32日目

 まだ太陽も登らない早朝、ソキは都市をぐるりと囲む城壁の上に立ち、眠りに沈む都市を見つめていた。ソキと同じように早くから出発をする者たちの為にだろうか、湿り気を含んだ夜明けの風は、焼きたてのパンの匂いを大気に混じらせる。

 馬のいななきがどこからか聞こえた。もう一時間もしないうち、都市と都市を繋ぐ馬車は動き始める。ソキが乗るのはもっとも早い時間帯に国境都市から出発し、楽音の国から花舞の国へ移動する乗合馬車で、今日の深夜に向こうの都市へ到着するものだ。

 体力の消耗を防ぐ為に案内妖精が指定したその馬車を待って、ソキは昨日は国境の中で一日を過ごした。

 せっかく王宮から直に国境の都市まで移動できたですよ、と唇を尖らせたソキに、アンタが普通に移動したら三日か四日かかる道のりだったから十分短縮したでしょう、と怒り、妖精はがんとして移動を許可しなかった。

 それでも不満げなソキの足を止めたのは、妖精が告げたなんの気もない一言だった。十分間に合う日数だし、もしもの時は『扉』を使っての移動になる。

 学園へ入学することはもう決定していて、間に合うように努力して移動するのは入学予定者の義務だし、間に合わせるのが案内妖精の役目だけど。

「……なにを、そんなに、急いでるの、ですか」

 告げられた言葉を繰り返して、ソキはきゅぅ、と眉を寄せた。改めて理由を問われた時、ソキはそれに対する言葉を持たなかった。白雪の国から砂漠の国へ戻るのに、急いだ理由はただひとつ。屋敷にロゼアがいると思っていたからだ。

 彼に、会う為だった。

 屋敷から急いで出立した理由は、ひとつ。ロゼアがいないと分かったからだ。そこから、先へ先へと向かっていたのは、その道のどこかにロゼアがいると信じていたからだ。すくなくとも、ロゼアは砂漠の国から国境を越え、楽音の国へ入った筈だ。

 けれども、その先。楽音の国から花舞の国へ続いて行くこの国境に、ロゼア、という名前を持つ青年は現れていない。記録されていないのだ。この国まで。追いかけて、追いかけて、会えないまま、ソキはこの先へ行く。

 行かなければならない。立ち止まることも、後戻りをすることも、入学予定者には許されていない。だからこそ、案内妖精は言ったのだ。この先にはいないのだと、暗に含めて。それでも、旅を続けなければいけないと。

 ここからは、気持ちが急くことのない、ゆったりとした道行きになるだろう。誰に言われずとも、ソキはもう分かっていた。祈るように目を伏せる。夜の冷たさを滲ませたままの早朝の空気が、喉と肺に重く染みいった。

 なにか、言葉にならない気持ちがせりあがってくる。たぶん、泣きたいですよ、とソキは思って、首をふることでその意識を抑え込んだ。いつか来る別れだった。必ず来る、別れだった。

 どうすることできず、会えなくなる日の訪れが、もう巡っていただけのこと。覚悟は、何度もしていたことだ。ひっく、と喉がなる。ぎゅぅと手を握って、瞼の上から押し付けて息をつめた。

 最後に、なんの会話をしたのか、思い出せない。名前を呼んだ気がする。名前を呼んでくれた気がする。

 その優しい響きだけが、耳の奥には残っていた。

「……ろぜあちゃん、が」

 祈りの形に、手を組みあわせる。未だ眠る都市のどこか、立ち去る都市のどこか、この国のどこかに居るであろうたったひとりに、囁きは決して聞こえないだろうけれども。

「幸せで、いてくれますように……どこかで、ちゃんと」

 笑って、いてくれますように。告げれば、すぅ、と体からなにかが抜け落ちて行く感覚があった。言葉に魔力が宿り、確かにその希望を叶えんと、予知の力が巡ったのだろう。それがどういう風に作用していくのか、今のソキには分からない。

 息を吐き出して、建物の中へ戻ろうと身を翻し、歩きだす。その目の前にふわりと、温かな光が舞いおりた。

「あ、リボンちゃん。おはようございます」

『おはよう。アタシ、勝手に部屋から出るなって言わなかったかしら? 言ったわよね? どうして言うこと聞けないの、この馬鹿!』

「ソキ、リボンちゃんに起きるまで一緒に居てくださいって言ったですよ。起きたら居なかったですよ。おあいこですよ」

 唇を尖らせて文句をいうソキに、妖精はやや気まずそうにぱたりと羽根を動かした。

『……近くに、妖精がいる気配がして。ちょっと気になったものだから』

「妖精さん? ……案内妖精さんです?」

『たぶん。でも、見つからなかったからいいわ。どうせ、後で会えるし』

 案内を終えた妖精は、普段住む場所へ戻る前に一度星降の国王の元へ集合し、詳しい報告をしてから解散になるのだという。案内妖精が夏至の日に行う、一番最後の仕事。報告会だ。

 そこで、今回は誰が案内役で飛びまわっていたのかが分かるだろう。ごく簡単にその説明をすると、ソキはふぅん、と頷いて首を傾げた。

「会っちゃいけない、とかじゃないんですね」

『他の案内妖精と? それとも、他の入学予定者と?』

「両方です……くちゅっ」

 口に両手をあててくしゃみをしたソキに、妖精は即座に冷たい夜風など呪われろっ、と叫んだ。今すぐ室内に戻ってもう一枚着て来いばかっ、と叫ぶ妖精に背中を蹴られながら、ソキはもうー、と眉を寄せた。

「リボンちゃん、おこりんぼさんですー……」

『アンタが体調管理をもうちょっとしっかりしてくれたら、アタシはこんなに怒らない!』

「……えっと」

 足早に城壁を移動しながら、ソキは視線を都市へと向けた。ぽつり、ぽつり、灯る明りの数は、先程より多くなっていた。

「会っちゃうのはダメじゃないんですか?」

『特にペナルティは設定されてないし、一緒に旅したっていいのよ。入学予定者と一緒っていうのは、同行にはあたらないし……ただ、アタシはオススメしないけど』

「なんで?」

 また、くちゅん、とくしゃみをするソキに都市到着まで体調が持つ気がしないと遠い目になりながら、妖精はアンタよく考えてものを言いなさいよ、と息を吐きだした。

『アンタの貧弱極まりない体力と、毛虫の方が速そうに思える移動速度に、他の誰かをつきあわせるつもりなの? すーぐ熱出すし。……かけてもいいわ。アンタ、今日の昼過ぎ、三時前には寒気がして頭が痛くなるわよ』

「嫌な予想しないでくださいですよ……。ソキの体調は、もうちょっと、やればできるこなのですよ」

 言うなり、またくちゅん、とくしゃみをしたソキに、心底『ダメだコイツ本当手遅れ』という心底呆れた視線を投げかけて、妖精は薬をもらって飲んでいきましょうね、と優しく言い添えてやった。はぁい、と素直にソキが返事をする頃、ようやく、城壁から中へ入る扉へ辿りつく。

 歩み寄り、その扉に手をかけた時、ソキはふっと振り返り、夜明けを待つ都市を見た。意識せず、誰かに呼びとめられたような。そんな仕草だった。妖精が訝しげにソキを見る。ソキも、どうして振り返ったのか分からない表情で、ぎこちなく首を傾げて、息を吸い込み。

 瞬きをするその瞳から、一粒、涙をつたわせた。驚く妖精と、それ以上にびっくりした様子で、ソキが己の頬に両手をあてる。不思議そうに手で涙を擦って、なんでもないですよ、と言った唇が、恐らくは無意識に息を吸い込む。

「……ろぜあちゃん……?」

 夜明けを、まだ空の向こうへ残して。ソキはその日、国境を発った。




 ソキの旅日記 三十二日目

 楽音の国を出ました。

 花舞の国の、一番近くの都市へは、今日の日が変わるくらいに到着します。


 ソキはリボンちゃんに勝ちましたですよ!

 五時まで元気だったです。

 えっへん。


 ……二時間程度のずれでほざくな、寝ろ、ってリボンちゃんが叫んでます。

 リボンちゃん、おこりんぼさんです。


 もう一回寝て、起きたら、次の都市につくくらいです。

 起きたら花舞の国ですよ。国境は越えたので、もう、花舞の国内ではあるですが。


 リボンちゃんに呪われそうなので、寝ることにしました。

 きょうの日記はこれでおしまい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る