訃報

 今思えば、確かに前日の愛次郎の様子は可笑しかったのかもしれない。



 壬生浪士組の活躍と展望について語り出したかと思えば、仲間たちへの感謝の念をつらつらと紡ぎ出す。


 そのままの貴女を副長は気に入ったのだろうから、変わらずにいて欲しいと、黒く澄んだ瞳を微かに潤ませながら、自分を見つめて言葉を放ち。



 彼を騙している事実に囚われ過ぎた私は、その裏に隠された、にじり寄る闇の気配を見抜くことが出来なかった。


 もしもあの時、少しでも抱える心の葛藤に気付いてあげていれば、続く未来は変わったのではないかと、儚げな月を見るたび、脳裏をよぎり────





文久三年 八月二日 秋近し
 
 


壬生村 八木邸にて




 毎日、欠かさずに朝稽古へ参加する佐々木愛次郎がこの日に限って姿を見せなかったことで、道場内ではちょっとした騒ぎになったのが事の発端であった。


 何の前触れもなく、一隊士が忽然と消えた事実は瞬く間に幹部にも伝わり、朝餉の時刻には、話しが少々深刻めいたものになっていた。



「…これって、脱走扱いになるんだよな?」


 原田が味噌汁を啜りながら眉目をぐっと寄せれば、口に米を運んでいた藤堂も複雑な表情を浮かべていく。



「否、まだ決まった訳ではなくて……」


「大部屋から彼奴の荷物だけ無くなってたっつう話しだぜ?」


「でも、愛次郎は隊士の中でも真面目だから、脱走はしないと思うけどなぁ…」


「脱走か否かは知らんが、何も言わずに出ていくのは、武士ならざる者だ。家里の一件以来、足抜けは重罪扱いだからな。…そういやお前、佐々木と仲良かったろ?何か心当たりねぇか?」


「……心当たり…」



 漬け物を頬張る永倉から視線を投げられた更紗は、食事の手を止めここ最近の愛次郎の様子を振り返ってみる。



 数日前に茶屋であぐりと一緒にいるところを見かけたように、私生活は充実しているように見受けられ。


(……昨日も、普通だったよなぁ。寧ろ、いつもより熱く語り合ったような…)



 昼餉の後片付けを二人で行っていた時、浪士組への想いを話し始めたかと思いきや、幹部たちへの感謝の気持ちを述べ、仕事に対する熱意が感じられたが。


(……私と土方さんのこと、完全に勘違いしてたから……そっちに気が向いちゃって、あんまり覚えてないなぁ…)


 喜んでくれる手前、これ以上嘘が深くなる前に白状すべきか迷ったが、彼の真っ直ぐな瞳を前にして言い出せなくなってしまっていた。


 重苦しい胸懐で他に心当たりを探れば、密議を行った夜、恋人との別離を匂わせるような言葉を掛けられ、元気を無くしていたことくらいで。


 しかしながら、大の男がまだ起こってもいない別れを想像して浪士組を辞めるとは、如何せん考えにくいのである。



「……心当たり、ないなぁ…」


 更紗は眉を寄せながら、ポツリと言葉を口にするが、スッと開かれた襖の向こう側から、神妙な面持ちの沖田が現れて。



「左之さん。土方さんが呼んでるから、俺と部屋まで行きましょう」


「げっ!朝から怖い方の副長に呼ばれるとは……嫌な予感しかねぇな。今回は何の件だって?」


「何でも、です」


「おいおい、ケツの青い小童が勿体つけてんじゃねぇよ。どうせ、怒鳴られんなら、早い内から腹を決め……うげ、」



 汁物を飲んでいた原田の首根っこを掴んだ沖田は、そのままの状態の大男をズルズルと引きずっていく。


「無駄話をしている暇はないんです。それに俺は、左之さんより大人ですよ。浪士組の名に恥じぬよう身なりは綺麗にしてるし、月代だって三日に一度は…」



 己の生きた痕跡を残すように、畳上にぽとぽと、と原田の持つネギ入りの味噌汁が零れている。


 仕方なく立ち上がった更紗は、自らの手拭いを懐から取り出し、その跡を消すように、畳から拭き取っていくが。



「左之の奴、今度は何をやらかしちまったんだ?」


 永倉が口元を緩めて楽しげに言葉を放つと、茶を飲んでいた藤堂もニヤリと八重歯を見せて笑う。



「昨日、千本通りにある五番町の女郎屋を冷やかしに行ったら、楼主に嫌味言われて小競り合ったんだって」


「彼奴も懲りねぇな。面は一流、頭は三流とはこの事よ」


「ぱっつぁんは、左之さんと正反対だね。顔は三流だけど、中身は一流」


「平助てめえ、俺の面は二流くらいだろうが」



 いつものように他愛のない会話をする永倉と藤堂を視界の端に捉えながら、更紗は妙な胸騒ぎを抑えられず、独り複雑な気分で畳に視線を落としていた。


 やはり何度考えても、真面目で品性良好な愛次郎が脱走行為を図るとは、到底思えるものではなかった。


 七月上旬にあった不逞浪士の捕縛で手柄を上げ、岩城升屋事件において堂々の戦いぶりを魅せた愛次郎の評価は高く、一気に幹部候補まで名を上げていたのである。


 公私ともに充実したように見えた彼が、このタイミングで壬生浪士組を脱退するメリットは見当たらず、不可解な行動に疑問は募るばかりで。


(…まさか…事件や事故に巻き込まれたとか…ないよね…)



 推し量れない不安を口にすると言霊となって現実に影響が出てしまいそうで、更紗はあえて誰とも話さず、与えられた職務を全うしていた。


 兎にも角にも、屯所に戻ってきた時には、いつものように笑顔で迎えようと心に決めて────



「ごめんなさい。…もう一回言って貰えますか?」



 目の前に座る男から放たれた言葉の意味が理解できず、息の詰まる喉を震わせ、再度、同じ言葉を乞う。


 土方は苦しそうな表情を見せる更紗から決して目を逸らさずに、再び、重々しい声で言の葉を解き放った。



「佐々木のかばねが見つかった」



 珍しく今日の昼下がりは汗ばむほどの陽気であるはずなのに、女の身体は冷水を浴びたかの如く冷たくなっていく。


 いつの間にかあれだけ煩く鳴いていた蝉の声は途絶え、その死骸は人々に踏みつけられては、土に還っていた。


「……それ……嘘…ですよね…」



 ばくばくと高鳴る心臓の音が、体内を駆け巡っていく。


 土方から発せられた言葉を受け止めきれない反面、否応なしに手が震え、事の重大さを物語り始め。


「俺も確認したが間違いねぇ。まぁ、…酷ぇもんだ」



 切れ長の双眸を細めた土方は、紫煙を吸い込むと静かに吐き出していく。


 辺りは不自然なほどに静まり返り、只、煙管の穏やかな香りが悪戯に鼻腔を擽っていた。


「佐々木から何か聞いてねぇか」



 信じがたい圧迫を胸に感じながら、心当たりがないのだと、更紗は小刻みに首を横に振る。


 気がおかしくなりそうな息苦しさに目蓋の裏が熱くなってくるが、そんな姿を見据え続ける男は、いつもと変わらぬ眼差しを自分に向けてきて。



「少し離れた場所で、恋仲だった女も死んでいてな。状況から察するに駆け落ちしたようだが……何か思い当たる節はねぇか」


「……あぐりちゃんも…亡くなったの…?」



 刹那、言葉の刃が身を貫くような衝撃が走るが、その心は妙にしんと底冷えしたように刺々しく澄み切っていた。



 脱走の斜め上をいく非現実的な事実は、悪夢でも見ないような、最低最悪のバッドエンドである。

 

 愛次郎とあぐりの死を聞いても信じられず、本人たちの姿を目に映すまで、その意味を心から信用することはできない。


 更紗は目を瞑り、覚悟を決めるように深呼吸をすると、碧色の瞳を見開き、真っ直ぐに土方を見つめていく。



「愛次郎さんとあぐりちゃんに会わせて下さい」


「駄目だ、女が見るようなもんじゃねぇ。気が触れるぞ」


「…であっても、今のままでは二人の死は認められません。ちゃんと、自分の目で見て……本当なのかを確かめたい」


 

 冷静さを保とうときっぱりとした口調で言っているつもりなのに、紡ぐ声がどうしても震えてしまう。


 本音を漏らせば、道端で晒されている罪人の骸を遠目に見るだけで、気分は悪くなり、暫くその道は使わないようにと、この手の話題は避けて生活をしていた。


 それでも、やはり自分の大切な仲間が亡くなった可能性があるなら、その真実から目を背け、逃れることはできなくて。


「……お願いします。愛次郎さんに…会わせて」



 じわりと霞んでいく瞳を向ければ、土方は小さく溜め息を吐き、煙管の灰を煙草盆に落としていく。



「今から会わせてやるが、腹は括れよ」


「…はい、ありがとうございます」



 徐に立ち上がる男を眺めながら、更紗は底知れぬ不安を追い払おうと、強く、固く拳を握り締め、玄関口へと歩むその背に続いた。



 いつもは何も感じない前川邸の長廊下が暗黒の世界へと誘うように、女の身体へ恐怖という名の呪縛を纏わり付かせる。


 微かに差し込む光さえも、一瞬で吸収してしまうほどの闇を抱える空間は、まるでブラックホールであるかのように、得体の知れない存在感を放っていた。


 事件か事故か、それを聞くことさえままならない負の感情は、やがて訪れる哀しい現実を受け入れるかの如く、拙い心に渦を巻いていく。


 涙の膜で狭まっていく視界に映るのは、振り返った色男が踵を翻し、無表情のまま自分に近づいてくる姿で。


「おめえさんが会うと決めたんだろう。突っ立ってねぇでちゃんと付いてこい」



 ぽろぽろと落ちる涙が、否応なしに土方の着流しへ染み込んでいく。


 逞しい胸元から聞こえる落ち着いた鼓動は不安や恐怖に寄り添ってくれるもので、それに合わせて更紗もゆっくり息を整えていき。


「……すみません。もう…大丈夫…」



 抱き寄せられていた腕を解き、自分の指先で涙の雫を拭き取れば、その男は返答する代わりにポンポンと頭を撫で、何事もなかったかのように歩き出す。


 そのさり気ない優しさに救われた気がした更紗は、触れられた髪を掻き上げると、気を引き締めて暗闇の中を歩いて行った。

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