第2話
「ダーツって、一体何のためにやるんだろうな? 全然面白くもないし、真ん中に当たったからって何か良いことがあるわけじゃない。せいぜい女の子が喜ぶくらいだ」
爆弾が納屋を木っ端微塵にしてしまうような言葉を、犬は苛苛しながら吐き出した。
カウントアップをきっちり十回もやっておいて、今更その台詞はどうなんだろうか。それにその台詞をダーツバーで言ってしまうともともこもないだろうし、このダーツバーのアイデンティティそのものを崩壊させてしまうような気がした。
僕はもちろん、その気の利いてもおらず、うまくもない台詞を聞き流した。
「おい、一度も俺に勝てなかったからって不貞腐れんなよ。それにお前のしょんべんみたいなダーツの投げ方じゃ、女だって喜ばないぜ」
王が大声でがなるように言い、その後豪快に「がはははは」と続けて笑った。古いアニメに出てくるような、悪者の笑いそのものだった。
「何だと、お前は体がでかいから的が近くなっているんだ」
「自分の腕の短さを呪えよ」
二人はその後も、不毛な何も生み出さない言葉のやり取りを続けていたが、僕はその光景を黙ってみていた。
いつもの光景だった。
寸分たがわず、定規できっちり測って作った張りぼてのような同じ光景。
同じような毎日。
この頃、僕は日々垂れ流されるモラトリアムをそんなふうに考えていた。
夏休みの初め、僕達は駅前のダーツバーに集まっていた。
僕たちの通う大学からは離れていたが、この東京の西部の田舎町には、大学の生徒達が多く住んでいた。
犬も、王も、もちろん僕も。
特にやることもなく、目的もなく集まり、その日を怠惰に過ごす。
それだけが日課だった。
ダーツバーには僕達の他に客はいない。
六台ほどのダーツマシーンが甲高い音機械音を立ててせっせと客の呼び込みをしていたが、稼動しているのは僕達のダーツマシーンだけだ。そもそも、夕方の四時から酒を飲んでダーツをやる人間なんてそうそういなし、いたとしたらろくでもない人間に決まっている。僕達みたいに。
背の高いテーブルには、汗をかいたコロナビールの瓶が三本、夕暮れに染まった煙突のように仲良く並んでいて、その中身は空っぽだった。
これで何本目だろうか?
もちろんそんなこと覚えちゃいなかった。
犬と王は、まだ下らない泥の投げ合いみたいな言葉のやり取りを続けていて、そろそろ僕は本気でうんざりし始めていた。水掛け論やいたちごっこは、僕を本当に憂鬱にさせる。そして空っぽのコロナビールの空き瓶も。僕は手を上げてバーカウンターのマスターに声をかけた。
「ウォッカをトマトジュースで割ってレモンを落としてほしい」
「あいよ、お二人さんは」
二人はコロナビールの追加を頼んだ。
「なぁ、普通にブラッディメアリーを注文すればいいだろう。何で面倒くさい頼みかたをするんだよ?」
王が尋ねた。そういう台詞も僕はとてもうんざりする。これだか中国人はデリカシーがないと言われるんだ。
「別に、こう言ったほうがレシピを確認しながら真面目に作るんだよ。前にバーテンダーの知らない名前のカクテルを頼んだら、猫のしょんべんが混ざってことがあったんだ」
「まじかよ?」
もちろん嘘に決まっている。王はこういうところは純粋というか、世間知らずだから助かる。
「嘘に決まってんだろ。第一、犬猫のしょんべんなんてバーのおいてあるわけないだろ、馬鹿」
犬が余計なことを言うと、王が目の色を変えて「どうなんだよ?」と食って掛かってきた。
「ご想像にお任せする」
僕はそれだけ言うと、ウェイターが運んできたブラッディメアリーを一口飲み込んだ。
相変わらず不味い。
カクテルって何でこんなにも店ごとに味が変わるんだろう? 大体似たような材料を使っているはずなのに、本当に猫のしょんべんの味がした。
「もう一ゲームやるかい?」
犬は先ほどの言葉など忘れてゲームの提案をした。言葉に責任感がないのは毎度のことだった。彼はそもそも言葉というものを、その場を埋め合わせるためだけの、タバコの煙のようなものだと本気で思っているのだろう。彼がタバコを吸わなくて本当に良かったと思っている。そんなことになれば、煙で前も見えなくなってしまうだろうから。
僕と王は目配せをした。一番下手糞の癖にダーツをやりたがるのは、いつも犬だった。
「もういいよ、今日の飲み代は稼いだし」
「そりゃそうだ」
僕が言うと王が続いて大声で笑った。
がははははは。
「じゃあ、どうするよ?」
犬がすねたように尋ねる。
「酒を飲む」
「そりゃそうだ」
がははははは。
いつもの光景だった。
僕達はボックス席に移ってからも酒を飲み続けた。二人は更にコロナビールを浴びるように飲み続けて、途中で店のコロナビールが切れてしまうとバドワイザーに変えた。僕は少し抑えながら、ブラッディメアリーをちびちびと飲んだ。全員が酔っ払うとろくなことが起きない。僕はそれを経験則で学んでいた。酒は飲んでも飲まれるな。
「なぁ、俺達これからどうするんだよ?」
「酒を飲む」
「そりゃそうだ」
がはははは。
「違うよ。将来のことだよ」
犬が声を荒げるように言ったが、呂律が回らなくなり始めていたので、なかなかその言葉を理解できなかった。
「お前はどうせ親父のところで秘書でもするんだろう?」
「止めてくれ」
犬はテーブルを叩きながら大声で言い、王の言葉を皆まで言わせずに制止した。
犬の父親は地方の選出の国会議員だった。目立った議員ではないが、それでも地元で犬飼といえば知らぬものはいない由緒ある家柄だった。有力者の父は肩で風を切り、威張り散らして地元を闊歩していると、以前犬は忌々しげに語った。二世議員の息子で長男の犬は、自分が三世になることを本気で嫌がっていて、「だから逃げるように東京の大学に入学した」と出会った時から何度も語っていた。
「俺はもっと有意義で自由なことがしたいんだよ、みんなが幸せになれるようなそんな素敵なことが」
「それは何だよ? 音楽も絵も、小説も全部中途半端で止めてきただろうが。何も実らずに、結局残るのは金と女だけ。未だに親の脛を齧りつくしていてよく言うぜ」
「何だと、今は別のことを考えてる」
「それは何だよ」
「貧しい子供達のために井戸を作ろうと思うんだ」
「馬鹿かよ。まずは自分の井戸を掘りな」
再び二人の泥の投げあいが始まった。だが、今回は確かに王の言っていることに一理あった。犬は大きくて素敵な夢や大志や展望を抱いては、直ぐにそれを諦めてしまい、挙句の果てには自分とは毛色が違うし、自分の才能をここでは消費できないと、常に言い訳を並べていた。膨らませた風船を針で突いてしまうみたいに、いくつもの夢が膨らんでは消えていった。
出会った頃からの一貫した僕の犬へのイメージは、気楽な夢想家と言ったところだった。
「じゃあ、王は何考えているんだよ?」
「俺はまともに就職するぜ」
「どこに?」
「商社、証券、銀行あたりだな。もういくつか内定をもらってる」
「随分お堅いことで」
王は在日の中国人で、小学生の時に家族に呼ばれて日本にやってきたらしい。僕らよりも一つ歳が上で、何故浪人したのかと尋ねると、小学生を一度留年していると語り、僕らを大いに笑わせてくれた。それ以降も、時折そのネタで僕達は盛り上がる。中国人らしく向上心が高く、我が強い、体も大きいし声もでかい、何でもかんでもが傲岸不遜で傲慢な男だったが、勉強は確かによくできた。恐らく今並べた業種にも、難なく就職できるだろう。そんな男がよく犬みたいな男と仲たがいもせずにつるんでいるなと、僕は一時期真剣に考えていたが、結局その答えは見つかることなく、二人はとにかく馬が合うという変わらない事実だけが残った。
「お前はどうするんだよ?」
「そうだ、就職活動まともにしてないだろ?」
二人の関心が僕に移った。やれやれ。僕は溜息を落とした。
僕は自分の話をするのは得意じゃないし、そもそも自分を語る言葉すら持っていない。だから今頃になってこんな文章を書いている訳で、この時もどうしたものかと本気で苦心していた。
僕は勿体つけたようにブラッディメアリーで喉を潤してから口を開いた。
「世界を回るよ」
いつも軽い冗談のつもりだった。
だけど、僕はこの時言葉というものの力や、そこに秘められたある種の重力だったり、呪いのようなものを理解していなかった。綸言汗の如くとはよく言ったもので、一度口に出した言葉というものは、形を持って現実となってしまうものなのだ。古来より言葉には魂が篭り、それを言霊と言う。僕の言葉も間違いなく言霊の一つになった。
二人は訝しげに僕を見つめて更に追及する。その目がぐるぐると、目の前で指を回されたトンボのように動いていたので、二人は完全に酔っ払っていると思っていた。
「去年、大学の関係で知り合った戦場ジャーナリストがいてさ、アルバイトがてらに仕事を手伝ったんだよ。そうしたら卒業したら俺と一緒に世界を回らないかって誘われて、それも悪くないと思っている」
本当の話だったが、最後の部分だけ嘘だった。
「そっかぁ、それはすげぇな」
「ああ、驚いたぜ」
二人の言葉は弾けては消えていくビールの泡のように、僕の心の中からも消えていった。どうせ飲みの場で話した下らない戯言だと思っていたし、本気で信じていた。
ダーツバーを出ると、犬は直ぐに駆け足で電柱の前へ行き、しゃがみこんでその場で嘔吐した。マーキングする野良犬よろしく、げーげーと吐瀉物を撒き散らす姿を見て、僕は首を横に振りながら自動販売機でミネラルウォーターを三つ買った。
「大丈夫か? 折角の酒がもったいねーな」
嘔吐している犬の隣に立ち、笑いながら立小便をしている王は大声で笑った。二十歳を過ぎて平気で外で立小便をするその振る舞いには、大国の威信も面子も感じられなかった。
僕は二人にミネラルウォーターを渡した。王はそれを礼も言わずに受け取るとがぶがぶと飲み干し、犬は力の入らない手でキャップを何とか開けると、ミネラルウォーターで口の中をうがいした。
「さぁ、これからどうしようか?」
僕は皮肉っぽく二人に尋ねた。時刻は夜の二十二時を回っていて、湿っぽい空気とドロドロとした夜の闇が見下ろしていた。
「もう勘弁してくれよ。今日はもう無理だ」
犬は両の手を上げてお手上げのポーズをした。
「俺も明日は就職活動で忙しい。悪いな」
どうやら宴もたけなわのようだった。一本締めもせずに、二人は同じタクシーに乗って帰路に着いた。
帰りのタクシーに乗る際、犬は「明日暇か?」と尋ねたので、「もちろん」と答えると、「見せたい物があるんだ」と続けた。僕達は明日の約束を交わして別れた。
東京の端っこの繁華街で一人ぼっちになった僕はとくに当ても無く街を歩いた。
僕の借りているアパートまでは、最寄の駅から歩いて二十分もあれば着いてしまうだろう。帰るには早すぎる時間だし、もう一件寄るには些か酒が入りすぎていた。
僕は誰に電話をかけるでもないのに、ポケットから携帯電話を取り出し電話帳を眺めた。古臭い機種の、まだ伸びるアンテナのついた赤色の携帯電話の電話帳には、百八十件ほどの人間、家族、友人、親戚、先輩、後輩等が登録されているが、そのほとんどは電話番号とメールアドレスを交換して以来、一度も電話をかけていないし、かかってきていない人間ばかりが大半を占めていた。本当に必要な人間の電話番号なんてものは、ほんの数人しかいなかった。もしかしたら一人もいないのかも知れない。いつでも繋がっている、電波の赤い糸で結ばれているというだけで、僕達は満足で幸せなのかもしれなかった。
僕はそんなことを考えるたびに、明日こそこの携帯電話を解約してやろうって思い、決心するけれど、今まで一度もそれを実行したことはなかった。何故か分からないけれど、この携帯電話を手放すことが、もう現代の僕達にはできなくなっていた。電波に支配され、心までも囚われてしまっているのかもしれない。
以前、王が携帯電話をなくした時のことを思い出した。大学内のカフェテラスに数人のグループで集まっていた時、ひょんなことから席を離れることになった。確か、四、五人の女子のグループを見つけて話しかけていたんだと思う。たいした成果もなく席に戻ると、さっきまでテーブルに置いていたはずの王の携帯電話が、みんなが少し目を話した隙に行方不明になっていた。直ぐに電話をかけたが圏外で、この世界の裏側に落っこちてしまったみたいに、もの悲しいアナウンスだけが響いた。王は手当たり次第の人に詰め寄って自分の携帯電話を知らないか尋ねて回り、僕達もそれに付き合うことになった。放って置いたら、その場にいる全員を殴り飛ばしそうな剣幕だったからだ。結局、一時間たっても二時間たっても携帯電話は見つからなかった。携帯電話は完全に消失してしまった。
そしてそれから暫く、王はずっと浮かない顔ですれ違う人すれ違う人を睨みつけては、あいつが俺の携帯を盗んだ、きっとあいつがパクったんだと、いらぬ疑いをかけていた。まるで親兄弟を失ったように嘆き悲しんでいる王の姿を、僕は嘆かわしく思ったものだ。たかが携帯電話じゃないかと。
しか、しあの時、僕も本当に何故携帯電話がなくなったのか不思議だったので、ずっと心の片隅にその出来事を書きとめておいた。靄がかったままのその事件が、僕の中では奥歯に物が詰まったように気持ち悪く、いつも爪楊枝に手をかけようとして躊躇ってきた。爪楊枝に手を伸ばせば次ぐにでも取れるはずなのに。
僕の携帯電話が無言で振動した。
画面には意外な人物の名前が表示されていて、僕は直ぐに電話に出た。
「もしもし、今大丈夫か?」
低く聞き取りづらい声で尋ねられ、僕は大丈夫だと答えた。
今からどうしても話したいことがあると言われ、それも大丈夫だと答えた。
いつものバーに三十分後にと言われて分かったと伝えた。
今ならどんな注文をつけられても了解したと思う。
マジな話、それくらい手持ち無沙汰で人恋しかった。
じゃなきゃ、二十分間も電話帳を見つめたり、最近の着信履歴を眺めたりなんてするわけない。二十件しか入らない僕の着信履歴の二十番目は、何と一ヶ月も前だった。それだけ。
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