより先に、動けそうなら検査してきた方がいいかなぁ。ううん、と首を傾げながら考えるフィオーレの視線が空にくるりと円を描き、そのまま、保健室の扉へ向けられる。
ふ、とナリアンも意識をそちらへ向けた時だった。コツン、と扉が一度叩かれる。不思議に響く、音だった。運命に音があるとしたら、きっとそういう響きをしていた。慈しみあふれる笑みを深め、フィオーレが、どうぞ、と告げる。
「いいよ、おいで。……はいっておいで、メーシャ。ロゼア、ソキも」
その、名前を聞いただけで。胸があたたかくていっぱいになるのは、どうしてなんだろう。きらきらの、輝くものを、たくさん。受け取って、と満面の笑みで差し出されているような。そんな気持ちになるのは、どうして。
こそばゆいような、知らない幸福のきらめきに触れた気がするのは。どうしてなんだろう。
すう、と息を吸い込むナリアンが、ゆっくりと身を起こすのを、フィオーレは見ていて止めなかった。二人の視線の先で、おずおずと扉が開かれて行く。失礼します、と言って、白銀の髪をした青年が先に、室内へ足を踏み込んでくる。
「……というか、ロゼア。ソキ、抱きあげたままでいいのか?」
「ソキはちっとも気にしませんですよ!」
「転んで怪我したら大変じゃないか」
なにも不思議なことなどない、という表情で告げる青年の腕に、幼い印象の少女が抱きあげられている。少女はひしっと青年の首に腕を回し、抱きついたままで離れようとしていなかったが、抱きあげる腕は離そうとしていないので、それで良いのだろう。
じゃあいいのかな、とぎこちなく納得した青年が、自然な様子で視線を移動させてくる。ナリアンと、目を合わせて。青年は幸福そうに、華やかな笑みを浮かべた。
「……ナリアン?」
『……えっと』
「ナリアン、だよな? 同じ、新入生の。……俺は、メーシャ。よろしく。体調、どう……?」
その名を呼べる喜びに満ちた響きと、続く、どこかたどたどしい問いかけがちぐはぐだった。怖がるように、強張った印象を残した。
「無理、すんなよ……?」
「お前もな、メーシャ」
その強張りを、フィオーレが温かく解きほぐしていく。ナリアンの傍らから立ち上がったフィオーレは、まったくさあ、とおかしげに笑いながらメーシャに両手を伸ばしていた。わきの下に手を差し入れ、そんな力があると思えないのに、ひょいと抱きあげてしまう。
わぁっ、とびっくりした声で目をまんまるくするメーシャを引き寄せ、額を重ねて、フィオーレはうりうりと肌を擦り合わせて笑った。
「安心していいよ。ルノンも、ちゃんと元気んなったろ? ……ナリアンのことも、ちゃーんと回復させたよ、俺は」
「……あ」
「ただ、ナリアンは……ちょっと、しばらくは、病弱? かも知れないけど。だーいじょうぶ。メーシャが怖いことにはならないよ。俺がいる限りね」
だって俺、白魔法使いだもーん、と歌うように告げ、メーシャを抱きあげたままくるくると回してから、フィオーレは新入生の足を床の上へおろしてやった。
「今年の新入生、本当マジ可愛い! ……さて、ロゼア。ソキも、挨拶しな」
促されて、青年にひたすらくっついていた少女が、そろそろと瞼を持ち上げるのがナリアンには見えた。夢の中でまどろんでいたように、その視線はどこか彷徨っている。ソキ、と抱きあげる青年が少女の名を呼んだ。
ほら、と背を撫でられると少女はこくりと頷き、そぅっと、そぅっとした動きで床に足をつけられることに同意した。けれども、青年から離れることはしない。離れることを恐れるように手をかたく繋ぎ合せたまま、少女が青年と一緒に、ナリアンの傍まで歩いてくる。
立ち止まって、はじめに口を開いたのは赤褐色の髪をした青年だった。
「はじめまして。俺は、ロゼア。同じ新入生だよ。よろしくな」
「……ソキ、ですよ」
ちいさな、ちいさな声だった。人見知りでもしているかのように、ロゼアの脚に体を半分隠れさせて、ソキはじーっとナリアンを見つめている。なんとなく、緊張しているのが伝わって、ナリアンも無言でソキを見つめ返してしまう。
しばし、無言で視線が交わされあった。挟まれる形になったロゼアが、困惑した様子でメーシャにちらりと視線を送っている。なあ、これ、なんだと思う。うん、俺にはよく分からないかな。
そんな意思が交わされたのを感じ取りながら、ナリアンは見つめてくるソキの視線を、反らせずまっすぐに受け止めた。なんだろう、と思った。なんでそんな風に見てくるんだろう。
なにかを伝えたがっていて、でもそれが分からないでいる。分からないことも、上手く理解できないで、それでもなにかを告げたがっている。そんな薄ぼんやりとした苦しみが、ソキの目には宿っていた。
あ、と少女のくちびるが、息を吸い込んで囁く。きゅぅ、と寄せられた眉が、泣きそうな顔を作りあげた。
「な……ナリアンくんって、いうですか?」
うん、と応える代わり、ナリアンはこくりと頷いた。その動きすら瞬きせず見つめながら、ソキはナリアンくん、と繰り返して、呼んだ。大切そうに。ようやく、その名を知る権利を得たのだというように。
大切に、大切に、くちびるに乗せた。
「ナリアンくん。……なりあんくん。なりあんくん、ナリアン、くん」
『……うん?』
「……呼べたですよ」
口元に両手をあてて、へにゃぁ、ととろけた笑みで、ソキは幸せそうに囁いた。きらり、となにか輝いて、その眩さにナリアンは目を細める。ふわり、ごく穏やかに、室内で風が吹いた。
その動きに、ナリアンは夢の欠片を思い出す。
ナリアン、ナリアン。ねえ、分かるでしょう。これが祈り。これが想い。ねえ、ナリアン。ナリアン。さあ、前を向いて。
あなたには分かっている筈。
「……どした?」
風に舞いあげられた花びらのように、定まらない意識を戻してくれたのは、顔を覗きこんでくれるメーシャの声だった。メーシャ、くん。名を思い出しながらゆっくりと唇を動かした声なき呼称に、メーシャの瞳が嬉しげに瞬く。
あ、とナリアンは思った。星みたいだ。まじまじと目を見てしまうナリアンに不思議そうにしながら、視線を反らさず、メーシャは尋ねてきた。
「動けそうなら、検査、あるそうだから。一緒に行くか?」
「ロゼアちゃん。ソキは?」
「んー? ソキは、おるすばんだってさ」
一緒に行きたい、と言いたげなソキの前にしゃがみこみ、ロゼアが視線を合わせてなにか囁いている。それを微笑ましく見つめてから、メーシャがナリアンに手を差し出した。ナリアン、と名前が呼ばれる。
「一緒に、行こう?」
「……ナリアンくん、倒れても、ロゼアちゃんがきっと支えてくれますよ! ロゼアちゃん、力持ちさんなんですよ」
「いや、ソキ、あのな? ……ああ、でも。メーシャが、手伝ってくれるなら、行けると思う」
迷う背を、そっと押す声だと、そう思った。メーシャは手を差し伸べたまま、笑っている。
「ナリアン」
促すように、フィオーレが囁いた。
「行っておいで、大丈夫」
ナリアン。あなたには。
『……はい』
分かっている筈。
『メーシャくん。……ロゼアくん。ソキちゃん、も』
どこかで、声がした。がんがんと響く、頭の痛みのように。強く、途切れず吹く風のように。声がした。ずっと、なにかを囁いている。叫んでいる。その言葉は聞こえている筈なのに、まだよく分からない。
それでも、ナリアンは、差し出された手を取って。立ち上がり、晴れやかに笑って囁いた。
「よろしくね」
ちいさな声。言葉、囁き。それに、三人はそれぞれに笑って。力強く、頷いた。
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