青春恋愛短編集【夢編】

あいはらまひろ

夢のはじまり

 進路調査票。

 その薄っぺらい紙1枚が、ここ数日の私をひどく悩ませていた。


 葉桜の緑がまぶしい5月。

 浮かれた休日明けにあらわれた「進路」という2文字。

 高校生活の大半を生徒会活動に捧げ、それなりに充実した日々を送ってきた私としては、まるで夢から醒めた気分だった。


 いっそのこと紙飛行機にして、教室の窓からぽーんと飛ばしてしまえば気持ちよさそうだけど。

 もちろん、それで何の解決にならないことは、よーくわかっている。


「なんだよ、さっきからため息なんかついて。恋わずらいか?」

「ちがいます」

「春だもんな。そうか、発情期か」


 下品な笑みを浮かべる幼なじみの少年に、私は大きなため息をつく。

 昔から、そうやって女の子が嫌がるようなことを言っては、反応を楽しむヤツだった。


 どうやら幼なじみの男の子に甘い幻想を抱けるのは、物語に登場するヒロインの特権らしい。


「進路調査なんてのは、適当に書いておきゃあいいんだよ」

「いいわけないでしょう。なにも考えてない人と一緒にしないでちょうだい」

「俺だって、一応は考えてるぜ。ま、おまえと一緒で答えは出てないけどな」


 そう言うと席に横座りになって、壁によりかかる。

 これは私たち窓際の席の特権。


「ったく、おまえ深く考えすぎなんだよ」

 視線を遠くに向けたまま、不意に真剣な表情になる。


 私は、おまえ呼ばわりされたことを怒るのも忘れて、その横顔に目をやった。

 珍しいこともあるもんだ。

 明日は雨だろう。


「だいたいさ、夢とか進路とかって、そう簡単に答えのでるもんじゃないだろ?」

「まあ、そうかもね」

「だろ?」


「でも、現実問題として、これの提出期限は明後日なのよ?」

「だから、適当に書けばいいんだって」

「あのねえ」


「いや、マジで。だって、その紙に何を書いたって、それで何か決まるわけじゃねえんだぜ?」

「まぁ、そりゃそうだけど」

「ったく、成績ばっかりよくて、肝心なことがわかってねえんだから」

「はいはい、そうですか」


「俺らには信じられねえけど、スマホもネットもない時代だって確かにあったわけだろ? あと10年、いや5年も経てば、また世の中まるっきり変わっちまうんだぜ? 今、価値あるものが、紙くずになる可能性だってある。別に、焦ることはねえんだよ」


 それだけ言うと、彼は満足したのか、くるりと背を向ける。

 気づけばチャイムも鳴り終わっていて、午後の授業が始まる時間だ。

 先生の姿が廊下に見える。


 ふと、5年後を思い浮かべてみた。

 私は22歳。

 その時、私はどこで、なにを考え、なにをしているだろう。


 想像がつかない。

 それは12歳の私が、17歳の私を想像できなかったのと同じだろうか。


 モラトリアムとか現実逃避とか、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。

 いまはまだ、夢を見つけるのが夢、でいいのかもしれない。


 私の夢のはじまりは、まだもう少しだけ未来にとっておこう。

 私のことを決めるのは私しかいないのだから。


 前の席で、さっそく寝る体勢に入ったヤツの後頭部に、いつもの寝ぐせがぴょこんと跳ねていた。

 なんだかカッコいいこと言ってくれちゃったけど、寝ぐせにロマンスは生まれないのだよ、幼なじみくん。


 まったく、肝心なことがわかってないんだから。

 私は密かな笑みを浮かべると、進路希望の欄に大きく未定と書いた。


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