京・大坂相撲合同興行

文久三年 八月十一日


祇園北林にて




 広い青空に秋の静かな雲が斜めに流れている。


 天下てんげでは、力士の白熱した取組によって勝敗が決まる度に地鳴りのような歓声や野次が飛び交っており、正しく世の平穏を掻き乱していた。


 屯所以上に男臭い雰囲気を味わってしまった美少年もどきは、日を重ねてもその光景に慣れることはなく。



「うわ、あそこの人暴れそうですよ…」


 人波の最後尾から更紗が指を差すと、隣に佇む沖田がゆっくりと見据え、やがて別方向から駆けて来る男を指差しながら微笑んだ。



「ほら、あっちから左之さんが馳せ参じましたね。どうするんだろ、面白い事になりそう…」


「…大丈夫かな?もっと事が大きくなるんじゃ…」



 女が不安げに視線を投げれば、予想を裏切らず、紋付袴姿の原田が興奮気味の観客に掴みかかっていき。



「…うわ、ミイラ取りがミイラになってる…」


「あーあ、殴っちゃったよ!本当に左之さんは、始末に負えない人だなぁ。後で、両副長に報告ですね」



 カラカラと笑い出す沖田を横目に更紗はやんわりと苦笑いを浮かべた。



 相撲興行は連日、大入りの大盛況で、最終日を迎える前に総動員は数万人を超えていた。


 思わぬ京での人気ぶりに当の力士たちは気概に溢れ、浪士組の面々もそれぞれに楽しんで警備に当たっているように伺える。


 しかしながら一方で、土方が裏で企んでいた壬生浪士組のイメージ一新作戦は、なかなかの苦戦を強いられていた。



 荒ぶる集合体であることは十分に理解しているつもりではあったのだが、相撲興行が始まった二日後に、京相撲の力士、揚ヶ霞が何者かに惨殺されたのだ。


 お陰でイメージ払拭どころか、逆に壬生狼の仕業ではないかとあらぬ疑いをかけられ、身の潔白を証明するために奮闘するという、何とも御粗末な事態に陥っていたのである。



「……今日も土方さんは来ないんですかね?」


 喧騒に紛れる女の小声を捉えた沖田は、同様に苦笑いを浮かべていく。



「次から次へと難事が起きて、ひと息つく間も無さそうだしね。今日来ても機嫌悪いだろうから、来なくていいんじゃない」


「確かに。今の原田さんを見てたなら、間違いなく怒鳴りちらしてましたね」



 沖田に話しを合わせる更紗だったが、土方だけに偏る事態の忙殺ぶりに実はこっそりと心配していた。



 ここ連日連夜、まともに休んでいないと言い切れるほどに彼を見かけることはない。


 やはり同じ役職である山南が自由に動けないというのは、浪士組にとって大きな痛手であった。


 というのも、主たる運営は局長且つ副長の手腕によって成り立つもので、他の幹部は口を出さず、彼らに全てを一任していた。


 そのため、副長職は膨大な裏雑務に追われ、それを一人でこなす土方に、相当な負担が強いられていることは容易に予想できるのであり。



「……それにしても…人多いなぁ…」


 見渡す限りの男だらけの空間に、更紗は溜息を吐くと沖田へ向けて少し離れた大木を指差し口を開く。



「ちょっとだけ……あそこで休んできてもいいですか?何か人に酔っちゃって…」


「ああ、いいよ。まだ日は長いから、うら若き男子おのことて無理は禁物ですからね」


「すみません。じゃあ、少し休んできます」



 更紗は沖田へ向けて軽く頭を垂れると、踵を翻し大木の傍まで歩みを進めた。



 決して広くない空間に男たちが群がっている光景は、男性だけの満員電車に放り込まれたような恐怖心と疲労感を騒ぎ立てるものであった。


 勿論の如く、観客の誰も自分を見てはいないはずなのだが、時折感じる執拗な視線に、更紗はどうにも気が滅入っていた。



「…ふぅ、日差しが気持ちいい」


 大きな木に寄りかかって身を委ねると、幾らか冷たくなった初秋の風が頬に心地良い感触を与えてくれる。


 木陰の隙間から当たる日光が、疲れた身体に優しく注がれ何とも言えない温もりを添えてくれて。



 暫く睡眠不足に陥っていた女にとっては、十分過ぎるほど整った環境であった。


 結わえていた髪を解き、風の囁きに耳を傾けると、喧騒さえも子守唄のように、女を夢の世界へといざなってくれる。


 下ろした目蓋の裏に映るのは、忘れていた幼い頃の記憶────



 碧色の双眸を輝かせて、同じ場所にある八坂神社の境内を歩いていた昼下がり。


 空色の浴衣を着せて貰った嬉しさで、女の子は和服姿の女性と手を繋いだまま栗毛を揺らして飛び跳ねていた。


 心底嬉しかったのは、浴衣を着せて貰ったからではなく、夜もずっとお母さんと一緒に過ごせるから。


 露店で可愛い髪飾りを見つけると、母親が兵児帯と同じ朱色の髪飾りを結わえた髪に優しく添えてくれる。


 柔らかく微笑んだ女性は息を呑むほどに美しく、更紗はそんな母親が何よりも自慢で大切な存在であった。



 久々に出逢えたその面影に、自然と口元が緩むと、不意に感じる光に目蓋を持ち上げてしまい。


「……夢、…か…」



 ぼんやりと開けていく視界には、愛しき母ではなく、久しく見ていなかった端正な横顔が映り込んできて。


「…うわ!ここで、何してるんですか?!」



 更紗は大きく瞬きをして身を起こすと、真横に座る覚えのある男へ目線を合わせた。



「その愚問をそっくり返してやる。何堂々と一人で寝こけてやがんだよ」


 呆れ顔の土方は書状を広げ眺めており、居眠りをしていた自分とは違い、木陰で残務をこなしているように見受けられ。



「…すみません。いつ来たんですか?」


「半刻ほどは経つが……たく、男が近づこうが起きもしねぇで、危ねぇったらありゃしねぇ」



 ぎろりと横目で睨み付けてくる土方の仕草に、更紗は反射的に身を仰け反らせる。



「…すみません、すっかり寝ちゃってたみたいで……でも男装だし大丈夫…?」


「莫迦か。この世にゃ、男色の気がある野郎も居んだよ。おめえみてぇな青っ尻は恰好の餌食じゃねぇか」


「……何か一気に目が覚めた」



 更紗はポツリと呟くと、僅かに声を漏らしながらぐっと背伸びをする。


「……ん、」



 思いの外、しっかり昼寝できたようで、さっきと見違えるほど、身が軽くなった心地に包まれるが。


 間近から受ける刺さる視線に恐る恐る顔を向ければ、手元の書状を折り畳む土方と、否応無しに視線が交わってしまい。



「寝る子は育つとは言ったもんだが……よだれまで垂らしやがって、おめえのように呑気に生きてぇもんだな」


「…っ!!」



 その言葉に更紗は慌てて口元を両手で覆うが、代わりに土方はゆるりと唇の端を上げていた。



「冗談だ。目が覚めたんなら、少し付き合え」


「…え、どこに行くんですか?」



 こちらの質問に答えることなく、徐に立ち上がった侍は白縞袴に付いた土を払うと、颯爽と歩みを進めて行く。



「……答えてくれてもいいのに」


 男装姿の女は眉を寄せて立ち上がり、袴の汚れを払いながらその背後を足早に追いかけていった。

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